机を捨てた大学生

 「『スポーツ実績だけで大学入学』の大きな弊害『「机を捨てた』大学生の厳しすぎる現実とは?」と題する朝比奈なを氏の文章が掲載されている。
http://toyokeizai.net/articles/-/207365
 プロのスポーツ選手をめざして小さいころから努力しているが、そのスポーツ以外何もせず、大学まで進んでもその間ほとんど勉強することなく過ごす人たちのことである。
 若くして横浜DeNAベイスターズ社長になった池田純氏は、新人の選手は全員3年間寮に入ることを義務づけてることにしたが、それは、選手たちが、社会生活に必要なことをほとんど知らないからだそうだ。そして、朝比奈氏は、選手の保護者や、彼らを受け入れる学校、そして行政までもが、それを容認というより、促進しているということ、そして、本人もそれに甘えて、学校に所属しながら、ほとんど勉強しないまま過ごしていると批判する。

 私自身が所属している大学では、スポーツ推薦はない。推薦入試やAO入試はあるが、(私が所属しているキャンパス3学部ではAO入試はない)いずれも学力への条件を課している。全くの無試験である指定校推薦では、学校の選択と成績には、比較的高い条件を求めている。成績の条件がそれほど高くない一般推薦では、論文試験を課しており、いずれにしても、何かスポーツや文化活動、生徒会活動で実績をあげているだけで入学できるシステムは、今のところない。そして、それを実施すべきであるという声もあまり聞かない。
 その理由は大学の教育目的に関わることと、経営的なことの両面があるだろう。教育的目的では、大学が教師養成に大きな比重をかけており、スポーツしかできない教師は、現場でほとんど役に立たないと考えられるからである。もちろん、本当はスポーツの分野でも、そのスポーツのことしか知らない者が、優れたアスリートになるれとも思われない。近年のスポーツのトレーニングは、科学的根拠に基づいたものになっており、科学性をまったく理解できない者は、伸びないのではないだろうか。経営的には、スポーツ推薦で有名な選手を入学させるためには、かなりの財政的負担をともなうので、一般の学生の納入金で一部の学生に対する優遇措置をとることになり、教育環境としては、問題が生じやすいといえる。また、かなり財政的に豊かな学校でなければ、実施するのも難しいだろう。(尤も、噂であるが、某大学は、箱根駅伝にでただけで、受験生が2割増加したという。経営的な魅力は確かにあるといえる。)

 さて、もうひとつの論点がある。朝比奈氏の指摘の通り、甘えている選手と甘やかしている学校という、このあり方を変える必要がある。そして、確かに氏の指摘するように、プロになれる選手は、一握りであり、ほとんどの選手は、そのスポーツで生活していくことはできない。そして、ほとんどの選手たちは、自分にプロになれる能力がないことに気づいている。彼らは、他の道をみつけ、その道に必要な能力・資質を獲得していかなければならない。しかし、そのように導く筋道や意識も希薄なのである。どうしたらいいのか。その点を考えてみたい。

 教育がその人の個性や資質を育てることであれば、逆に個性や資質が不十分であれば、他のより適切な道を示すことも教育の重要な役割であろう。
 大学は高等教育機関であるから、将来の職業に関連する教育がかなり行われている。特に資格に関連している教育領域は、職業と直結している。しかし、職業である以上、向いている場合と明らかに向いていない場合がある。大学院に進んで研究者になりたいと考えている学生がいたとして、教わったことを常に鵜呑みにしてしまったり、探究心に欠けていたり、論理性が弱かったりすれば、研究者に向かないと思われるから、そのことを端的に指摘して、考えなおすような指導は必要であろう。しかし、そのようなネガティブな指導は、あまり行われないように感じる。それは、ひとつには、大学院には入試があり、適格性は入試で判断され、不合格になれば、納得するだろうと、判断を預けることが可能である。プロを目指すスポーツ選手に対しても、野球であれば、ドラフトで指名されるかどうかで、判断すればよいということになるのかも知れない。
 しかし、ドラフトで指名されない、あるいは入試に落ちる、ということが、指導している教師にとって予め予想できていれば、もっと早期に指摘して、早期に違う道を模索させることが可能になる。もし、「机を捨てた」状態で大学生活、あるいは中学高校からそうであるとすれば、その時期、プロに結果的になれない学生にとっては、無駄な時間を過ごしていたことになる。スポーツにのめり込んで、他のことを鍛練しなかったために、結局卒業後、身を落としてしまう人も少なくないようだ。

 第二に、そもそも知的能力と身体的能力は不可分の関係にあることを、教育者は、もっと自覚する必要がある。日本のスポーツ界は、これまで精神主義であると批判されることが多かったが、近年ではさすがに科学的トレーニングが取り入れられている。しかし、それは、国際的なレベルに達しているアスリートの、国際大会にむけたトレーニングでは普通であるとしても、学校や地域でのスポーツトレーニングでは、まだまだ精神主義的な要素が強いのではないだろうか。
 大分前で、著者や書名を忘れてしまったが、テニスのボールの飛び方を、ラケットの使用との関連で、物理学的に分析する研究をした人が、その研究結果をいろいろと発表しているにもかかわらず、テニス関係者で、もっと詳しく知りたいと言ってきた者が皆無だったことを嘆く文章を読んだことがある。既に海外の一流テニスプレイヤーは、そうした力学的な成果だけではなく、打ち方と飛んでくる方向などの確率的な研究に基づいた練習をしている時代であるのに、日本の選手は、科学的な基礎をもった練習の意識が乏しいという批判が書かれていた。これは、今でも、多くの若いスポーツ選手や指導者の現実ではないかと思われる。大学の体育会系のスポーツ部の練習などを見て感じるのである。
 練習方法だけではなく、もし、もっと科学的な基礎による練習を日常的に行う雰囲気があれば、当然スポーツそれ自体以外のことをたくさん学ぶわけであるから、スポーツへの限界を感じたときに、他の領域への移行が今よりもスムーズにいくのではないだろうか。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です