オランダの不登校問題1 不登校の現状

 事情があって、オランダの不登校を調べてみた。
 オランダは子どもの幸福度調査で、世界一になったことがある。つまり、世界一幸福な子どもというわけだ。しかも、オランダの教育は自由なので、オランダの子どもたちはストレスもなく、みな生き生きと学校生活を愉しんでいるという思い込みが一部にある。だから、不登校などあまりないだろうし、オランダから学ぶことが多いのではないかと考えるわけである。もちろん、オランダから学ぶことはたくさんある。しかし、上記のことは、ほとんど間違いであると、私は思っている。オランダの子どもだって、ストレス多い生活を営んでいるのである。考えてほしい。オランダの子どもは12歳で、人生の重大な選択を迫られるのだ。ドイツの多くの州と同様に、オランダも中等教育の三分岐制度を維持している。ドイツは、PISAの成績が極端に悪かったので、その反省から二分岐制度に移行しつつあるが、オランダはそのままである。どの学校種にいくかは、人生を大きく左右する。もちろん、やり直しはきくが、それでも大きな選択であるには違いない。こうしたことが、ストレスにならないはずがない。しかも、その選択には、全国的に行われる試験の成績にかなり左右されるのである。
 オランダは、基礎学校(幼稚園と小学校が一緒になった八年制の学校)に関して、完全な学校選択の自由がある。選んだ学校だから満足度は高い。しかし、教師との相性、友人関係など、学校にいくのが不安になって、不登校になる子どもは、少なくないのである。他方、不登校の子どもを援助する団体や人員も配置され、活発に活動している。
 そこで、最初に、オランダにはどの程度の不登校がいるのかを確認し、次に、不登校対策がどのように行われているかをみてみよう。
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学校教育から何を削るか6 慣習的な作法

 私は基本的に効率主義であることを、最初に断っておく。1時間かかることを、30分でできるようになれば、それはとてもよいことであると考えるし、30分でできることを1時間もかかってやるのは、大いに改善の余地があると考える。常識的な感覚だと思うが、実は、学校教育の「慣習」のなかには、非常に多くの「余計に時間をとる」ものが多いのである。授業時間は決まっているのだから、そうした慣習的時間の無駄があれば、それだけ授業の実質的内容は減少する。
 私が無駄と感じている最たるものは、教師が質問し、子どもが挙手し、さされた子どもが立ち上がって答える。最近は、「いいですか」と当の子どもがみんなに問いかけ、「いいです」との答えがあると、座るという一連の行為がある。
 このやり方は、時間の無駄であるだけではなく、いくつかの教育上の問題を含んでいる。
 まず時間だ。単純に、指名されてから、立ち上がり、椅子を整え、回答してから、「いいですか」と聞いて、「いいです」を確認してから、また椅子をひいて座る、という一連の動作にかかる時間を、測定すると、だいたい大人で20秒程度であり、小学生なら30秒はかかるだろう。一度の授業に何人答えさせるかは、もちろん一定ではないが、多くの教師は、できるだけたくさんの子どもを指名して答えさせたいと考えているだろう。20名答えるとすると、その慣習的行為だけで10分必要となる。45分授業が、実質35分授業になってしまうのだ。教師であれば、最後あと5分あれば必要なことをできるのに、と思った経験はだれでもあるだろう。それが10分ロスなのだ。
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机を捨てた大学生

 「『スポーツ実績だけで大学入学』の大きな弊害『「机を捨てた』大学生の厳しすぎる現実とは?」と題する朝比奈なを氏の文章が掲載されている。
http://toyokeizai.net/articles/-/207365
 プロのスポーツ選手をめざして小さいころから努力しているが、そのスポーツ以外何もせず、大学まで進んでもその間ほとんど勉強することなく過ごす人たちのことである。
 若くして横浜DeNAベイスターズ社長になった池田純氏は、新人の選手は全員3年間寮に入ることを義務づけてることにしたが、それは、選手たちが、社会生活に必要なことをほとんど知らないからだそうだ。そして、朝比奈氏は、選手の保護者や、彼らを受け入れる学校、そして行政までもが、それを容認というより、促進しているということ、そして、本人もそれに甘えて、学校に所属しながら、ほとんど勉強しないまま過ごしていると批判する。
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学校教育から何を削るか5 通知表

 日本の教育の特質、あるいは問題が「受験のための教育」であることは、長らく指摘されてきた。今では、大学全入時代になっているから、かならずしも皆が、受験のために血眼になっている状態ではないのだろうが、しかし、政策的に受験的な競争を維持する意図があることは、今でも変わらない。
 では、何故、受験競争的な教育が問題なのだろうか。散々指摘されてきたが、整理しておこう。
 第一に、勉強の動機が、勝ち残ることに置かれることである。日本の子どもたちに、何故学校にいくのかに関して調査をすると、必ず、学校は楽しいから、という回答が大多数を占める。何故学校が楽しいのかといえば、友達がいるからなのであって、勉強が楽しいと答える子どもは、ごく少数しかいない。これは、ずっと変わらない傾向である。では、なぜ、勉強が楽しくないか。それは、勝つための勉強になっているからで、勝敗というのは、常に勝者は少数であって、敗者が多数なのだから、多数が、勉強を楽しくないと感じるのは、当たり前のことなのだ。
 第二に、試験のための勉強は、与えられた課題に対して、決まった正解答を求めるための訓練となる。しかし、人間というものは、基本的に、自分で興味をもったことに取り組むのが楽しいのであって、それには、決まった正解答なども存在しないことが多い。解答といっても、多様な可能性があるほど、面白くなる。こうした学習スタイルを許容している部分も、皆無ではないが、あったとしてもごく少数だろう。好意的にみれば、ゆとり教育は、楽しい学習を保障するものだったが、残念ながら、学生たちの経験をきくと、興味のわく学習が、ゆとり教育として実施されていたという声はほとんどない。
 このような欠陥を根本的に改めるために廃止すべきものは、「受験」ということになるが、それは次のテーマとして、今回は、日常的に、受験的な学習を支えている「通知表」を、廃止の対象として考えてみる。
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学校教育から何を削るか4 いじめアンケート

 まだこのブログを初めて日が浅いし、まったくの個人ブログなので、アクセスはまだまだ少ないが、「学校教育からの削除」関連は、比較的多く読まれているようだ。まだ続けていくし、中教審答申も出ているので、その批判的検討もするつもりだ。
 さて、今回は、「いじめアンケート」である。
 いじめアンケートは、大津でのいじめによる中学生の自殺がきっかけになって、「いじめ防止対策推進法」によって、法的に義務づけられている。自治体や学校独自のアンケートが更に行われている場合もある。いじめが原因とみられる自殺があると、必ずこのアンケートが話題になる。
 いじめアンケートは、要らないのではないか、かえってマイナスなのではないかと、先日「教育学」の講義で、学生たちに問いかけてみた。実際にアンケートを書いてきた人たちだから、非常に参考になる意見がでてきたし、私もいくつか考えなおすきっかけになった。
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『教育』を読む2019年5月号 教育実習1

 今月号の特集は、「『教育実習』出会いと学びあい」と「政治的中立性と教育の自由」のふたつだが、今回は前者について、紹介しつつ、教育実習にまつわることを書いてみる。
 巻頭の佐藤高樹氏の「子どもの思いに応え、自分らしさを考えぬく」という文章では、最初に、教員採用試験の倍率が低下してきたことが指摘され、その原因のひとつとして、教育実習で教職に対する「あこがれ」の気持ちがそがれてしまうことだとの危惧が書かれている。この20年間に、実習期間の延長、介護実習の導入、教職実践演習の必修化、インターンシップの単位化など、実習の負担が増大している。教職が大変であることは、広く認識されているが、実際に現場で実習してみると、予想を超える大変さを、目の当たりにみて、教職に就こうという気持ちがなえてしまうということなのだろうか。
 それとともに、実習などで強く感じるようになってきたのが、「形式的指導」もあるという。
 以上の問題意識は、私も同じように感じている。別のブログで、日本の教職は、欧米と同じように、なり手がどんどん少なくなって、教師不足になっていくのではないかと、何度も指摘してきた。文部科学省は、まるで、日本の学生たちに、教職につくなといいたいのだろうか、と率直に感じるほどである。
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道徳教育ノート 五木寛之「日常に生かす作法のヒント」

 道徳の教科書に載っている五木寛之の「日常に生かす作法のヒント」は、普段考えていることが、現れている教材であると思い、取り上げてみたい。(光村6年)
 普段、道徳教育について感じている疑問をまずあげておきたい。
 これまで何度か書いたように、「道徳教育主義」への疑問である。道徳は、あくまでも人の様々な価値観、行動、規範などに関わることであり、道徳という閉鎖的な領域があるわけではない。ところが、国語教育とどう差別化するかなどという、道徳固有の課題を求める立場である。
 第二に、ジレンマ的な葛藤は、子どもの世界に関して扱うことがあるが、大人については、あまり扱わないことである。大人の世界にある悪、犯罪、反道徳的なことは、道徳の教材には、ほとんど現れない。
 第三に、多くの教材が、ひとつの徳目に向かっていることである。実際、世の中の規範的なことは、ひとつの立場が絶対的に正しいなどということは、ほとんどない。
 第四に、最初から道徳教材として作成された文章が、読んで、全くおもしろくないことである。日本の教科書は、読物としては、世界で最低のグループにはいるのではなかろうか。読書指導などいうことを学習指導要領で奨励しても、学習指導要領に基づき、検定で合格した教科書そのものが、まったく面白みのないものなのだから、読書好きな子どもを育てるのは、難しい。
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学校教育から何を削るか3 5、6年の教科担任ではなく、担任教師の担当を主要教科に

 今日は別の話題について書くつもりだったが、毎日新聞に、「小学5,6年の『教科担任制』検討 文科省、授業の質向上」という記事が出ていたので、急遽これについて書くことにした。
 英語が正式教科となり、プログラミングが必修化されるなど、専門性の高い教員が必要となるなかで、教員の負担軽減も考慮して、5、6年に「学級担任」ではなく、「教科担任」を導入するための検討にはいるというのである。これは、今まで何度も議論されてきたことだと思うが、いままでは実施されてこなかった。一部には、小中一貫校で、学年の区切りを、5年から中学校として扱うようにして、実質的に教科担任制を導入している学校も、ごくわずかだがあるはずである。
 教師の負担を軽減することは、このブログの主要なテーマとなっているので、問題意識は共有するが、具体的なあり方は、私は原則反対である。
 質の高い授業を行うためには、小学校教師が、全科目を教える体制そのものをやめるべきなのである。そもそも、主要教科を教えて、体育や音楽、美術、家庭、道徳、そして英語まで教えるなどということは、誰が考えても、超人でなければできないことである。日本の小学校教師は、本当に信じられないような負担を強いられている。
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学校教育から何を削るか2 始業式と運動会をやめよう

 これから具体的に、何が削れるかを考えていこう。もちろん、削るのは、残すものをより充実させるためにやるのであって、単に、楽にするためではない。では充実させるべきものは何か、当たり前のことだが、基本教科の授業である。日本の学校は、学力重視といいながら、実に授業を軽視していると言わざるをえない。
 ここでは、かなり大胆に提起していくことにする。

始業式
 日本の学校の新学期は、始業式から始まる。そして、始業式を行うことに疑問をもっている人たちは、ほとんどいないだろう。しかし、欧米の学校の実情を知っている人にとっては、当たり前のことではなくなる。私が知る限り、欧米の学校には、始業式はない。おそらく、朝礼とか昼礼などもない。そもそも、始業式や朝礼が楽しかったとか、思い出に残っているとか、そういう人はいるのだろうか。私には、「整列」させることと、校長が訓辞を述べること以外の目的はないように感じる。今は、校内放送設備やインターネットが普及しているのだから、校長が伝えたいことは、給食の時間等に放送を使えばいいし、それをインターネットでも閲覧できるようにしておけば、内容が確実に伝わるだろう。始業式や朝礼などで、少しではあっても、確実に授業が削られる。
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『教育』を読む 2019.4号 「わからない」の克服

 私は、大学勤務時代(今でも勤務であるが、特別の定年延長で特任なので、半分は勤務状況から脱出している)は、外部の研究活動をせず、大学の教育活動に専念していたが、昨年初めて「教育科学研究会(以後「教科研」)に加入した。しかし、まだほとんど活動をしておらず、どういう活動が可能なのか、これから考えていこうという段階だ。教科研には、『教育』(教科研の機関誌)を読む会があるのだが、私の居住している千葉県にはない。将来的には、「千葉県『教育』を読む会」をつくっていきたいと考えているが、その前に、このブログで、自分で『教育』を読むシリーズを書いていこうと思う。
 教科研を紹介する立場にはないので、興味のある人は、ぜひホームページをみてほしい。『教育』は、以前は国土社からでていたが、今はかもがわ出版から出ている。なかなか入手しにくい雑誌だが、興味のある人は、ぜひ注文して読んでほしい。アマゾンでも購入できる。

 今回は、「わからない」を克服するための工夫をしている実践をふたつ紹介する。
 まず、川淵和美さんの「『わからない』から始まるぼうけん」。
 川淵さんの「『わからない』と言うことは、子どもたちにとって、ハードルが高い。バカにされたらどうしよう、恥ずかしい・・・」という言葉は、教師をしている人にとっては、誰でも、常に感じていることだろう。大学などは、これは小学校以上で、よほどの工夫をしないと、授業中に何を聞いても発言などなく、反応もないような授業が多い。幸い、私の授業では、特に教育学関連では、内容の親しみやすさもあるが、それなりに発言はあるし、また、討論になったりもする。しかし、それもこちらから発言を求めた場合にほぼ限定され、自分から挙手して意見を述べたり、特に、「質問」は出ない。まだまだ工夫が足りないということだろう。
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