2019年5月号の第二特集は、「政治的中立性と教育の自由」である。通常、特集に関しては、取り上げる趣旨などが、編集後記に記されるものだが、この第二特集については、委員長である佐貫氏が担当したことのみが記されている。したがって、何故今この特集がくまれたのか、正確な理由かわからないのだが、昨年の大会で、後援をしていた川崎市教育委員会が後援をおりるということがあったことが、佐貫氏の論文に書かれており、それも契機のひとつだったのだろうと想像する。酸基院選挙の結果によっては、憲法改正問題が国会に提起される可能性がないわけでもないという、そうした意思も働いているのかも知れないが、第一特集の「教育実習」ほどには、テーマの凝縮性が乏しい気もする。
5本の論文・対談が掲載されている。
・中嶋哲彦「公権力規制原理としての政治的中立性」
・金子奨・菅間正道 「憲法改正論争事態」で教師は?
・富田充保「意見の違いこそ政治の原点」
・中田康彦「教育を非政治化するという政治化の動き
・佐貫浩「教育研究運動と政治的中立性
主に、中嶋論文を材料に考えていきたい。
中嶋氏は、ある講演会で、定年を控えたという教師が、「憲法を支持するので、生徒たちに改悪反対するように教育する必要がある」と意見を述べたので、憲法支持はいいとして、そういう立場、つまりひとつの価値観を押しつけることには反対せざるをえないとし、客観的知識をえて、自分自身で考え、他者への共感をもつように教育することが大事であると返している。つまり、この後半の部分が、中嶋氏のいう「中立性」ということなのだろう。
中立性の法的規定の意味
中嶋氏は、教育基本法を引用して「中立性」を議論する。
教育基本法 第十四条 良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない。
2 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。
氏の指摘するように、この条文は、教育基本法改訂に際して、内容的変更がなかった。なかったから改悪されなかったという印象を中嶋氏がもっているかも知れないが、この条文は既に、付加的な法と通達によって、政府に都合のよいように補完されてきた。
ひとつは、「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法」(1954年成立)である。次のような規定がある。
(特定の政党を支持させる等の教育の教唆及びせん動の禁止)
第三条 何人も、教育を利用し、特定の政党その他の政治的団体(以下「特定の政党等」という。)の政治的勢力の伸長又は減退に資する目的をもつて、学校教育法に規定する学校の職員を主たる構成員とする団体(その団体を主たる構成員とする団体を含む。)の組織又は活動を利用し、義務教育諸学校に勤務する教育職員に対し、これらの者が、義務教育諸学校の児童又は生徒に対して、特定の政党等を支持させ、又はこれに反対させる教育を行うことを教唆し、又はせん動してはならない。
(罰則)
第四条 前条の規定に違反した者は、一年以下の懲役又は三万円以下の罰金に処する。
似たような規定は、公務員法にあり、教育公務員は、地方公務員よりも制限の強い国家公務員法の政治活動の制限規定が適用されているが、更に、こうした教育活動における制限が法で決められているのである。
もうひとつは、高校生の政治活動を禁止する文部省の通達である。これは1060年代末の学園紛争時代に、文部省が高校生の政治活動を全面的に禁止するように、指導した通達である。しかし、周知のように、選挙権が18歳に下げられたことによって、高校生の一部が選挙権を行使することになった。選挙権を行使する人が、政治活動をすることができないのは不合理であるということで、事実上、この通達は無効化されている。しかし、自治体、あるいは学校によっては、高校生の政治活動を届け出制にするという規則を定めているところもある。このブログで、ヨーロッパで盛んに行われた高校生の、気候変動に関する毎週のデモは、日本ではついに起きなかった。日本政府は、京都議定書やパリ協定の実行に、熱心とは言い難い。高校生が中堅の大人になるころに、地球環境が悪化している危険性は充分ある。そうした問題に取り組ませいない、高校生も取り組まない、そういう政治風土は、文部省や政府が作ってきたものである。
中嶋氏に戻る。
氏にとって、教育基本法の条文、つまり「中立性」とは、まず何よりも、国家への規制原理であり、特定の政治的立場の教育が蔓延していることに対する対応原理であるという。他方、教師には教育の自由があるのだから、専門性に基づいた政治的教育が認められるべきだという見解に対して、そういう根拠はないと退けている。要は、教育の政治的中立性が確保されるように公教育を管理する責務が、国家にはあるという。
中立性の侵害
では、中立性が侵害されるのはどういう場合なのか。中嶋氏は以下の3つをあげる。
・外見上は法令に基づくとされる国家による不当な支配
・第三者による介入、およびその放置
・中立性に反する教師の教育活動、およびその放任
第一の具体的事例は書かれていないのが残念である。
第二の具体的事例として、都教委が性教育に介入した七生養護学校事件をあげている。七生養護学校事件は、私もかつて講義で取り上げていたが、本当に酷い事件であった。知的障害をもった子どもたちは、性教育をしようにも言葉では理解させることが難しいので、人形などを作り、それで具体的に説明していた。当初は都教委はむしろ称賛していたのだが、都議会議員の数名が、反道徳的な教育であるとして非難し、視察を強圧的に実施し、都教委に働きかけて、この実践を問題あるものとして、教師たちを処分させたのである。知的障害の人は、性的被害にあいやすいことは、よく知られている。したがって、適切な性教育は、必要なものなのである。だが、この議員たちは、性教育そのものを不道徳的なものとして排撃する、江戸時代的な感覚の持ち主であった。都教委は、こうした攻撃から学校を守るべきであったのに、自ら処分する立場になった。以前は、この実践を称賛していたにもかかわらず。
3番目が最もディレンマのある難しい問題としており、明示していないが、森友事件を念頭においているようだ。教育活動の逸脱を国家によって是正させることのディレンマである。確かに、これは単純な問題ではない。森友学園の理事長籠池氏は、もともとは安倍晋三氏の盟友のつもりであった。日本会議のメンバーとして、志を同じくするものであり、教育勅語を基本理念とする幼稚園を経営し、それを小学校にひろげようとしたのが、籠池氏の活動だった。安倍首相は、当初はそれを歓迎していたわけだが、土地取得に関する疑惑が指摘され、その方面から行政の不当な関与が疑われた。そのことを追求されたときの、幼児的で稚拙な対応を安倍首相がしたために、ずっと尾をひくスキャンダルになったわけだが、政治的中立性という観点からみると、結果的に、教育勅語を理念とする小学校の建設が流れたが、議論がきちんとなされたわけではない。安倍首相および夫人と、財務省への批判のラインで、野党は手を組み、籠池夫妻を応援する形になったが、しかし、それは同時に、夫妻がやろうとしていた教育こそ、教育の中立性を侵すといわざるをえないものだったことが、あいまいになってしまった。
公=中立性という観念の浸透が真の問題
さて、中立性の問題を考える上で、必要だが、この特集で触れられていないことがある。
近代社会は、発展すればするほど、多様な価値観、存在様式、生活スタイルなどが出現する。戦後70年をみても、戦後間もない時期は、スポーツといえば、相撲か野球だった。ポピュラー音楽も、「歌謡曲」だったが、今は多数のジャンルの音楽があふれている。食べ物も、服も、あらゆることが多様になる。教育に求めるものも同様なのだ。政治的見解もこの例にもれない。
教育的理念、価値観に対して、中立は重要ではないとする国もある。オランダはそうした国である。様々な教育理念に応じた学校があり、特定の理念に基づいた学校を設立する自由がある。子どもや親は、自分の理念に合う学校を選択できればよいというのが、建前となっている。
オランダ的自由を保障する国は他にもあるが、多くの国は、国家的な共通の価値観を絶対的に重視する方向になっている。日本は、もともとそうだった。共通の価値観を重視するといっても、日本においてすら、教育的見解、政治的見解は多様であり、回数は少なくとも、政権交代も起きる。そういう中で、「中立性」はどのように、具体的に実践のなかで扱われるのか。
大別すれば、ふたつの立場があるように思われる。
ひとつは、民主主義社会である以上、多様な価値観が選挙で争われ、多数を占めた勢力が政権を担当するのだから、その政権によって提示された価値観的立場を守ることが、中立性を守ることであるとする見解である。現在の日本でいえば、学習指導要領を正しいものとし、検定教科書を教えることが、中立性を守る教育実践であるとするものである。
他のひとつは、様々な見解をできる限り、客観的かつ冷静に紹介し、どの見解が正しいと思うかは、子どもたちの判断に委ねるという実践法である。
中嶋氏やその他の論文でも、この特集で触れられていないと感じるのは、この第一の立場が、現在の日本の、特に若者のなかでは、圧倒的に強い感覚になっているということである。『教育』を発行している教科研は、当然、第二の立場にたっているだろう。しかし、私の誤解なのかも知れないが、多様な見解を理解した上で、じっくり考察し、何が正しいか考えようという姿勢は、若者に限らず極めて弱いのではないだろうか。では何が正しいと思っているのか。それは公的な見解である。
私が授業や雑談で、学習指導要領にも、おかしな、間違った内容があるんだよ、などというと、私のゼミ学生ですら、非常に怪訝な表情になる。学習指導要領には、正しいことが書いてあると、絶対的に思っているのである。私は一年生のときから、教育に多様な見解があるということを重視し、大教室でもそうした意見をださせ、できる限り討論させるような授業をしてきた。それをよく知っており、それがいいと思うから、私のゼミに参加するのである。しかし、そういう彼らでも、学習指導要領は絶対なのだ。それは、教員採用試験を受けるという立場も関係しているかも知れないが、やはり、これまでの教育で、「公」に対する姿勢を、そのように形成してきたのではないかと思っている。
金子奨・菅間正道氏の対談『「憲法改正論争事態」で教師は?』で、「生徒の意見をきくなんておかしいといわれた」という体験を語っている。更に、県教委の授業研修会で「生徒にまったくレスポンスしない授業案をつくれ」という指導があったという話が出てくる。そういう学校が多数かどうかは、私にはわからないが、とにかく学校のいうことは絶対的である、授業も教師は絶対だという「立場」が強調されている雰囲気はあるのだろう。
レスポンスなど必要ないという授業観は、それが中立的な教育であるという認識があると思われるが、そうした中立性ではなく、多様性の許容と、自由な討論という実践こそが中立的であるという立場が何故正しいのか。
結論的にいえば、そうした教育実践でこそ、人はもっている可能性を最大限に伸ばすことができるのであって、そうして育った人が、未来の社会を担うことができるからなのである。「生徒のいうことを聞く必要などなく、学校のいうことに従わせればいいのだ」「授業で生徒のレスポンスなどいらない」という教育で、人が育つはずがない。文部科学省だって、今やそんな立場はとっていないのである。
だが、教育現場では、お上がいうことに従うのが、正しいという前提での教育が行われているのではないか。そうした中立性観念こそが、この特集のテーマで掘り下げられる必要があるように思われる。