日本の教育の特質、あるいは問題が「受験のための教育」であることは、長らく指摘されてきた。今では、大学全入時代になっているから、かならずしも皆が、受験のために血眼になっている状態ではないのだろうが、しかし、政策的に受験的な競争を維持する意図があることは、今でも変わらない。
では、何故、受験競争的な教育が問題なのだろうか。散々指摘されてきたが、整理しておこう。
第一に、勉強の動機が、勝ち残ることに置かれることである。日本の子どもたちに、何故学校にいくのかに関して調査をすると、必ず、学校は楽しいから、という回答が大多数を占める。何故学校が楽しいのかといえば、友達がいるからなのであって、勉強が楽しいと答える子どもは、ごく少数しかいない。これは、ずっと変わらない傾向である。では、なぜ、勉強が楽しくないか。それは、勝つための勉強になっているからで、勝敗というのは、常に勝者は少数であって、敗者が多数なのだから、多数が、勉強を楽しくないと感じるのは、当たり前のことなのだ。
第二に、試験のための勉強は、与えられた課題に対して、決まった正解答を求めるための訓練となる。しかし、人間というものは、基本的に、自分で興味をもったことに取り組むのが楽しいのであって、それには、決まった正解答なども存在しないことが多い。解答といっても、多様な可能性があるほど、面白くなる。こうした学習スタイルを許容している部分も、皆無ではないが、あったとしてもごく少数だろう。好意的にみれば、ゆとり教育は、楽しい学習を保障するものだったが、残念ながら、学生たちの経験をきくと、興味のわく学習が、ゆとり教育として実施されていたという声はほとんどない。
このような欠陥を根本的に改めるために廃止すべきものは、「受験」ということになるが、それは次のテーマとして、今回は、日常的に、受験的な学習を支えている「通知表」を、廃止の対象として考えてみる。
通知表作成は法的義務ではない
通知表は、保護者に対する連絡簿で、作成は法的には義務ではない。ここが誤解されていることが多い。実際に通知表をださない学校も、稀だがある。義務ではないのだから、様式も回数も学校で決めることができる。
私自身も、成績などださなくてよいなら、本当に授業がやりやすいのだが、と思うが、小中学校の教師にとって、通知表の記入は本当に負担の大きい作業だろう。文部科学省は、特に負担の多い「文章」で書く部分を、単純な書き方にするなどという「軽減策」を打ち出しているが、それこそ「焼け石に水」だろう。
学習で一番大事なこと、深く学ぶこと、そのことによって楽しく学べるようになることなのである。「わかったか、まだか」「できたか、まだか」という、日常的なチェックは必要であるが、それはテストである必要はない。ところが、学期ごとに成績をだすために、日常的に頻繁にテストを行う。このことによって、学習の楽しさを感じることが難しくなっているし、また、それを教えることも難しくなっている。試験のための勉強ではなく、深く理解するための勉強を実現するためには、日常的なテストを減らすこと、そして、そのためにも通知表を減らすことが有効である。
通知表は、ないほうがよいとは思わないが、年一度で充分である。そうすれば、「簡単に書く」などという姑息なやり方ではなく、年一度なのだからしっかり書けるだろうし、そう指導することも必要になる。子どもや親も、書かれた通知表ではなく、日常的に理解し、できるようになっているかのチェックことが大事である。
オール3事件
これまで、通知表をめぐる事件は何度かあった。古いもので、知らない人も多いだろうが、「オール3事件」というのがあった。ある音楽の教師が、中学3年の1学期の成績に、担当クラスの全員を3にしたのである。その学期はずっと合唱をやっていたので、差をつけることはできないとして、全員同じにした。当時は相対評価の時代で、1から5までの割合が決まっていた。内申点が考慮されるから、通常なら5を取れるはずの生徒の親が騒ぎだしたことから、「事件」となった。内申点は2学期なので関係なかったし、また、内申点としてつける数値は、厳密に相対評価でつけられるもので、家庭への連絡である「通知表」とは異なるので、親たちが心配する必要はなかったのだが、誤解が生んだトラブルともいえる。
この話を講義ですると、多くの学生は批判的である。その理由は、第一に、差がつかないのは、「評価」ではないとするもの、第二に、みんな頑張ったから差をつけることはできないといっても、練習態度とか、声のよさとか、歌のうまさとか、絶対に差があったはずで、それを評価しないのは、おかしいというものである。ここには、「評価とは差をつけるものだ」という「信念」のようなものがある。
しかし、教育において必要な評価とは、その人がその修得内容について、今課題になっていることが、充分できるようになったか、理解したか、あるいは、まだ不十分であるか、そして、不十分なら、その要点は何か、その克服のために何をどうすればよいのか、ということを示すことである。こうしたことは、およそ通知表などに、いちいち記入できないものであり、日々の実践のなかで、随時示していくべきものなのである。もし、このような日常的な評価をきちんとしていれば、通知表などはいらないといって差し支えない。せいぜい、年に一度、教科ごとに、充分か、不十分かを認定すればよい。また、年に一度であれば、全体としての記述的評価も有効だろう。毎学期のかなり詳しい通知表の提出は、本当に必要な評価をできなくすると、私は考えている。なぜならば、現在の学校は、通知表の評価をだすために、どうしても「テスト」を数回実施することが必要であると、考えているからである。上の日常的な教育的評価は、試験によって判定するのではなく、日々の実践で行っていくものなので、テストなどは邪魔なのである。
到達度評価とPDCAサイクル
もう一つ重要なことがある。
オール3事件は、教師たちに大きな衝撃を与えたが、そこから、あるべき評価とはいかなるものかを真摯に追求してできてきたのが「到達度評価」である。到達度評価は、現在さかんにいわれているPDCAサイクルと似ているが実は、根本的に異なる点がある。「到達度評価」とは、各教科の年間、学期ごとの到達目標を定め、目標達成を確認する基準を設定し、実践したあと検証して、改善していくという流れをつくるなかで、定めた基準にしたがって評価をするというものである。教科ごとに、複数の到達目標があるので、それまでのひとつの教科にひとつの数値を当てはめるものではなく、複数の目標に関して、到達度を示すようになっている。PDCAサイクルと外見的には似ているが、到達目標は、学年の教師集団が討議決定していくものであるのに対して、PDCAサイクルは、企業の経営体で行っているものだから、担当者が決めたものを、ラインが実行する形をとる。これが、学校に導入されると、主幹が決めて、担任教師が実行するとなることが多い。学級の状況には、かならず違いがあり、授業を担当しない者が、このような具体的な実践内容と評価方法を決めることは、実践の質を向上させるには、マイナスに働くはずである。
PDCAサイクルを強調している学校でも、通知表は授業担当者(小学校は担任)が書くだろうが、授業全般にかかわって、授業担当者こそが意思形成の中心になるべきものなのである。 そして、そうした総合的な取り組みを保障するためには、授業に集中できるようにして、余分なことを削減することが必要である。
現在だされている通知表の多くは、擬似的な到達度評価であり、むしろ、PDCAサイクル理論につながっているものである。