未来の教育研究4 教養論・国民的教養・多文化・階級文化

 21世紀の教育で最もシビアに問われているのは、教育内容である。学校制度をめぐる論議は、20世紀で完全に済んだわけではないが、21世紀になると主要な争点ではなくなっている。制度的な争点は、むしろ学校制度の運用、管理の面で残っている。しかし、AI技術の実用化という状況、そして、多数の職業が消える可能性が指摘されているなかでは、何を教え、何を学んでいくのかが、より重要な論点となっている。
 19世紀から20世紀にかけて、教育内容は、その主体と内容に区分されて議論されてきた。歴史的に、身分、階級、階層的に、学ぶべき教養、内容が異なっていたからである。エリート層は古典文化(日本では漢学、ヨーロッパではギリシャ・ローマ文化)を学び、一般大衆は3Rであった。義務教育が成立すると、初等教育では、3R中心の教育内容が教えられ、中等教育では、古典文化や職業的な実科内容が、分岐した学校に割り振られる形になっていく。従って、中等教育の教育内容の分化は、20世紀前半は、統合されることはなかった。(1)

 教育内容を検討する際には、言葉の問題が重要である。 “未来の教育研究4 教養論・国民的教養・多文化・階級文化” の続きを読む

未来の教育研究3 教育の自由・新自由主義

  私が学生時代以来、最も重要な理論的基本として考えてきたのは、堀尾輝久氏の「教育の自由」論から、教育や教育制度を構築する議論だった。しかし、「教育の自由」という概念は、公教育では、歴史的にもほとんど認められてこなかったもので、唯一、憲法上、教育の自由を認めているのは、オランダ憲法のみであるとされている。そもそも、公教育は、社会権としての教育権を実現したもので、自由権はその論理のなかに含まれていない。もちろん、実態として、自由に教育が行われている、つまり、教育の内容について、政府、公権力が規制しない時代(国によって、相当異なるが)があったことは事実であるが、それはまだ、教育内容を詳細に規定するほどの、政治情勢がなかったか、あるいは、政府にそれを実効的に規定できる力がなかったからである。
 最も、伝統的な教育、庶民の学校では3R、中等教育機関では、古典文化を学ぶなどの伝統的な内容はあった。更に、職業教育の要請は、内容上明確であるから、あえて国家的に規制する必要もなかったといえる。オランダの教育の自由も、実際に存在する学校が教えていることを追認するものであったといえるのである。 “未来の教育研究3 教育の自由・新自由主義” の続きを読む

未来の教育研究2 三分岐・総合制・単一学校制度

 三分岐型は、多くが、伝統的なエリート学校で、大学に接続する学校(グラマースクール、ギムナジウム(ドイツ)、VWO(オランダ))、義務教育となった小学校の上に接続する高等科が発展した学校(モダンスクール、ハウプトシューレ、MAVO)、そして、従来からある職業学校・実科学校(テクニカルスクール、レアルシューレ、LBO)の三つのタイプに分かれる。実科学校のレベル、評価は、国によって異なる。イギリスやドイツでは比較的高いが、オランダでは低い。そのために、MAVOとLBOは統合されている。(オランダでは、その統合前は4つに分かれていたが、統合によって3つのタイプになった。)
 総合制の学校制度は、この三分岐制度に対抗して構想されたものである。従って、1960年代になり、提案がなされ、政治的な争点となった。保守党は三分岐維持で、社会民主党(労働党)が、総合制を支持したために、自治体の政府をどちらの政党がとるかによって、左右された。 “未来の教育研究2 三分岐・総合制・単一学校制度” の続きを読む

未来の教育研究1 最初のメモ

2016年に「未来の研究に関する研究1」を『人間科学研究』(紀要)に書いて、その後、2、3と書きついでいく予定だったが、研究が膨大に膨らんでいったために、書かずにきた。定年となるので、その後にじっくり取り組もうと思っていたのだが、事情があって、今年書くことになった。未来の教育の構想がさかんに出ているのだが、実は、それほど革命的に新しいものではなく、過去の教育論とつながっていることを示したのが、1だった。しかし、現代の科学技術の発展を踏まえて、当然装いは新しくなっているし、学ぶ内容も変わっていく必要があると思われている。そうした動向が、顕著になる80年代、90年代に、教育制度の世界では大きな変化があった。それを扱うのが2で、いよいよ21世紀にはいって、21世紀の教育構想がだされ、実際に変わりつつある面と、そうそう変わり得ない部分がある、それを踏まえてどこに行こうとしているのか、あるいはいくべきなのか、そこに踏み込むのが3の予定であった。
 膨大なものになってしまったのは、戦後改革も経過せざるをえないと考えて、資料を集めだしたからだ。私の博士論文は、大戦間の教育制度改革(統一学校運動)だったので、やはり、その後の戦後改革があって、80年代につながることを無視するわけにもいかないと考えた。今年書かねばならないことになり、とりあえず、一番大事な21世紀に焦点をあてた考察にしようと考えている。時間があまりないので、ここに草稿を書きながら、完成させることにした。これまで書いたような内容から、急にアカデミックな研究の舞台裏のような文章が多くなる。 “未来の教育研究1 最初のメモ” の続きを読む

『教育』2019.7を読む 自由と向き合う自由の森学園の模索

自由の森学園とは
 「子どもが決める」特集のひとつとして、自由の森学園の校長新井達也氏の「自由という難解と向き合う」という文章が掲載されている。「自由の森学園」は、埼玉県飯能市にある私立の中学・高校である。非常にユニークな教育をすることで、注目を浴びており、私のゼミの学生が卒業論文で取り上げたこともある。何度も、学園にいってインタビューをし、特に通常とは全くちがう卒業式も見に行って映像を撮ってきたのを見たが、興味深かった。細かい校則や指定の服などがないだけではなく、いろいろな行事を生徒が主体となって行うことで知られている。
 しかし、そこにはなかなかたいへんな事情もあることが、新井氏の文章で紹介されている。
 まず「生徒会」がなく、行事などは、その都度「実行委員会」によって運営する。「今年はこの行事をやるのかやらないのか」から始まって、コンセプトが決まると各係の活動が始まる。体育祭、学園祭、音楽祭の三大行事とともに、入学式、卒業式も生徒の実行委員会で行うという。 “『教育』2019.7を読む 自由と向き合う自由の森学園の模索” の続きを読む

京都工芸繊維大学教授諭旨懲戒解雇 多少疑問だが

 毎日新聞2019.6.27によると、京都工芸繊維大学の教授が、学内で無断の営利行為をしたということで、解雇されたという。
 自分の専門にかかわる企業3社に学内の機器を使わせるなどして、設備使用料や技術指導料など、合計170万を受け取り、更に09-16年に学長の許可なく5社で兼業したという。ただし、受け取った金は研究費などにあて、私的流用はなかった。教授は事実を認め、「手続きや規則を認識していなかった」などと弁明したが、学長は「極めて遺憾。学生や社会に深くおわびします」とのコメントをだしたとされる。同趣旨の記事は多数あったが、どれもほぼ同じである。

 あまりに簡単な記事なので詳細がわからず、材料不足でもあるが、可能性をいくつかあげつつ考えてみたい。 “京都工芸繊維大学教授諭旨懲戒解雇 多少疑問だが” の続きを読む

学校教育から何を削るか15 教師の懲戒権


 あらゆる組織は、組織的な秩序を維持するために規則を設け、規則に違反したものを罰する。そうしないと、組織が維持できないからである。このことは、罰は組織の性質によって、その内容や与える方法が規定されることを意味する。国家という組織を維持するためには、法律で規定した「刑罰」を実行するが、それは国家社会の安全と秩序を乱す者を排除することが、当初のやり方であった。その後、追放や死刑という排除が難しくなると、刑務所に閉じ込めることで社会から排除するか、あるいは更生させることで危険性を排除する方法が付加されるようになった。刑罰の目的は国家・社会の安全と秩序の回復にあるから、排除と更生という手段がとられることになる。
 会社や役所のような仕事を行う組織では、排除は免職や停職、また重大な違反でなければ訓告や戒告などの懲戒処分がなされる。
 懲戒が規定されていることは学校も変わらない。では、学校ではどのような懲戒が行われるのか。学校は教師と生徒という全く異なる立場の人間が存在するので、それぞれの懲戒は異なる内容、異なる原則が適用される。教師は会社や役所と同じように、仕事を行っているので、懲戒の内容は免職・停職・訓告等で同じである。しかし、生徒は教育の対象であり、仕事をしているわけではないので、まったく異なった内容であるが、しかし、法的な規定としては、実はすべてが明確ではない。 “学校教育から何を削るか15 教師の懲戒権” の続きを読む

学校教育から何を削るか14 中教審答申の検討

 近年の働き方改革の「教育版」として、中教審が今年1月に「新しい時代の教育に向けた持続可能な学校指導・運営体制の構築のための学校における働き方改革に関する総合的な方策について(答申)」という提言を公表した。2019.1.25
 多方面に関する検討をしたことがわかるが、しかし、私が見るかぎり、これで教師の過酷な労働、中教審も使っている「ブラック学校」が改善するとは到底思えなかった。尤も、問題に対する認識は示しているのであるが、結局、文科省の審議会であるという点での限界、明確に提言できない領域があるという感じがするというべきなのかも知れない。
 まず答申は、日本の教師は情熱と知識等の教育水準において、世界に抜き出たものがあると理解を示す一方で、現在の教師の労働の状況は「差し迫った状況にある」と改善の必要性を訴えている。特に、文科省と教育委員会は本気で取り組む必要があると主張する。これまで本気で取り組んでいなかったということなのだろうか。私はむしろ、教職の魅力を無くすように、文科省は執拗に追求してきたように思えてならない。 “学校教育から何を削るか14 中教審答申の検討” の続きを読む

『教育』2019.7を読む 子どもが決める

 『教育』7月号は、教師と子どもの主体的に関わるシステムについて特集されている。今回は、山本敏郎「アソシエーション過程としての自治」を取り上げる。
 山本氏の主張をまとめると以下のようになるだろう。

 「現在の児童会・生徒会は、学校の管理-運営に対する「協力参加」であり、しかも、集団つくりにとって貴重な学級会活動は、1989年の学習指導要領から学級指導と統合され、学級活動になっており、学級の子ども組織は公式に存在しないことになっている。子ども自身にかかわることがらについては、子どもの権利条約などで認められているが。(意見表明権)
 組織は、主体的・能動的・意識的に結びつくアソシエーションと、他人によって結びつけられたコンバインドというふたつがあり、コンバインドとしての児童会・生徒会をアソシエーションに転換していく実践が望まれる。子どもの権利条約では、「子どもの見解が、その年齢及び成熟に従い、正当に重視される」としており、管理者と交渉する権利が認められるべきである。権力過程としての教師の主導権を、子どもに奪い取らせる過程として自治的集団づくりが実践されてきた。それこそアソシエーション過程である。特定の問題関心や共通の趣味などの有志の自発的な組織づくりをすすめてきた。問題解決のための当事者グループ、クラブ・サークル的なグループ、援助のためのボランティアグループ、社会的な問題に関心のある社会運動グループなどである。」 “『教育』2019.7を読む 子どもが決める” の続きを読む

教育行政学ノート 道徳と入試2

 前回の結論は、つまり、「入試には使わない」という指導と「道徳の教科化」とは、基本的に矛盾しているということであった。
 では、広い意味で道徳的要素を、入試に一切使わないほうがいいのかというと、そう単純ではない。
 かつて「内申書裁判」というのがあった。現在は世田谷区長をしている保坂展人氏が、高校受験の際に、内申書での総合評価の欄の記述故に、ほとんどの高校で不合格になったことで、その記述の不当性を理由として訴えたものである。当時は大学紛争の時代で、高校や中学にも波及していたのである。彼は、政治集会などに参加し、学校の行事等への批判活動をしたということが記述されていたことが、訴訟で明らかになっている。この訴訟後に、入試に使うための調査書(いわゆる内申書)への記述に大きな変化があったとされる。単純にいえば、否定的なことは書かないようになった。以前からそうだったと思われるが、一層徹底されたわけである。 
 また、一時愛知県で行われていた人物評価の扱いも有名なものだった。当時、相対評価の人物評価欄があり、ABCでつけるのだが、C評価を付けられた生徒は、まず高校に合格しないと言われていたために、教師はCを誰につけるか、苦悩しなければならなかった。相対評価だから、かならずつけるべき人数が決まっていたからだ。これは、当時「愛知の管理教育」の象徴だった。もちろん、今では行われていない。 “教育行政学ノート 道徳と入試2” の続きを読む