五十嵐顕考察16 教育委員会1

 最近は、五十嵐顕著作集を作成するための基礎作業をずっとやっている。かなり消耗な作業だが、じっくり読むことになって、勉強にはなる。出版社に渡す原稿は、現在ではほとんどデジタルデータだと思うが、古い人の論文や著作なので、だれかがデジタル化しなければならない。それをいまのところ私が一人で引き受けているかっこうだ。OCRの品質という意味では、とにかく日本語は英語などのヨーロッパ語に比較して、とんでもなく認識率が低い。なにしろ、漢字とアルファベットだから、比較することも無理だ。悪戦苦闘していることを、なんとなく伝えたかったわけである。
 
 さて、著作としてまとめられたものは、ほぼ終わっているのだが、その後雑誌論文にかかっている。『ソビエト教育科学』に書いたものをデジタル化し、今は、五十嵐氏が、まだ東大の教師になる前の国立教育研修所(→研究所)の所員として書いたものを作業している。これは、私も初めて読んだので、非常に新鮮である。五十嵐氏が、戦地から1946年に帰って来て、研修所の宗像誠也が助手を探しているというので、でかけたところ、すぐに採用されて、アメリカの教育委員会制度を調べるように依頼されたのが、この道にはいるきっかけとなった。そして、かなり精力的にアメリカの文献を読んで、いくつかの論文を書いた。それが評価されて東大に呼ばれたのだろう。
 
 前回は、勤評に関する問題を扱ったが、勤評とともに、日本の戦後教育史のなかで、大きな問題だったのは、教育委員会制度である。

 ほとんどの国で、小学校などの義務教育は、地方政府の管轄になっている。もっとも地方政府といっても、中央政府との関係で、分権化、自治の度合いはさまざまだが、とりあえず日常的な管理は、中央政府が行う部分は少ない。日本でもそうであった。地方の義務教育を管理する主体は、内務省が派遣した役人が、地方の学務課に配属されて担当したひとたちだった。もちろん現地採用の役人もいただろう。文部省が行っていたのは、主に教科書の作成(戦前は国定教科書だった)と教員養成、つまり師範学校の運営維持だった。だから、日本では地方の学務課が担当しているといっても、内務省によって集権的に管理されていたのである。
 
 戦後、日本はアメリカ占領軍の政策によって、さまざまな改革が行われたが、教育改革はもっとも大きな改革だったといえる。そして、その中心が、地方教育行政を分権化し、かつ、住民に選挙された教育委員が教育委員会を構成して、地方の教育に関する方針を決定する仕組みを導入したわけである。それは、アメリカの教育委員会制度を、日本にも植えつけようとしたといえるだろう。アメリカの教育委員会制度は、なんといっても、アメリカ民主主義教育の典型的な制度といってよい。
 しかし、アメリカ教育使節団の提案によって、教育委員会制度が導入されたが、当初から多くの混乱があったことは確かであり、五十嵐氏の論文を読んでも、特に市町村教育委員会の導入には、むしろ批判的なニュアンスも感じるのである。
 結局、2、3回の選挙をしただけで、任命制に転換させられてしまい、現在に至っているわけだが、任命制への転換が、戦後教育改革を支持する人からすれば、反動的転換の代表的な事例と考えられている。他の多くの戦後改革の修正と同様、改革の行きすぎという理由から、民主主義的要素を取り除いていったわけだが、教育委員会制度については、しかし、いまでも検討しなければならない多くの論点があることは否定できない。そして、五十嵐氏の初期のアメリカ教育委員会制度の調査論文でも、たくさんの形態があり、単純な評価できないことを、強調している。
 
 たくさんの形態があるのだが、分かりやすくするために、最もアメリカ民主主義的な教育委員会の典型的形をまず確認しておこう。典型的なアメリカ民主主義とは、住民の意思によって、決定していくという姿であり、当初は直接民主主義であるが、次第に代議制にはなっていく。植民地時代は住民が子どもたちに教育を受けさせたいと思ったときに、住民が集まって教師を選び、その人に任せた。しかし、次第に町が大きくなり、子どもの数も多くなると、そうした直接性は不可能になるから、教育を管理する人を選挙で選び、彼らにその地域の管理を任せたのである。そして、なにか見解の相違が生じたときには、住民投票で決める形もあった。そして、教育を維持するためには、多額の費用がかかるから、安定的な収入を、教育のために確保するために、教育税というシステムを導入した。多くの場合、不動産税が教育税となっている。このことでわかるように、教育委員会が管轄する「地域」が決まっており、選挙で選ばれた委員だから、決定権をもち、かつ財源をかなり確保していたから、執行権もある。こうして形成された地域を「学区」というのである。(日本の通学区を学区と呼ぶことがあるが、意味はまったく違う。)当初は、これで万事運んだかもしれないが、次第に教育の規模が大きくなり、義務教育の範囲も拡大し、莫大な教育費が必要となると、教育税だけでは賄うことができなくなる。そのために、一般財源も必要となり、そこで、教育委員会と一般行政との関係が、さまざまな形でできてくる。つまり、教育予算を完全に教育委員会が決めて、それを執行するという段階から、教育委員会は予算案を作成して、一般行政・立法の場に提案して承認される形になったのだが、そこで、承認・否決等の扱いに、多様な形態が生じたのである。教育委員会という形をとらない行政区も存在するようになっている。
 
 教育委員会の特徴は、やはり、予算に対する優先権を、なんらかの形でもっていることだろう。五十嵐氏によると、教育委員会が作成した予算案を議会が否決したとき、教育委員会が否決を拒否できる仕組みをもっているところが、少なくないという。ただし、その場合、教育委員の3分の2以上、とか5分の4以上の賛成が再度示されるなどの条件がついている。しかし、こうした余地を残しているということは、教育委員会側にやはり、大きな権限があることを意味している。
 
 こうした教育委員会制度だが、日本ではどのような形で導入されたのかを次にみよう。(続く)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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