学校教育から何を削るか7 教育研究指定校

 初めから優れた授業ができ、子どもとの関係を理想的に築き、すばらしい、楽しいクラスをつくることができる教師などはいない。失敗を繰り返し、反省し、克服していくことで、教師も成長して、自分の理想とする実践ができる教師をめざしていくのである。教師の成長を助ける大きな要因は、校長の優れた指導性にある。校長として、教師を鍛え、育てて、学校全体で優れた実践を行うレベルを達成させた代表的な人は、斉藤喜博である。斉藤喜博の著作は、教師を叱咤激励し、よい授業と悪い授業を分析し、教師としてすべきこと、してはならないこと等々を、たくさん示している。斉藤喜博の行った実践は、既に大分昔のことになったが、教育の原点は時代によって大きく変わるものではない。
研修に必要なこと
 教師の多くは公務員だが、教育公務員として、一般公務員とは別の法律が存在し、そこでは教師だからこその特別規定がある。一般公務員も研修を受けるが、教育公務員は研修が特に重視されている。研修が全体として重視され、設置者は研修の機会を与えるとともに、初任者研修や十年目の研修など、特別の制度も設定されている。教師としての力を発揮できていないと認定される、現場を離れて研究を受けさせる規定まである。法は、いかにも教師の成長を助けるように配慮されているように見える。

 しかし、私の見るところ、こうした研修の多くは、本当にいい結果を生むようにできているというよりは、教師が成長する仕組みを提供しているというよりは、むしろ負担となり、学ぶ意欲を削ぐ結果になることも多い。私の子どもが義務教育を受けていたとき、時々学校の教師がほとんど「研修」があるとかで抜けて、午後そっくり授業がなくなることがあった。聞くところによると、多数の学校から集まってきた教師が大講堂に集められて、偉い人の講話を聞くだけのことが多かったそうだ。これで授業や生活指導を改善する方法が理解できた、などという実感をもつ教師はほとんどいないと聞いている。
 では、教師が成長するのはどういうときなのか。どういう研修が必要なのか。
 これは、すべての人間に当てはまることであるが、専門家である教師には特に重要な点がいくつかある。
 第一に、研究の必要性、対象、方法などを、自分の意思で決める自由があること。
 第二に、個人ではなく、集団で研究する場合には、能力や経験の差は当然あるが、お互いの関係は、平等で、自由にものをいえるようなものであること。
 第三に、授業の改善以外のところで、成果をまとめた報告書などの提出が義務とされないこと。
 まとめれば、教育実践の改善のために、自分で課題を見つけ、相互に平等に意見を述べあい、得たことは授業のために使われる。それ以外のことを、特に外部から、強制されないことである。
 斉藤喜博の学校全体の取り組みもそうであったし、私の知る限りの優れた実践を学校全体で追求した学校のあり方は、この原則にあてはまっている。というより、そういう優れた実践の条件を定式化したのが、上のまとめである。

 さて、いろいろな研修が行われているが、ここでは、「削る」対象として、「教育研究指定校」の制度をあげよう。こうした「指定校」は、教育研究所や教育センターが指導をし、教育委員会や文科省が予算化して成立する。「指定校」といっても、多くは、教育委員会や文科省が「指定」するのではなく、基本的に校長が応募して、審査して決まることが多いようだ。すべて一様ではないだろうが、多くは2年ないし3年間の継続事業で、指定を受けた学校のなかで、担当者が決められ、日常的な研究活動を行いつつ、成果を発表するために、研究授業を行って、そのときには、区域内の教師たちが見学にやってくる。そして、その期間、教育委員会の指導主事とか、教育研究所の人たちが指導を行うのである。詳しい授業案などが柱となると思われるが、研究報告書も作成され、予算をだし、指定したところに提出する。
 一見、よい研修ではないかと思われるかも知れないが、私は、様々ある教育行政主導の研修のなかで、何よりも早期に廃止すべきシステムであると考えている。学校全体の授業改善や向上に役立つ側面は、極めて小さいと考えざるをえないからだ。現場の教師たちからも、これを経験したことで、とてもよかったという見解を聞いたことは、ほとんどない。「ただただ忙しく、役にもたたないし、なんであんなことをしなければならないのか」という怒りの声を聞くことが多いのである。
マイナスの分かりやすい実例
 具体的に何が問題なのかを書く前に、ひとつの象徴的な事例をあげよう。いじめ防止対策推進法成立のきっかけとなった、いじめによる自殺事件がおきた大津の中学のことである。あまり知られていないことなのだが、あの中学は、事件が起きる前年まで、文部科学省の指定する、道徳教育推進校だったのである。つまり、道徳教育の研究指定校だったわけである。そして、終了したあと、間もなくあの事件がおきたのである。もちろん、事件がおきたときも、学校の目標として「いじめのない学校づくり」というのが、ホームページに掲載されていたのを、私自身確認した。
 もし、研究指定校のシステムが成果があるのならば、2年も研究したのだから、管理職や教職員は、みな道徳的なことをしっかりと身につけていたはずであるし、生徒も同様でなければならない。しかし、陰湿ないじめが長期間続き、しかも、あの事件となったいじめだけではなかったようだ。本当かどうかはわからないが、たまたま当該生徒へのいじめの現場を通りかかったある教師が、「あまりやりすぎるなよ」といって通りすぎてしまったという報道もあった。「自殺しろ」などといわれる、ひどいいじめを受けていたことを知っていた級友は少なくない。そして、事件後、学校は徹底的に隠蔽したのである。この一連の事態のどこに「道徳教育研究」「道徳推進」の成果があるのか。
 実は、道徳教育の研究指定校になると、終了したあと学校が荒れることが多いというのは、教育界では公然の秘密である。深刻な事件がおきた例は他にもある。なぜそうなるのかを説明すると長くなるので、他の機会にするが、このことに象徴されるように、研究指定校というのは、成果よりは、マイナス面が大きいといわざるをえないのである。
研究指定校の問題点
 では何が問題なのか。
 第一に、教師たちの自発的な意思で、研究指定校に応募することはほとんどなく、教師は「絶対やめて」と多くが思っている。申請するのは、校長である。あえていえば、校長の業績づくりに、教師たちが協力させられているのが、指定校の実態なのである。いやいややるのだから、マイナス面が多いことは当然のことだ。もちろん、担当者は、いやいやでも勉強するから、得るものがまったくないということはないだろう。しかし、それをやらずに、本当に自分で必要だと思うことができなくなる、という意味でのマイナス面は無視しがたいほど大きい。
 第二に、研究指定校は、特定の教科が決められることである。小学校であれば、教師は全教科教えるのだから、当然特定の教科に特化した研究を2年もやるのは、バランスよく授業改善をすることにならない。中学であれば、当該教科以外の担当教師は、研究活動に自然にはいっていくことはできないだろう。
 第三に、校長がとってきたシステムだから、どうしても少数の担当者が担うことになる。多くは中堅、ベテランだろう。若手の教師は、担当のベテラン教師の指導を受けて、研究したり、研究授業を行うことになる。ベテラン教師は、教育委員会の指導主事等が指導する。つまり、自由な関係でもなく、また平等な関係でもない。研究が「階層的構造」のなかで行われるのである。そもそも、指導主事が、ベテラン教師よりも教育実践力が優れていて、ベテラン教師の指導ができる保障など、どこにもないではないか。ベテラン教師の方にも自負があるだろうし、指導主事のいう内容に同意しがたいこともあるだろう。しかし、指導-被指導の関係から、従わざるをえない場合も少なくないはずである。
 第四に、授業研究は、その現場に応じた検討が必要であって、教育委員会の指導主事や教育センターの専門家が、授業案の指導などをしても、現場の状況がわかっていないのだから、指導は形式的になるのである。「形式的」やり方は、教育実践には最もふさわしくないものなのだ。
 では、どのような研修が望ましいのか、それはまた別に書きたいが、研究指定校による「研究」がマイナスが大きいことは、明確である。

 教師は日々勉強しなければならない。教師自身が勉強しないで、子どもに勉強の姿勢を身につけさせることができるはずがない。教師自身が、勉強して、いきいきとした姿をみせてこそ、子どもたちも学習意欲が喚起されるのである。だから、教師が、自発的な勉強をしやすい環境をつくる必要があり、それは校長の責任なのである。だが、校長自身が、それを阻害するような研究指定校の申請をして、とってくるわけだ。国の制度だから、すぐになくなることはないだろうが、少なくとも校長が自重して、申請しないことは、簡単にできる。自分の功名心よりも、教師たちに本当に必要なことを優先する気持ちがあればよいだけのことなのだ。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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