今回で「教育委員会」は最後とする。
現在、公選制教育委員会の復活をもとめる明確な主張は、あまり存在しない。あまりにも長く、任命制教育委員会が続いてきたこともあるだろう。しかし、やはり、その根底には、アメリカ民主主義との風土的相異のために、日本には、公選制が根付かなかったと思わざるをえない面がある。アメリカの公選制教育委員会は、「公選」「選挙」によって選ばれる唯一の組織ではなく、他の分野にもあるのだということは、考慮しなければならない。日本では、地方公共団体を、単純に地方自治体と称して、同じものの違う呼び方のようになっているが、アメリカでは、地方公共団体(政府・行政機構)と自治体とは違うものである。自治体とは、ある領域の住民が、自治体であることを住民投票によって議決し、自治体としての条件を整えて運用している行政機構のことをいう。そして、現在でも、たまにではあるが、新たな自治体が生まれている。つまり、自治体ではない行政区域でも、また自治体の行政区域でも同じだが、そのなかの一定の領域のひとたちが、別の自治体になりたいと思って、住民投票で賛成となれば、あらたな自治体が生まれるわけである。近年では、比較的大きな行政区域のなかに、地域的な貧富の差があり、豊かな地域の住民が、自分たちの払う税金が、貧しい地域に過度に費やされると、それを嫌って、豊かな地域でまとまろうとして、新たな自治体をつくろうとするような例がけっこうあるとされる。
そして、こうした自治体は、一般行政だけではなく、専門的な行政に関しても、実施されるのである。もちろん、それも一種の自治体である。教育に関しては、そうして成立した自治体が「学区」であり、公選の教育委員が運営責任をもつ。水、検事など、選挙で選ぶ委員会が他にもあるが、水などは、自治体になっているところは、少ないようだし、一般行政の区域とは、異なる区域設定なっていることが多いと思われる。検事が選挙で選ばれるといっても、区域のトップだけであり、その区域は比較的大きな行政単位と一致している。
大事なことは、近代社会になって成立したアメリカ合衆国では、その直民時代から、決定が必要なことは、住民の意思、投票によって決めてきたという「伝統」があることである。そして、その伝統は、現在でも生きている。だから、公選制教育委員会という制度が維持運営できるともいえるのである。
しかし、日本には、代表を選んで、その代表に一定期間運営監督を委ねるという政治的風土は、まったくといっていいほど形成されなかった。もっとも、そうしたシステムが広く根付いている国は、アメリカだけである。それ以外の国では、国家が成立したあとは、権力を握った者が、統治し、統治のために必要な人間を権力者が選んできた。身分制社会が確立すれば、そうした人材が世襲で再生産された。
近代になり、民主的政治が導入されると、国の方針を決めるひとたち(議員)を選挙で決定するシステムは普及し、また、行政トップに限定して選挙するシステム(大統領制)もある程度導入されたが、個別領域を別の選挙で監督者を選ぶようなシステムは、アメリカ以外では発達しなかった。日本も、そうした一般的な例に属する。したがって、さまざまな領域別に、選挙で責任者を選ぶことが、日本社会になじむためには、その前段階が必要であるように思われるし、また、その必要性が認められるかも、疑問である。
教育に関しては、ある行政単位としての地域の範囲について、何か決定することが本当に妥当であるかも、検討の余地がある。前に述べたように、私は学校単位で教育が異なってよいと考えているので、数校から数十校の学校のことを、住民が選んだにせよ、その委員会で決めることが妥当だとは思わない。もちろん、どこまで決めるかは、必ずしも固定的ではなく、学校自治に多くを委ねて、教育委員会は条件整備に徹するというのであれば、わざわざ教育独自の公選の委員会を設定する必要はなく、一般首長の事務として行っても、なんらさしつかえない。しかし、議員や首長の選挙は、個別の政策については、それほど重視されず、とくに教育問題が選挙の争点になることはあまりみられない。だから、選挙に勝ったからといって、その組織の教育政策が信任されたというのは、多少留保して考える必要がある。当選した議員は、通常なんらかの委員会に属するのだから、そのことも含めて公約にいれる義務をもたせることも考えられる。自分は、当選したら、どの委員会に属して活動するつもりであるか。そして、その際の公約は「・・・」であるというように。そして、そうした公約を掲載していなければ、その委員会への所属を認めないということにする。そうすれば、教育に関心のある有権者は、文教委員会に所属する意思のある人の教育政策を予め、それなりに詳細に理解することができる。また、そうした形での選挙であれば、個別分野における有権者の意思も、おおざっぱではあるが示されることになる。
形態はさまざまであってよいが、やはり、民意が示される行政が必要であることはいうまでもない。