4月26日の毎日新聞や東京新聞に、いじめ防止対策推進法の改正を目指す超党派議員による議論で、教師への懲戒処分の項が削除されていることについて、論議になっていることが報道されている。特に遺族の立場から批判がなされているという。2月に改正論議が報道されたときにも書いたが、今回は、異なる局面になっているので、再度書くことにする。2月には、「懲戒規定は必要だが、責任をとるのは校長である」という趣旨の文章を書いた。その後の議論で、教師への懲戒そのものを削除するという方向になり、それを批判する議論があるというので、そもそも、いじめによる被害に対して、だれにどのような責任があるのかということを、整理してみたい。
率直にいって、遺族の側から、教師を懲戒処分にすべきであるという議論が出ていることに、私には強い違和感を感じる。
努力しても防げないことはある
親は、子どもを最もよく知る人間であるし、最も強く子どもの幸福を願っている人でもある。そして、通常は毎日一緒に生活しているのである。だから、子どもがいじめの被害にあって、死を考えている状態であれば、最もよくその徴候に気づける立場にある。事実できる限りの努力をするだろう。しかし、子どもが結局自殺してしまったとき、それを防ぐことができなかったから、親を懲戒処分にすべきだ、などと主張する人はだれもいないし、だれもそんなことを考えもしないだろう。防げる場合は防いでいたのだし、そうした事例もたくさんあるだろう。結局、親がどんなに努力しても防げない場合があるわけだ。それは教師だって同じではないだろうか。例外的な教師はいるかも知れないが、子どもは教師の教え子である。教え子がいじめられたり、その結果自殺したりすることを、防ごうとしてない教師など、ほとんどいない。どんなに努力してもできないことがあるものだ。それがごく稀に、悲劇として現れてしまう。いじめなどは、無数にあるのだから、多くは教師やその他の人々の努力によって解決されていることこそ、もっと見るべきだろう。医者が治療すれば、通常病気は治る。だからといって、癌を治療できずになくなってしまったとき、その医者を懲戒処分にせよ、というだろうか。もし罰する必要があるとしたら、それは、重大な医療ミスがあった場合だけだろう。同じように、教師がいじめを「故意に」助長したり、自身がいじめ行為をしている場合には、罰せられるべきだ。しかし、それは職務上の懲戒ではなく、人としての加害行為、つまり、刑事責任を負うべきものである。「公権力の行使」たる「教育活動」の一環として、民事責任を国家に代替させるような種類のものとして扱う必要もない。ほとんどの教師は、いじめのないクラスを作ろうと努力しているし、いじめがあれば、なんとか解決しようとできることをしているだろう。
子どもの教育の第一的責任は家庭に
第一次安倍内閣で教育基本法が改訂された。自民党の悲願だった。改訂の多くは「改善」とは言い難く、改悪された条項も少なくないと考えているが、ただひとつ、子どもの教育に関して、第一次的責任は家庭にあると、新たに規定したことは、改善であると思う。子どもの教育への第一次的責任は家庭にあるのだ。
家庭の責任というのは、加害者に対しても当てはまる。いじめで甚大な被害が生じたとき、第一の責任を負うべき者は、加害者のはずである。加害者が法的責任を問われる年齢であれば、当然刑事責任がまず問われるべきだ。そして、法的責任を問えない年齢であれば、保護者がその責任を負うべきなのである。言い換えれば、いじめに関しては、自分の子どもがいじめの加害者にならないように、なっているときには、責任をもってやめさせるように、保護者は最大限の努力をしなければならない。努力が足りずに不幸な事態になったら、本人乃至保護者が第一の責任を負う。そして、このことは、いじめに関する「教育」のなかで、しっかりと教える必要がある。子どもにも、また保護者に対しても。
不幸な事態になってしまった場合、学校全体、管理職、そして担任教師の対応が不十分であるように見えるのは、ごく当然のことだろうし、事実、不十分だから、そうした結果になるわけだろう。しかし、その不十分さを、教師の懲戒可能性を規定することで改善するというのは、100%間違っている。事態を悪化させるだけだ。
学校のブラック労働環境の改善こそ大切
現在、働き方改革なる掛け声が活発(?)になされているが、学校現場では、その掛け声は虚ろに聞こえているに違いない。小中の教師のかなりの部分が、過労死ラインで働いていることは、つとに指摘されている。私の教えた学生で、非常に優秀で、教師への情熱が人一倍強い卒業生が、新卒のときに、6時半くらいから23時くらいまで、毎日勤務していたという事例が、複数ある。もちろん、土日もなしだ。そして、彼らは、その長時間労働のなかで、授業準備にかけることができる時間帯は、ほとんどないか、あってもわずかだというのである。新卒ということは、いままで正式な授業をしたことがない。しかも、小学校の場合には、全教科を教える。毎日1限から6限まで、まったく「新しい単元」なのである。それを準備時間もほとんどなく、しかも、明らかに過労死ラインを超える労働をしなければならない中で、教師に隠れて、クラス内でいじめが発生したときに、充分な対応ができると考える人がいるのだろうか。あるいは、自分ならできるよ、といえる人がいるだろうか。
常識的に考えれば、今の教師の過酷な状況を考えれば、授業は本人の意思よりかなり低水準のものにならざるをえないし、そういう中では、教師への信頼感はなかなか獲得できない。学校での、いじめの解決に最も必要なのは、教師への信頼である。そして、教師への信頼は、教師が子どもに充分対応できる時間を確保することなしには、獲得できないのである。だから、遠いようでも、学校のいじめ対応能力を高めるためには、教師に不要かつ余分な労働を課している状態を改善し、教師がもっと子どもたちと親密にコミュニケーションできるような環境を整えることが必要なのだ。
安全配慮義務
では、学校に責任はないのか。もちろん、ある。学校には、「安全配慮義務」がある。だから、学校は、子どもが安全に生活できるように最善の配慮をする義務がある。そして、教師が安全に働ける環境を実現することも、安全配慮義務の重要な柱なのだ。だから、その義務を負う責任者は校長である。いじめが不幸な結果に至った事例をみると、学校側の問題は、学校全体の指導的ありかた、それを組織する管理職の問題にあることが多いように、私には思われる。大津や矢巾はそれを強く感じる。だから、私は「責任は校長にある」と、前に書いた。
結論をもう一度書く。
1 いじめに責任を最も負うのは、加害者及びその保護者である。
2 学校での安全配慮義務に責任をもつのは校長である。
3 いじめを解決するために、最も必要なのは、教師への信頼であり、そのためには、ブラックといわれる教師の労働条件の改善が不可欠である。
このブログでは、3を実現するために、何が削れるかを考察している。