五十嵐顕考察17 教育委員会2

 日本への教育委員会制度の導入は、明らかにアメリカ占領政策によってであった。おそらく、日本人の間では、公選制の教育委員会という発想は起きなかっただろう。
 もう一度、アメリカの教育委員会制度の特質を確認しておこう。
1選挙によって選ばれた市民の代表として、教育行政の決定を行う。素人であることが前提である。
2決定と執行の両方の権限をもっている。
3独自の収入をもち、予算への権限をもっている。
4行政専門官として教育長がおり、事務局が事務を行う。
 これが日本に導入されたとき、十分に採用されたのは1だけだったといえる。確かに、当初教育委員を選ぶための選挙が行われていた。

 しかし、教育計画をたてたり、それを執行する権限は不明確だった。当然、計画をたてるためには、経費が必要だから、予算の決定と執行する権利がなければならない。だが、日本の教育委員会には、独自の収入は存在しなかった。予算については、他の領域よりは優遇されていた。というのは、予算案を作成し、もし首長サイドが修正を要求してきたら、修正に応じてもよいが、応じられないときには、独自に教育委員会案も議会に提出することができるという権限があった。つまり、予算案が二本でてくるわけである。これが、首長サイドから大きな不満をもたれ、教育委員会制度そのものが修正されていく、もっとも大きな要因になった。
 教育長については、専門職とするために、主に旧帝大の教育学科に養成コースを設置した。代表的には東大の教育行政学科である。しかし、全国の教育長をその程度の養成コースでまかなえるわけがなく、結局、教育長が専門職であるというのは建前としても、かなり早期に無実化してしまった。現在でも、教育長は、現場の教師(校長)あがりのひとや、事務局としての教育委員会からの採用、あるいは、公務員の横滑りのかたち等、多様である。校長経験者が教育長を務めている場合は、専門家としての要素があるが、それ以外はほとんど事務職としての位置付けといえる。
 
 教育委員会を選挙で選ぶことについては、さまざまな見解があった。もちろん、民主化の象徴として歓迎するひとたちは多かったに違いない。しかし、選挙をすれば、どうしても政党が大きな力をもち、かえって、政治的に中立であるべき教育行政が、はっきり政治的勢力に支配されるのではないか、という批判があった。これは、主に保守的なひとたちから発せられ、この場合念頭に置かれていたのは日教組であった。日教組は、では、全面的に公選制教育委員会に賛成していたかというと、必ずしもそうではなかった。とくに、市町村教育委員会では、地域ボスが教育を支配するのではないかという危惧が、日教組やそのイデオローグ的なひとたちからはだされていた。
 
 私が大学の教育行政学科に進んで、五十嵐教授の講義を受けたとき、公選制教育委員会の話をしていた。それを鮮明に覚えている。確かに、政党や組合のバックアップで教育委員に当選してくるひとが多いから、保守的なひと、革新的なひとと同居していることがおおかった。すると、なかなか議論がかみ合わず、何も決められないような状況になっていたかというと、そういうことはあまりなく、結局、当時教育施設等があまりに貧弱だったから、地域の教育にとって必要なことは、だれにも明瞭であり、とにかく、校舎が必要だ、教材もちゃんと整備する必要がある、教師も揃っていなければいけない、そういうことに、政治的対立などは生じる余地はあまりなく、学校の教育をよくしたいという目的を追求しているのだから、厳しい対決などはなかったのだ、というのが、講義でいわれたことだった。五十嵐教授をはじめ、何人かの調査団が、富山県にはいって、直接教育委員たちと面談し、詳細な実地調査をしたのであるが、そのときの経験を話してくれたわけだ。つまり、教育史にはいろいろ書かれているが、もっとも基本的な教育委員会の役割である、教育条件をよくすることについては、政治的見解、社会的位置を超えて、協力しあう関係が築かれているところが、少なくなかったのである。
 
 しかし、もっとも大きな不満は、首長サイドから発せられたといわれている。当時の教育条件は著しく悪かったし、なんとかそれを改善したいと思えば、おそらく誰でも多額の教育予算を要求しただろうし、簡単には削るわけにはいかなかっただろう。予算案というのは、調整されて首長の部局から議会に提案されるものである。しかし、教育関係だけは、別の予算案が提案されるのだから、首長たちにとってみれば、やりにくいことこのうえないだろう。そうなった場合の調整ルールは明確ではなかったから、議会は混乱したに違いない。しかも、悪条件に苦しんでいたのは、何も教育分野だけではなかった。都市の多くは爆撃をうけて破壊されていたのだから、生活そのものが困難なひとたちが大多数だったのである。
 そうして、教育委員会の構造そのものを変えてしまうような改変がなされることになった。もっとも大きく改変だと思われているのは、公選をやめて任命にしたのだが、それに劣らず、独自に予算を提案できる権限をなくすことも、大きな目的だったと考えられる。それが首長サイドの強い要求だったからである。如何に大きな改変だったかは、名称の変更をみてもわかるだろう。旧教育委員会の法は「教育委員会法」という名称だったが、改変されたのは「地方教育行政の組織と運営に関する法律」というものになったのである。名称は教育委員会が継続したが、実体はまったく別の組織になってしまったのである。どのように変わったかは、次回にしたい。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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