学校教育から何を削るか8 部活

 教育実習の研究授業を参観に行ったとき、元校長だったという人が教育委員会から派遣されていて、一緒に授業をみたのだが、そのあと、帰るときに、駅まで車で送るというので、車に乗せてもらったことがある。教育学者である私の意見を聞きたいことがあったようなのだ。車が発車するとすぐ、「部活についてどう思いますか?」と聞いてきた。私は、相手が元校長だというので、率直に持論を述べた。「部活は、以前は意味があったと思うが、今では制度疲労を起こしている。学校教育としてはやめて、社会教育に移すべきであると思う」といった。すると、その元校長は、自分が校長時代、部活の顧問を見つけるのにいかに苦労したかを縷々述べ、部活がなくなってほしいというのだ。正直、校長がそう思っているというのは予想外だったので、少々驚いたが、同志をえたと思われたのか、話がはずんだ。
 部活は時代遅れである、現代に合わないということは、他のブログでも散々書いてきたし、授業でも、「そういう考えもある」という形で、見解を紹介してきた。本心そう思っている。
部活は何がマイナスか
 部活は、本当の意味で、スポーツを振興し、国民の身体の健康を増進させる体育のあり方として、もはやマイナス面のほうが大きい。その理由はたくさんある。

1 子どもも大人も、スポーツや芸術、学問、諸活動に対して、多様な要求をもっており、こうした多様性に対応した部活動を保障することは、学校教育の枠組みでは、絶対に不可能である。だから、自分のやりたい部活がない人はたくさんいるはずである。スポーツにしても、芸術にしても、狭い範囲で済んでいた時代は、部活でもなんとか間に合っていた。しかし、今は、実にたくさんのスポーツや芸術・芸能があり、ボランティアなどの要求もある。そうした要求を充分に満足させることが、学校単位では無理なことは、誰にでもわかるはずである。

2 あるスポーツの部活は、学校にひとつしかない。どんなことでも、行う人の水準は、高レベルから初心者まで大きな開きがある。中学生ですら、それは当てはまる。ひとつの部活で、あらゆる水準に対応することは無理である。高レベルの生徒がたくさんいれば、厳しい練習となり、初心者はついていけなくなる。初心者が多ければ、高水準の者は物足りないだろう。また、スポーツの部活は試合に出るから、多数の部員がいれば、試合に出られない者が多数でてしまう。
 こうした弊害が最も現れやすいのが中学の柔道部である。多くの場合、小さいころから柔道をやっている上級の者と、中学ではじめて柔道をする初心者がいる。よほど注意して練習しないと、上級者が初心者を怪我させることが起きやすい。

3 部活の顧問は、多くがその学校の教師であり、本来の職務ではない。最近は、わずかながら手当がでるが、指導に費やされる時間や労力に見合う額には、ほど遠いものであり、実質的には、無償労働なのだ。にもかかわらず、事故などが起きると、顧問の責任が問われる。本来の学校教育であれば、国民が税金を払い、教師は、とにかくも賃金を得て、実践を行う。しかし、部活は、指導を受ける側も、本来負担すべきものを負担せず、指導者は、働きながら対価をえることができない。いかにも不公正なシステムなのである。

4 部活は学校の中で行われ、学校教育に使用する施設を利用するので、本来のスポーツなり、芸術とは異なる姿で行われることが多々ある。テニスや野球は、中学ではほとんどが軟式テニス、軟式野球である。国際的なスポーツには存在しない種目だ。学校のプールは、文科省の基準によって、水深1.1メートルと決められているので、公式の水泳競技には使えない。そして、だいたいが25メートルである。つまり、これらのスポーツを本格的にやりたいと思っている者は、近年では徐々に部活に入らないようになっている。むしろ、地域のクラブチームに所属するのである。芸術面では、音楽の合奏の基本は、オーケストラであるが、日本では、ほとんどの部活で吹奏楽になっている。

部活をなくしてどうするのか
 それは、社会教育の管轄にするのである。本当は、ヨーロッパのように、社会体育として学校でも体育の授業が行われるほうが、ずっと本来の体育の趣旨に適う。なぜかというと、社会体育として施設を建設する場合、大人の使用を前提に作る。大人は休日や夕方に利用し、昼間、学校の体育の授業をその施設を使って行うのが社会体育である。
 この場合、大人用に施設を作っていることと、同じ施設を使い続けることになり、生涯スポーツがやりやすくなる。日本では、学校を卒業すると、スポーツから離れてしまう人が多いのは、社会体育施設が圧倒的に少ないからである。大人用の社会体育施設を子どもが利用するときには、補助用具を使って、子どもサイズにすればよい。
 しかし、日本は社会体育の形をとっていないので、社会のなかに、施設があまりない。そこで、施設は学校を利用すればよいのである。学校施設を、5時までは学校が管理し、それ以後は、社会教育担当者が管理すればよいのだ。
 そして、学校の施設にマッチしたスポーツクラブを、学校ごとに決めていく。例えば、A校はグランドで野球部、体育館でバレー部、B校では、グランドでサッカー部、体育館でバスケットボール部等々。そして、同じ野球部でも、レベルや練習水準をわけておけばよい。学校が終わったら、自分の所属する部活がある学校に移動するのである。
 そして、そのスポーツの専門の指導員をおき、資格をもった者が指導をする。部活の指導もしたい教師は、資格をとって、指導をすればよい。いずれも、有給とし、参加する部員は、それ相応の費用を支払うべきである。社会教育の一環としての部活であれば、公費援助があるので、民間のスイミングスクールに通っている場合よりは、ずっと安い費用で済むはずである。そもそも、指導を受けるのに、まったくの無償労働を要求するのはおかしいのである。
 このようにすれば、芸術的な音楽活動をしたい者のために、オーケストラ部も成立するだろう。
 この形態にすれば、上記の問題点すべてをクリアできるのである。
 文科省は、顧問に外部コーチを増やすなどとしているが、それは文字通り焼け石に水であって、現場の過重労働を軽減するには、ほとんど役に立たないだろう。

キャッチアップ型教育から脱却する必要
 さて、このような話をしても、教師になりたいと思っている学生たちのなかで、賛成する者は少数である。なぜか。その理由のなかに、日本の教育教育の特質、ある人からみれば、長所であるが、私から見るとそれはむしろ短所である特質が浮かび上がるのである。
 それは、部活を通して、あるいは、部活が行う試合を通して、競争心を高め、学校単位で競争することで、学校の一体感を醸成することを目指すという教育姿勢である。強い部活があれば、**部全国優勝という垂れ幕が飾られる。それをその学校の生徒は誇らしく思うわけである。指導者は満足し、「力」をもつようになる。
 このような教育が効果をあげうるのは、よく指摘されるように、「追いつき追い越せ」型の経済が主流である社会であり、「追いつかれる」立場になるや、まったく違う教育のあり方が求められるのである。受験態勢と部活は、まさしくキャッチアップ時代の学校教育であり、今やそこから脱却する必要がある。脱却しないまま、20年30年、同様の教育をしてきたから、今後日本の国力はどんどん落ちていくことになるのではないかと危惧される。
 日本の受験教育体質は、勉強を受験のためにする、競争に勝つためにするというスタイルを強固に作り上げた。大学生は、そうした受験勉強体質の弱点を、誰もが自覚しているだろう。受験学力などすぐ忘れてしまうのだから。
 部活は、同じ学校の生徒は同じなのだという「同一性」意識を強化させ、「同一」スタイルの教育を作り上げる。
 スポーツをするには、部活に入り、誰でも試合のために練習する。強い部活には全校で応援し、自校意識を高める。
 しかし、それは、日本社会に特有であったとされる同一円構造そのものであり、今後の社会には、多様な所属意識をもち、多様な場面で活動できる人が必要となっていく。教育が、人材養成をその目的のひとつとしている以上、時代遅れの人材養成は改めなければならない。部活は、その最も強力な支えであった。部活が制度疲労を起こしているというのは、そういう意味である。
 教師を志望している学生のなかで、部活の指導をしたいことが理由となっている者が少なくない。彼らも、現在のような多様なニーズに合わない部活よりも、ニーズにしっかりあった指導が可能なところでの指導のほうが、ずっと充実感をえられると思うのだ。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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