五十嵐顕考察19 教育委員会4

 教育委員会について考えるということは、学校単位、地域単位、国家単位で、教育をどのように運営していくか、という問題である。この問題を考える第一歩は、学校がかなりの程度異なった個性をもった存在であることを認めるか、あるいは、社会のなかで、程度の差はあれ、できるだけ共通の形とるべきものかということがある。オランダのように、「100の学校があれば、100の教育がある」という原則が、社会に根付いているとすれば、その運営は、なによりも学校独自の部分が大きく、地方行政や国家行政は、最低限の基準を決め、財政補助にかなり限定されることになるだろう。他方、学校教育は社会共通であるべきだと、という原則であれば、教育内容の基準、教員養成機関、視察等々に、行政が深く関わることになる。もちろん、その中間的な形態もある。
 また、別の側面として、初等・中等・高等教育という三段階が存在することは、歴史的に形成され、現在でも国際的に採用されている段階区分になっていると思うが、そうすると、当然初等から中等、中等から高等教育への進学を、どのように行うかということの問題がある。これは、最初の問題の如何にかかわらず、発生する問題である。そして、常識的にみて、上級にいくにしたがって、人数は減少するから、希望しても上級にいけない者がでてくることになり、なんらかの選抜が必要となる。

 この選抜は、極めて大枠でいえば、下級が卒業認定することで、上級に進学できる方法と、上級が進学志望者をなんらかの方法で選抜試験を行う方法がある。そして、どちらにしても、国家的な制度として成立させる必要があり、運用が地方的に多少の違いがあっても、公的制度としては、国家的に統一されているのが通常である。国家の行政の機能となるだろう。審議は国会で行う。
 もうひとつの側面は、教育を独自の行政機能としての独立形態を認めるか否かということがある。アメリカの「学区」は、一般行政とは異なる区域として編成される、一定独立した行政区である。それは前回指摘した通りである。アメリカは、教育だけではなく、水道、検察など、独自の選挙で選ばれる組織があるが、これも、区割りは一般行政区とは、必ずしも一致していない。アメリカは、行政区域にしても、自治体と自治体でない区域がある。しかし、そうした制度を採用している国は、アメリカ以外にはあまり見当たらないので、ここでは考慮の外に置こう。
 
 さて、第一の問題であるが、私は、学校自由派なので、教育行政は、教育内容については、極めておおざっぱな大綱的だけを決めて、あとは、地方は、住民の就学管理や定期的な視察をする、そして、国家的には、教育制度の国家的枠組みを決めることと、財政補助が主な仕事になると考えている。もちろん、学校がそれぞれ独自の教育方針をもっているとすれば、学校選択が原則である。そして、教育の民主主義は、個別の学校運営に、関係者が参加することによって果される方法が採用される。地方や国は、それぞれ民主主義的なシステムをもっていることが前提となることはいうまでもない。こうしたシステムが、とくに現代においては、最適であると、私は考えている。当然、独自組織としての教育委員会などは、不要である。
 後者の立場になると、教育行政の役割は当然大きなものになる。教育内容の基準は、大綱的という以上のものになり、学習指導要領やイギリスのナショナル・カリキュラムのようなものを策定する必要がでてくる。教科書についても、国定・検定、あるいはより緩やかであるとしても、なんらかの公的調整が行われることになる。共通内容を各学校で実施するために、財政的な基準と補助が必要となるだろう。教員養成、採用についても、広域的に実施されることになる。教員養成のカリキュラムなどは、ほとんどの国で国家的に統一的になっていると思われるが、採用は、この後者の立場でも、学校採用から、地域採用(この場合転勤がある)までありうる。
 さて、この後者は、私は支持していないので、論じにくいのであるが、日本は後者なので、今の制度をどのように考えるか、検討していこう。
 教育は、基本的に教育を受ける者のためにあるのであって、教育を受ける者にとって最適の教育が実現したとき、国家・社会にとっても有益な状況が実現すると考えるべきである。したがって、学校運営に関係者の民主的な係わりのシステムが保障されることはもちろん、地方・国の行政においても、住民・国民の意思が反映されるシステムが必要である。学校の運営は、まったくそうなっていないが、別に検討することにする。国は、実態はどうあれ、立法機関の国会議員が選挙で構成されており、議会に文教委員会が存在しているから、制度的には民主的な仕組みは備わっているといえる。学習指導要領の作成、教員養成の仕組みと運用等は、国の事項になるだろう。
 問題は地方である。都道府県も市町村にも、議会の文教委員会という住民の選挙で選ばれ議員によって構成される委員会があり、議決機関としての議会に提案する内容を審議する。そして、首長によって任命される教育委員会が、別の審議機関として存在している。単純化して構造化すれば、審議機関は文教委員会に一元化して、審議機関としての教育委員会は廃止する方向と、審議機関としての「独自権限」をもった教育委員会を、より機能しやすく再構成することが考えられる。後者であるとすれば、首長が人選するのは、あまりに民意を反映しないといわざるをえないので、教育にかかわる各組織の代表によって構成される教育委員会なら、実動的なものになるような気がする。学校管理組織(校長会等)、教職員組織(組合)、社会教育団体、児童福祉組織等の代表と議員の代表で構成される委員会であれば、民意の反映という点では、効果を期待できる。教育長の指導性が重要になるが。
 もちろん、これらの案と異なって、公選制の教育委員会を復活することも、考えられる。 (つづく)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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