不祥事と上映問題を考える 「緊急取り調べ室」

 猿之助が出演している映画「緊急取り調べ室FINAL」が、とりあえず上演延期になった。報道によると、役者を変えて、その部分だけ取り直しをするのだという。その部分だけといっても、重要なゲスト出演の役、つまり、準主人公みたいなものだから、たぶん出場場面もたくさんあるだろうから、かなりの負担となるだろう。
 このような出演者による不祥事のための作品、とくに映画やテレビドラマの中止、延期問題は、毎年のように繰り返されている。そして、賛否両論メディア、ネットを賑わせる。難しい問題だが、ここで書く以上の効果を期待しているわけではないが、ひとつの見解を表明しておきたい。
 
 結論を最初にいえば、少なくとも、出演者に不祥事があったとしても、上映中止にする必要はないということだ。ただし、今回は延期であって中止ではないので、また別の判断が必要だし、単なる延期ではなく、取り直しということなので、そのことによる問題が発生する可能性もある。

 
 まず、こうした不祥事があると、中止にするのは、「標準」なのかということだが、アメリカなどでは、通常は上映中止になることはないといわれている。だから、国際的標準とはいえない。では、何故日本では、中止になることが多いのか。それは、制作費用の負担に帰着する制作主体の問題なのだという。アメリカでは、制作する側(監督や映画会社)が責任をもって制作を行い、スポンサー等の資金援助を得るにしても、スポンサーが制作に発言権をもって参加することは基本的にないのだが、日本では、スポンサーも含めて出資者たちが制作委員会をつくって、そこが責任を負う形で制作されるというのだ。映画の場合だが、テレビドラマの場合は、委員会ではなくても、スポンサーの意向は、もっと直接的であるに違いない。
 つまり、映画制作会社ではない企業が、スポンサーとなるだけではなく、制作、つまり上映も含むプロセスを管理するために、企業イメージが極めて重要な意味をもつというのである。端的にいえば、ある出演者が不祥事を起こしたが、その出演者は、スポンサー企業でCMに出ており、出演者・不祥事・CMという連想で、商品不買運動などがおきてしまうことを、非常に恐れるというわけだ。つまり企業イメージと、それに対する消費者の対応が、大きな要因となって、中止になると考えられている。
 逆にいえば、消費者が、不祥事をその役者個人の問題としてとらえることが、社会的多数であれば、スポンサー企業も、それほど神経質にならない可能性がある。
 
 さらにアメリカとの相異は、テレビと映画の評価の違いがあるという。よくいわれることだが、日本では、テレビの人気が重視され、映画はその延長上、より端的にいえば、付随的であるが、アメリカの場合には、映画での人気が重要で、テレビの人気は、映画より評価が低いとされる。それは、映画はお金を払って見に行くもので、テレビは、その番組に対してお金を払うわけではないし、有料のテレビ局であっても、値段は格段に低い。つまり、映画のスターは、お金をとれる存在ということから、評価が高くなるわけだ。つまり、映画を支えているのは、実際に見に行く観客が主体だ。それに対して、日本では、既に映画制作がスポンサーが強く関与するし、テレビは、スポンサーと一体にイメージが形成される。
 こうしたイメージが大きな力をもつと、ハラスメントなどが問題になっているときには、被害者の訴え、加害者がでている映画はみられない、許せない、という感情に同調する感覚が強くなる。
 とくに被害者の発言は重みをもつ。
 
 以上のことを考えたうえで、私は、ある一人の不祥事のために、作品全体が上映できなくなることは、おかしいのではないかと思うのである。ある特定の出演者の不祥事は、その人の問題であって、それをスポンサーにつかっている企業や、あるいは登場人物として採用した映画制作者の責任では、まったくない。連帯責任論がネットで、けっこう語られているが、私は、連帯責任論などは、時代錯誤であると考えるし、そうした感覚からは、できるだけ卒業すべきではないかと思う。責任がどこにあるのかを明確にする意識があれば、責任がない人にも、責任を負わせる感覚から解放されるはずである。CMにあるタレントがでていて、そのタレントが好きだから、その製品がいいものであるに違いない、などと考えるとすれば、それは錯覚といわざるをえない。スポンサーは、製品のイメージをよくするために、イメージのよいタレントを使うが、それはあくまでもイメージであって、製品の本当のよしあしには関係がないことは明らかだ。企業がイメージを重視することは理解できるが、消費者は、もっと製品自体をきちんと評価できるような目こそ必要なはずである。
 
 また、被害者は、加害者本人に対して、責任を問えばいいのであって、莫大な賠償金を求めるのもよいし、また刑事告訴するのもいいだろう。しかし、加害者とは無関係な映画の出演者の権利を奪うことは、その人が加害射的立場になってしまうことになる。加害者本人を責めることは、当然のことだとしたも、加害者を除いたひとたちの権利を奪う権利はないはずである。映画やテレビのドラマは、みたくなければみなければよい。
 
 今回の取り直し、あるいは没にした場合、もし仮に猿之助が不起訴になったり、無罪になったときには、逆に猿之助に損害をあたえたことになり、猿之助が損害賠償を求めることだってありうる。
 もちろん、こうした点は、また別の面として、日本のこうした制作現場では、出演者と詳細な事態を想定した契約を結ばないということがあると思う。アメリカの場合、映画に出演する契約をする段階で、不祥事を起こした場合の措置などについても、おそらく決められているのだろうと思う。私自身、もちろん、映画にでたことはないが、テレビに文化人として解説のためにでたことはある。しかし、一度も「契約書」などは書いたことがない。すべて口頭の約束だった。たいしたことをしゃべるわけでもないから、それでいいと思っていたが、映画の出演などについては、こうしたことは、よく起こることだから、契約として、予め対策を盛り込んでおくべきでもあろう。そうすれば、今回の映画のように、方針決定に戸惑うことなどもなくなるのではないだろうか。
 
 いずれにせよ、少なくとも、映画のような作品に対して、もっと敬意をもってしかるべきではないかと思う。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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