学校教育から何を削るか6 慣習的な作法

 私は基本的に効率主義であることを、最初に断っておく。1時間かかることを、30分でできるようになれば、それはとてもよいことであると考えるし、30分でできることを1時間もかかってやるのは、大いに改善の余地があると考える。常識的な感覚だと思うが、実は、学校教育の「慣習」のなかには、非常に多くの「余計に時間をとる」ものが多いのである。授業時間は決まっているのだから、そうした慣習的時間の無駄があれば、それだけ授業の実質的内容は減少する。
 私が無駄と感じている最たるものは、教師が質問し、子どもが挙手し、さされた子どもが立ち上がって答える。最近は、「いいですか」と当の子どもがみんなに問いかけ、「いいです」との答えがあると、座るという一連の行為がある。
 このやり方は、時間の無駄であるだけではなく、いくつかの教育上の問題を含んでいる。
 まず時間だ。単純に、指名されてから、立ち上がり、椅子を整え、回答してから、「いいですか」と聞いて、「いいです」を確認してから、また椅子をひいて座る、という一連の動作にかかる時間を、測定すると、だいたい大人で20秒程度であり、小学生なら30秒はかかるだろう。一度の授業に何人答えさせるかは、もちろん一定ではないが、多くの教師は、できるだけたくさんの子どもを指名して答えさせたいと考えているだろう。20名答えるとすると、その慣習的行為だけで10分必要となる。45分授業が、実質35分授業になってしまうのだ。教師であれば、最後あと5分あれば必要なことをできるのに、と思った経験はだれでもあるだろう。それが10分ロスなのだ。

作法が認識を阻害する
 この回答の際の「作法」は、単に時間の無駄だけではない。
 子どもは、あまり明確に意識していなくても、なんとなくわかった感じになると、挙手するものだ。ところが、立ち上がり、椅子を整え、姿勢を正して、いざ言おうとすると、自分が何をいいたかったのか、忘れてしまう、というような情景は、ごく日常的なものだ。私が教育実習生の研究授業を見学にいくと、一コマのなかに、必ずそうした場面に遭遇する。この場合、なんとか思い出そうとするから、どんどん時間が経過していく。もし、指名されて、すわったまますぐに答える作法だったら、回答できた可能性が高いのである。
 日本ではあまり話題にならなかったが、「Wave」というドイツ映画がある。原作は、アメリカの高校で実際におきたことをノンフィクションとして書いた同名の本だが、それをドイツ人が映画化したものである。歴史の教師が、ナチスの時代を教えるときに、どうしたら効果的に理解させることができるかを考えて、ナチ的作法を授業のなかに取り入れたのである。いろいろあるが、そのひとつが、教師に差されたときの答え方であり、それがまさしく、日本で日々実践されているやり方なのだ。
 きちんと手をあげる、差されたら「ハイ」と答えて、立ち、椅子をきちんといれてから、はっきりと答える、終わったら、また椅子をだして座るというものである。その教師は、まず最初にこれを導入している。映画を見た観客も、これこそナチのやり方なのだ、と印象づけられるわけである。ナチのやり方と同じだから、直ちによくないとはいえないだろうが、明らかに、このやり方は、教師が上の立場にあることの確認のようなものである。このブログで何度か書いているように、教師の権力性を最大限払拭したなかでの実践こそ、子どもたちにもっともよく浸透するのである。
間違った者を見逃す
 「いいですか」にも問題がある。
 私が授業をみていて、「いいですか」と回答者が聞いたときに、違いますという声がでるときは、まだよい。多くの場合は、「いいです」と多くの子どもが答え、「そうだね」と教師が相槌をうって次に進むというパターンになる。回答者が間違えたときには、誰かが異論を唱え、間違えに関する説明が、そのあとで行われる。しかし、「いいです」で済んでしまう場合、実は正しい答えをだせなかった子どもがいるはずである。もちろん、ベテランの教師であれば、ほとんどの子どもが「いいです」と答えても、なかにはまだわからない子どもがいることを、きちんと掌握し、対応をするかも知れないが、まだ未熟な教師には、その種の掌握はできない可能性が高いのである。
 斉藤喜博は、子どもが回答する際の起立するやり方をずっと批判していた。実際に、斉藤喜博の学校の実践をフィルムに納めた『芽を吹く子』には、国語の授業で、解釈を議論する場面がいくつか出てくるが、だれも起立などしないし、また、指名されないのに、自由に話したりする。斉藤喜博実践における子どもの回答スタイルと、通常のスタイルを比較すると、回答する側も、また、聞く側もかなり違う。
 斉藤喜博の指導する実践だと、話す子どもは、自然にしっかりと話しているし、それを他の子どもたちも、耳を傾けていることがよくわかる。ところが、私がよく見る授業では、子どもたちは、まずハイハイハイと大きな声で指してくれるように要求するのが普通だ。もっとも、声だすことが禁止されている場合もあるようで、それでも、動作によって、指してくれと要求する。指されることの競争をしているようだ。そして、指されないと、ああ残念とばかり、意気消沈し、あまり回答を聞こうとしない傾向にある。
 形式主義的なやり方だと、実質が伴わなくなりがちだ、という典型的な姿が展開されるのである。

挨拶の形式化
 次に授業の開始と終了のときの挨拶である。
 これは、別に時間の無駄という問題ではない。学校教育のなかで、無視しがたく進行している「形式主義化」である。私の時代でも、授業の開始と終了時にに「起立・礼」という号令と動作はあった。しかし、今は、もっといろいろな付け足しがある。「これから、*時間目の国語の授業をはじめます。よろしくお願いします。」(日直)「お願いします」(全員)などといって礼をする。終了時には、「これで*時間目の国語の授業を終わります。ありがとうございました。」「ありがとうございました」という具合である。
 私自身の授業に際して、赴任してから20年間たったころからだろうと思うが、授業を終わったあと、片づけをしている私の前を通って帰っていく学生たちが、「ありがとうございました」といっていくようになった。もちろん全員ではないのだが。前は、そんなことをいう学生はいなかったのに、なぜ、少なくない学生たちがいうようになっていったのか。教育実習の変化にやがて気づいたのである。私は、赴任したときから、義務でもないのに、(今は義務になっている)実習生の研究授業を参観してきたので、小中の現場での変化も感じているが、起立・礼の際に、付加的な文言がはいるようになったのも、そのひとつである。
 では、何がいけないのか。丁寧に挨拶するのは、当たり前ではないかというかも知れない。気持ちよく授業に入ったり、終わったりすることに寄与するので、いいことに違いないではないかという見解の人も多いだろう。
 しかし、疑問点がふたつある。
 ひとつは、「ありがとうございました」と、教師が言わせていることである。人と会ったときに、「おはよう」といったり、何か親切にされたら「ありがとう」といいましょうと、教育のなかで指導することは、当然のことだろう。しかし、授業が終わったときに、自分の授業に対して、「ありがとうございました」と言わせる感覚は、私には非常に違和感がある。
 そして、もっと重要なことは、こうしたやりとりが形式化していることである。
 私の感覚では、授業を開始するときに、別に子どもたちが起立する必要もなく、教師が、授業をはじめること、今日はこんなことをやると述べ、それを子どもたちが、期待感をもって聞いている、そして、そのまますうっと授業にはいっていくというのが理想だ。終わるときにも、理解できたという満足感が表出されたり、あるいはまだの子どもが、質問にくる、という雰囲気こそが、授業をした感じになれるのではないか。
 もちろん、形式そのものを否定するつもりはない。形式の実行が、実質的なことを阻害してしまうことに反対しているのである。形式があって、そこに実質を入れ込むのではなく、実質的な行為が積み重ねられて、そこから形式が生まれていくというプロセスこそが、教育的である。 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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