五十嵐顕考察14 勤評闘争2

(アップしていたと思っていたために3をアップしたが、まだだったので、アップする)
 愛媛県は、財政再建のために、教師の給与をカットすることにしたが、一律カットではなく、カットする者としない者を分けることにした。表向きは、当然優秀な教師とそうでない教師、つまり、教師として不十分である者をカットする、ということだろうが、実際には、組合員を狙い撃ちにして、組合の攻撃に使ったのである。これは、当事者たちには、疑いのないものとして理解されたのだろう。
 実は、私が中学時代、生徒会の役員をしていたが、顧問の教師が二人いて、二人は、役員の生徒たちがいる前でも、いつでも異なる意見を述べて、生徒たちを混乱させていた。そのうちに、われわれは、独自に考えるようになったという意味では、よかったのだが。そのひとつがスポーツ大会で、例年ソフトボールとバレーボールで、全クラス対抗のスポーツ大会をやっていたのだが、私たちが役員の年は、教師たちから、グランドと時間の関係で、この競技はできないと言われて、では何をやるかと、散々議論した結果ドッチボール大会にしようということになった。ところが、有力教師と言われる人が、猛反対しているという噂が入ってきた。ドッチボールなど小学生の競技だというわけだ。そこで、大きな本屋にいって、ドッチボールの本を買ってきて研究したところ、大人の競技としても認められていることを知り、けっこう不満もあったが実施した。猛反対した教師のクラスが優勝したので、ご満悦だったという話をきいた。

 余計なことを書いてしまったが、二人の顧問教師は、一人が教頭をめざして、管理職試験の勉強に余年がなかった教師で、もう一人は熱心な組合活動家だったのである。卒業後、家が近かったこともあり、組合活動家の教師とよく話すようになり、自分は組合活動家なので、勤務評定が悪く、いつも昇給が最後なのだ、といっていた。つまり、東京でも、勤務評定を昇給の手段としてつかっており、組合員であることが、第一のマイナス点だったのである。その教師は、生徒の側からみて、教える力も、熱心さも、また、部活の顧問や行事での指導等、あらゆる点で優れていたし、生徒たちの人気もあった。けっして体罰などをしないために、信頼もされていた。他方、教頭をめざしていた教師は、人当たりはよかったが、専門的力がどうみても低く、覚えていることとして、国語の教師だったのだが、ある文章の設問に、「翻訳調の文章を指摘しないさい」というのがあり、「ここがそうだよ」というから、「その文のどういう点が翻訳調なのですか」と質問したところ、単に読んでみて、ほら、ちょっと翻訳っぽいだろ、という答でお茶をにごされてしまった。そのときには、すっきりしないだけだったが、高校になって、要するにあの教師は、翻訳調とはどういうものか、きちんと把握していなかったのではないか、だから、教師の手引きに頼って、文を指摘するしかできなかったのではないかと気づいたわけである。
 もし、本当に教師としての力量や成果を判断基準にしているならば、この場合、組合教師のほうが高くなければおかしい、少なくとも、生徒たちは、ほとんど、そう思っていたに違いない。
 
 勤評が日教組を潰すために、実行されたことは明らかであった。だから、日教組は、全組織をあげて、反対運動を行い、それを地域のひとたちに訴えた。単に、教育委員会や文部省への抗議活動に停まらない運動だったといわれている。
 五十嵐氏の勤評に関する論文も、勤評が組合への攻撃であり、教育に対する国家管理を強化するための手段であり、教育を破壊するものだと、激しい調子で書いている。
 現在の若い教師たちは、ほとんど組合に入っていないし、また、存在も知らない人が少なくないように思われる。そして、日教組ということばは、マイナスイメージで語られるものだという印象をもっているかも知れない。私自身は、日教組と関係をもったことはないのだが(私が所属していた大学の組合は、どの上部団体にも属していなかった)、それでも、教師は労働者だから、組合は必要であり、教師の労働条件の向上だけではなく、むしろ、教育研究活動という点で、大きな働きをしてきたといえると思う。
 ただ、ある時期、といっても、戦後の長い期間だが、文部省と日教組が激しく対立してきたのは、不幸な事実だった。しかし、当初はむしろ蜜月・協力関係だったのである。戦後改革は、文部省と日教組は、ほぼ同一歩調をとっていた。それが崩れたのは、そうした戦後改革を、政府がどんどんなし崩し的に否定した政策をとっていったからである。そして、民主主義的な改革と考えられていた制度を、どんどん国家管理を強める形で改編していった政策に対して、反対運動を強めざるをえなくなって、対立が激しくなり、さらにその結果として、組合を弾圧するようになる。そのために勤評が利用されたのである。このことは、様々な資料から否定しようがない。
 日教組としては、組織が崩壊する危険にも直面したから、必然的に激しい労働紛争という形になっていった。現在からみれば、そうした運動には、欠けたものがあるという部分もあることもある。それは、前回書いたように、教師の勤務評価をどうすればいいのか、ということは、いまだに未解決であり、労働基本権が教師には制限されているが、その問題はどうなのか、労働基本権が完全に認められるべきであるとしても、通常の争議形態が妥当なのか、という、現時点で検討すべき点がいくつもある問題なのである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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