教育行政学ノート 道徳評価と入試1

 教育課程や教育内容にかかわる行政を扱ったが、そこで、道徳の教科化に関連し、入試にはどのように扱われるかという問いがあったので、多少調べてみた。

 道徳が教科として動き出している。既に成績をつけた教師もたくさんいるだろう。成績がつけられると問題になるのは、入試でどう扱うのかということだ。これまで文科省は、道徳は入試に使わないようにという、かなり強力な行政指導をしてきた。しかし、長妻議員(民進党当時)が、自分のホームページで、入試に使われるようになるだろう、という批判的キャンペーンをしていたという報道もある。長妻議員は、国会で質問もしており、そのときには、林文部大臣は、明確に否定している。
 しかし、文科省が入試に使わないようにと指導しているからといって、実際に今後使われない保証はないし、また、使うべきだという意見だってあるだろう。そもそも戦前は、修身の成績が、中学入試には大きく影響したと言われているのだ。教育勅語を復活させるべきだというひとたちは、今でも多いのだから、道徳こそ人間評価の中心だと考えるひとたちがいても不思議ではない。更に、そもそも道徳を評価するということは、成績だけで行われているかという問題もある。面接は人物評価をしているわけだが、その中に道徳的観点がないとはいえないだろう。 “教育行政学ノート 道徳評価と入試1” の続きを読む

学校教育から何を削るか13 入学試験制度

 本シリーズ(学校教育から何を削るか)の最後にする予定で、以後、これまで書いたものを整理する予定。

 最後に最も大きく、かつ困難な課題を提起することにした。
 最初に確認しておきたいことは、日本の入学試験は、日本の学校教育に甚大な影響を及ぼしているし、進学ということがある以上、上級に進学するために「入学試験」があることは、当たり前のことであり、それは万国共通だと、多くの人が思っているが、それは間違いだという点である。上級学校に進学するために、何らかのハードルがあることは、ほとんどの場合当てはまるが、日本のような入学試験は、教育制度が発達した先進国では、実は少数派である。だから、入学試験システムは、廃止することができると考えている。
 私が学生時代、教育法の第一人者であった兼子仁先生の授業で、兼子教授は、「日本の入学試験というのは、なんとしても廃止したいですね。」と主張したことがある。学生たちは、意外な主張に驚き、ほとんど茫然自失の体だったと記憶している。私もそうだった。「そんなことできるはずがない。」そのときだけではなく、ずっとそう思っていた。 “学校教育から何を削るか13 入学試験制度” の続きを読む

教育実習の授業をみて 学校文化への疑問

 今、教職課程を履修している4年生は、多くが教育実習の期間中だろう。今週2人の実習の授業を見にいった。いろいろと考えたところがあるので、それを書いてみる。しかし、以下の文章は、今週見た実習生の授業に対する評価ではない。むしろ、普段から感じている日本の学校教育の「教え方」に対する疑問に関するものである。それが現われていたということだが、それは、ほとんど日本の学校教育文化ともいうべきものであり、その授業の欠点と認識されるものではない。授業そのものは、学生としてはとてもよかったと思うし、子どもたちもよく反応していた。
 まず「国語」。国語の授業では、決まったパターンがあるようなのだ。新しい文章にはいると、まず全文を読む。そして、新しい漢字を書き出して、読みと意味を確認する。意味のわからない言葉を辞書で調べる。次に、段落分けをする。それから、分けた段落にそって、文章の解釈をしていく。もちろん、みながこのように統一されているわけではないだろうが、多くのパターンがこのようになっていると思われる。
 実習の授業は、「段落分け」だった。そして、私が普段から最も疑問に思っていることが、この段落分けのやり方なのだ。 “教育実習の授業をみて 学校文化への疑問” の続きを読む

学校教育から何を削るか12 教師の階層性

 教育行政学では、古典的な論争として「重層構造論」と「単層構造論」というテーマがある。古くは、東京教育大学の伊藤和衛が前者、東京大学の宗像誠也が後者の代表的な論者だった。今は、法的に前者が規定されているから、表立った論争はほとんどないようだが、理論的な問題としては厳然として残っており、後者の立場にたつ者からみれば、改革の必要性が大きい課題となっている。
 端的にいえば、「重層構造論」とは、校長をトップとして、教師が階層的に位置づけられ、ラインの命令系統で仕事をすることが、最も学校の目的をよく達成できるとする論である。それに対して、「単層構造論」とは、校長以外の教師はすべて平等な立場であり、係やその責任者は随時交代して行うのが、学校として最もよい教育ができるとする論である。
 教育組織として見れば、単層構造論が正しい。単純に、学校の主要な構成員である教師は、みな同じ仕事をしているからである。つまり、基本的に、自分の教えるべき教科について教え、担任としての役割を果たす。このふたつの機能において、新人もベテランもなんら変わらない。 “学校教育から何を削るか12 教師の階層性” の続きを読む

『教育』を読む2019.6 市場化する学校4

 前2回は、かなり批判的な検討になったが、今回は、ほぼ全面的に賛成である。取り上げるのは、
 錦光山雅子「家計を直撃する『学校指定物品』制服報道からみえた消費者問題」
 中村文夫「激化する格差の連像 家庭と地域の経済格差と教育」である。
学校指定の曖昧さ
 錦光山氏はジャーナリストで、制服等にかかる費用と、指定に関わる問題を明らかにしている。氏がこうした問題に関心が向くようになったのは、2014年9月24日に千葉県銚子市で起きた母親が中2の娘を殺害した事件であるという。母親の非正規労働、児童扶養手当、元夫からの養育費(遅れがち)でかろうじて生活をしていたが、中学入学に際して必要とされた費用を、ヤミ金融からの資金でしのいだが、取り立てで家計が崩壊し、公営住宅を強制退去させられる日、娘を殺害したという事件である。年収は100万円程度で、市も生活の困窮状況は把握していたようだが、生活保護の申請については、用紙をわたすのみで、説明などはあまりしなかったとされ、また、公営住宅の家賃については、減免措置があるのに、それを知らせなかったとされている。もし、減免されていたら、この悲劇は起きなかったし、また、それほど滞納していたわけでもないことがわかっている。 “『教育』を読む2019.6 市場化する学校4” の続きを読む

学校教育から何を削るか11 生徒会

 ここで生徒会を削るというのは、PTAと同じで、権限をもった組織に変えるという意味である。
 日本で児童会・生徒会は、学習指導要領によって規定された「教育組織」である。
 実際の規定は以下のようになっている。
〔児童会活動〕
1 目標
 児童会活動を通して,望ましい人間関係を形成し,集団の一員としてよりよい学校生活づくりに参画し,協力して諸問題を解決しようとする自主的,実践的な態度を育てる。
2 内容
 学校の全児童をもって組織する児童会において,学校生活の充実と向上を図る活動を行うこと。
(1) 児童会の計画や運営
(2) 異年齢集団による交流
(3) 学校行事への協力 “学校教育から何を削るか11 生徒会” の続きを読む

『教育』を読む2019.6 学校の市場化3

 大学入試はどうか。
 これは、まだ始まっていないので、はっきりとした見解をもちにくい。
 日本の大学入試は、競争試験であるという、今のところ絶対的な前提がある。欧米のように、資格試験で済んでいる場合は、それぞれ民間試験を指定しても、それぞれに最低の基準点を設定すればよい。しかし、競争試験となると、違う試験を受けて、その点数を比較するための計算式が必要となる。ひとつの民間試験にするというのは、最初から、「政策的」に想定していないのだろう。
民間活用は既に進んでいる
 民間試験を活用するということをまず考えておこう。 “『教育』を読む2019.6 学校の市場化3” の続きを読む

『教育を』を読む2019.6 市場化する学校2

 今回は、英語教育に関するテーマである。江利川春雄氏の「巨大利権の実験場  小学校英語教科化と大学英語入試民営化」と題する論文を素材に考えたい。
 安倍政権の教育政策の基調は「結果の平等主義から脱却し、トップを伸ばす戦略的人材育成」(教育再生実行本部2013)で、そこでは、「英語が使えるグローバル人材」の育成に特化しているという。
 小学校英語の歩みが整理されている。
江利川春雄氏の批判
 小学校英語の導入を最初に提起したのは、中曽根内閣の臨時教育審議会第二次答申(1986)で、「英語教育の開始時期についても検討を進める」としたのが始まりだが、文部科学省は一貫して消極的であったと氏は評価している。しかし、1998年改訂の学習指導要領で、「総合的な学習」のなかで、英語教育をすることを可能にし、2008年改訂で、「外国語活動」として5、6年に必修とした。このとき専門家の猛反対があったために、教科化は見送られたとしている。そして、2017年の改訂で、5、6年での教科化、そして、外国語活動を3、4年に引き下げるということになった。この間、2013年に、安倍首相の私的諮問機関である「教育再生実行会議」が、英語教育の早期化を提言して、それが反映されたのだという。 “『教育を』を読む2019.6 市場化する学校2” の続きを読む

学校教育から何を削るか10 PTA

PTAと差別の議論
 2、3年前だったか、PTAでの差別問題がメディアを賑わせたことがある。卒業式の記念品を、PTA会員ではない保護者の子どもには与えなかったとか、登校班から外されたというようなことが、話題の中心だった。差別はしないように、というような感じで終息したように記憶するが、しかし、問題の立て方がずれている。逆に考えれば、PTA会費で購入した物品を、会員でない者にも配布するのであれば、会員からクレームが出てもおかしくない。会費を払っていなくても配布すべきだという結論は、私には納得できない。そもそも、PTA会費で、卒業のお祝いを「個人対象」に贈るという行為自体がおかしいのだ。PTAという任意団体が行うことの領域に対する「けじめ」感覚が欠如していると思う。登校班の件も、PTAがやることに無理がある点では同じだ。ただし、掘り下げる必要がある。
 日本では登下校は誰の責任範囲なのかが、不明確である。
 ヨーロッパは「保護者」の責任であるという社会意識があるようだ。だから、小さい子どもは親が送り迎えする。アメリカは、自治体の責任なのでスクールバスを走らせる。法的に明確になっているかは、詳らかではないが、大方そのように運営されている。しかし、日本は、なんとなく学校の責任であるように思われているのではないだろうか。そのために、入学間もない一年生は、担任教師が途中まで送っていったりすることが多い。しかし、いつまでもできるわけではないので、登校班を作って、上級生がリーダーとなり、途中ボランティアの保護者や地域の人が見守る。 “学校教育から何を削るか10 PTA” の続きを読む

『教育』2019.6を読む 市場化する学校1

 6月号の第二特集が「市場化する学校」となっており、いくつかの論文が掲載されている。非常に重要なテーマであり、私も考えねばならないことなので、何度かに分けて検討したい。今回は最初の小池由美子氏の「教育産業の介入と受容させられる学校 学校を市場に差し出す『学びの基礎診断』」を読みながら、考えてみたい。
 この題名だけでも、「教育産業」「市場」「学びの基礎診断」という重要な言葉が出されている。
 本論文で扱われている内容を列挙すると
・高大接続
・学びの基礎診断
・グローバル人材
・大学入試の調査書の拡大とeポートフォリオ
センター試験改革
 背景として、大学入試のためのセンター試験改革を考える必要がある。入学試験制度というのは、どの国でもやっかいな問題で、どのように改革しても、欠陥が現われてくるものだ。だから、数年から10年単位で必ず変更がなされている。センター試験だけではなく、大学入試に関して、様々な問題が生じていることは間違いなく、立場によって評価も異なるだろうが、私の考える「現象的」な問題を整理してみる。 “『教育』2019.6を読む 市場化する学校1” の続きを読む