・ 公費支出するのだから、公的機関、つまり国家組織がその使い道を決める必要がある。そういう論理がある。これをどう考えるか。
最後にこの難題に答えねばならない。
他の領域とのバランスなどを考慮する必要があるとしても、一般的に国民の多くは教育費を増額することについては、賛成すると思われる。特に現代社会では、教育は単に学校にいっている時期だけではなく、生涯必要になっているから、すべての国民にとって当事者性がある。
さて、教科書無償制度が導入されたときに、それまで学校単位で使用する教科書を決めていたのに、採択区という複数の市町村が集まった単位で決めるようになった。最終的には、市町村の教育委員会が決めるわけである。(ただし、私立学校や国立の学校は、学校単位が現在でも継続している。だから、私立や国立では、ユニークな教科書が採用され、話題になることがある。)教育的には、使用する教師が選択するのが最善であるのに、何故行政当局が決定するようになったのか。表向きの理由としては、
・公費を支出するのだから、公的機関が決めるのが当然である。
・専門家が決めたほうがよい判断が可能だし、秘密が守られるので、教科書会社による営業活動(汚職)が防げる。
だいたいこのふたつが説明されていた。教科書関連の汚職は、いまでもときどきニュースになるから、理由にはならないだろう。やはり、中心は、第一の公費だから公的機関、つまり、お金をだす主体が決めるという論理の妥当性である。
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