オランダ留学記92 1到着と学校入学

(これまで書きためたり、発表してきた文章をまとめて公刊していくことにしました。Kindleを考えています。そこで、ここに登校しながら、原稿の整理をしていくつもりです。まず第一に二度オランダに留学したときの、日本への送信(ニフティ)を材料にして、書いていく予定です。なお太字の部分が、当時日本に送った文章です。)

はじめての外国

 香港、パリの空港を経由して、アムステルダムのスキポール空港についたのは、1992年8月12日だった。26時間の長旅だった。真夏だったが、朝8時に到着したからか、ずいぶんとひんやりしていた。ライデン大学日本学科の?さんが車で迎えにきてくれて、そのまま予約したホテルに直行した。本当はこんな朝早い到着の客などないのだが、そこは快く受け入れてくれて、部屋に。普通のホテルのイメージとは全くちがって、かつての裕福な家をホテル用に改装したもので、ライデンから、これから住むことになるウーフストヘーストあたりには豪邸が並んでいる。しかし、家族が住んでいる家はほとんどなく、税金が高いので手放してしまい、企業の事務所や分割した住居になっているのがほとんどだそうだ。だからこのホテルも昔風の家の作りで、落ち着いてはいるが、床がみしみし音がして、ちょっとタイムスリップしたような感じだ。
 まず初めにやらなければならないことは、大使館と市役所にいって手続きすることだ。市役所の手続きはよくわからないので、引っ越してからということにして、早速ハーグの日本大使館にでかけた。大使館といっても、ちょっと大きめの一軒家という感じで、お金持ちの友人宅を訪ねるような雰囲気だったし、非常に態度が悪いと脅されていた大使館員の人も、まあ親切で、特に面倒なこともなく手続きが終了した。

 帰宅して、散歩。何よりも驚いたのは、犬の糞が歩道に散乱していることだ。注意して歩かないとすぐに踏んでしまう。娘たちは、数えながら歩いているが、すぐに100になってしまう。パリもそうだったから、この時期までは、ヨーロッパでは犬の糞を散歩中に片づける義務がなかったようだ。ライデン大学のボート先生に、このことを尋ねると、「オランダでは、犬の糞は雨に流されて地中にしみ込んでいき、豊かな緑の栄養素になるんですよ」とジョークをいっていた。舗装された歩道だから、そんなことはないのだが、日本では当時、犬の糞は、散歩する飼い主が持ち帰るように指導されていたから、安心して歩くことができたので、びっくりした。犬に驚いたことはまだある。一年間オランダで過ごして、多くの家で犬を飼っていたが、犬の鳴き声を聞いたことがほとんどなかったのである。日本で、当時私が住んでいた地域では、犬をペットとして飼う家と番犬として飼う家の双方があって、番犬のほうは郵便屋さんなどに激しく吠え立てていたので、それはそれで気の毒な感じではあったが、犬の吠える声は珍しくなかった。さすがに21世紀になると、私の住んでいる地域では、番犬はほとんど見られなくなったが。
通りの祭
 8月15日に通りの祭があるので、そこに来てほしいということだったので、当日家族揃ってでかけた。ヨーロッパは、日本のような番地がなく、通りに名前がついて、その通りをはさんだ家に番号がついている。私たちが一年間住むことになる家はトーレンフェルト・シュトラートという通りで、ライデンの北に接しているウーフソトヘースト市にある。どの通りでも祭をするのかは定かでないが、この通りは、非常に近所づきあいがよく、8月の中旬に通りの祭をしているという。テントが張られ、料理を持ち寄って大人たちは談笑し、子どもたちはいろいろなゲームをして愉しむ。オランダでは、大人が子どもの簡単だが面白いゲームをよく知っていて、公園などで愉しむ姿を何度もみた。
 娘たちも早速このなかに入った。ひとつは、てこの原理を利用して、水のはいったバケツを自分で蹴りあげ、バケツを掴むという遊びである。当然、掴んだ瞬間に水を全身に浴びることになり、ずぶ濡れになる。参加者がみんなびしょびしょになって愉しむゲームだ。もうひとつは、ボールを股にはさんで、ポールを離さないようにして、S字カーブを曲がり切るという単純なゲームだ。変哲のない遊びだが、やっている者も見ている者も笑えるし、愉しめる。

 

 娘たちは、びしょ濡れになったが着替えをもっていなかったので、同じ連年の女の子のいる隣人の家で服を貸してくれ、着替えもさせてくれた。こうしてすっかり友達になって、翌日の引っ越しを迎えることができた。
 私たちが家を借りることになった家主さんは、ウペイさんというライデン大学とトヴェンテ大学の教授をしている方で、私たちと同じ時期にアメリカに留学、家族でいくということだった。
学校選び
 移り住んだのは8月の16日で当日は日曜日。まず最初にやらねばならないのは、娘たちの学校探しだ。早速翌17日の朝から、まずウペイさんに推薦されていた徒歩2分程度のところにあるモンテッソーリ学校に電話したのだが、既にクラス30名を超える人数が在籍しており、オランダ語はもちろん、英語もできない子どもを受け入れることはできないと、あっさり断られてしまった。実は、このときはじめて気づいたのだが、既に、新学年度が始まっていたのだ。オランダは、全国を、8月中旬から進学年度が始まる地域と、9月1日からの地域とに分けてあるのだ。オランダに限らずヨーロッパではよくあるシステムだそうだが、要するに長い夏休みのバカンスに、車で旅行にいく者が多く、各地でキャンプ生活をしてくる。彼らが学校の開始にあわせて一斉に帰国するので、とんでもない交通渋滞になるというので、それを緩和するための措置なのだ。そんなことを全く知らないまま、9月1日に始まると思い込んでいた私たちは、焦ってしまった。そこで、徒歩10分くらいのところにある、第二推薦のイェーナプラン学校に電話した。するとそこも一杯だという。オランダの通常の学校は、一クラス20名程度なので、30名というのは限界に近い登録があるという。人数が多ければ断ってもいいのだ。ただ、イェーナプランの学校は、受け入れられないけど、助言はできるだろうから、学校にくるようにというので、早速四人ででかけた。そこで近くにある公立学校を紹介されたので、早速知り合いになった近所の人にその公立学校の評判を聞くと、いい学校だというので電話をかけたところ、すぐにオーケーの返事で、その足で学校にいき、手続きを行った。そして、担任を紹介され、翌日から登校という段取りだった。言葉ができないことと、上の娘は、6年だが、オランダの同じ年齢の8年生は、中学進学を控えて、全国試験なども受けるので、あまり居心地がよくないだろうということも考慮し、それぞれひとつ下の学年にはいることになった。これらのことをさっと決めてしまうのだから、校長の権限が非常に明確であり、運営能力もあるのだと感じたものだ。
 そのときの確認は、教科書、学用品の類は一切学校で準備するので、揃える必要がないこと、体育は、長女が体育館、次女が水泳なので、それにふさわしい服装であれば、なんでもよい、つまり、学校での決まった体操着、水着はない。昼食は、帰宅してもよいし、弁当をもってきてもよい、とごく簡単なものだった。実際にそれで一年間の学校生活を送るのに、間違えることはなかった。
 長女の担任は、若い男性教師で、教師になったから間もないということだったが、いかにもオランダ人らしく背が195センチもあった。面談する機会が何度かあったが、彼が椅子に座り、私がたっていると、ちょうど目線が同じくらいになる。当時、国民の平均身長では、オランダ人が世界一といわれていたが、それを実感したものだ。次女の担任は、50前後のふとったおばさん風の人で、包み込むような温かさを感じさせた。
 日本人は、その学校としては初めてだったようで、とにかくオランダ語はもちろん、英語も全くできないのだから、かなり当惑しただろう。ずいぶんと苦労があったに違いない。
 それからしばらくは、子どもたちの送り迎え、日本へのインターネットの接続、ライデン大学での研究等に時間を送り、やっと、日本への第一報を送った。2カ月経っていた。

オランダに来て2カ月
(19) 92/11/02 05:08       

 オランダに来て2カ月ちょっとが経ちました。この間結構忙しく、家族で来ているので、子どもに関することが、いろいろとおきました。
 オランダからもアクセスなどと書いたのに、今までまったくできず、そろそろ忘れられた存在になっているかも知れません。
子どもは日本で小学校4年と6年だったので、こちらでも当然小学校に入っており、学校をめぐって、多くのことを考えました。おいおいそれらを書いていきます。ただ、電話代がとても高いので、頻繁にアクセスすることはできないし、また読んでいると時間がたつので、当分は書き込みだけにします。あしからず。
 オランダでは以前書いたように、完全に学校を親が選択することができます。そして、学校の規模自体がとても小さく、各学年ごとに1クラスしかありません。日本では1つの学校を3つか4つの学校に分割して、好きな学校にいくというようなイメ-ジです。したがって朝はいろいろな学校に行く子どもたちが交錯するという、日本ではあまり見られない光景が展開されます。学校の校庭はとても狭く、また石畳があるので、遊ぶ場所ではなく、家の近所で遊ぶことになりますが、学校は様々なので、構成集団が時々に変化していくことになります。
 また小さな学校なので、体育館やプ-ルなどは学校自体がもっているのではなく、地域にあるものを共有して使用します。従って、体育の時間は教師が体育施設まで連れていくことになります。担任の教師が体育をすることもあるし、また専門の指導員がすることもあります。
 学校自体は生徒の帰属集団意識の高揚などを図らないのですが、なんと言っても、1クラスしかない学校に、8年間通うので、親や子ども同志の親しさ、とくに親同志の親しさは、日本とは比べ物にならないほどのものがあるようです。それに選択して入ったということで、日本にあるような教師と親の相互不信のような現象は、ずっと少ないようです。 しかし、オランダでは戦前のヨ-ロッパの学校のような、小学校後にすぐ大学コ-ス、職業コ-スなどに分化します。基本的には成績なのですが、最終的には本人の希望によっし進学することになります。「自由な教育のオランダ」にしてはめずらしいのですが、全国統一試験をやって、進路に対する参考資料にします。
 最終の8年生になると、その試験を受け、小学校の校長と上級学校の校長、そして親と子どもとの間で話し合いがもたれ、進路を決めることになるようです。したがって、私の子どもが通っている学校では、8年生は、頻繁に校長が授業をします。そうした生徒の力を把握しようとしているようです。
 成績が悪ければ、大学コ-スを諦めるように勧告されるのですが、どうしても行きたければ親や子どもの希望が生かされることになり、日本のように「入学試験は神の声」というようなことはありません。しかし、大学コ-スは極めて勉強が難しいので、そういう生徒はどんどん落第していくことになります。そういう個人の権利と学校の階層化のバランスがあるのです。ただ日本では始めの選択は15歳で、専門分化は18歳が普通だ、というと、大体のオランダ人はその方がいいと答えます。
 にも関わらず、そうした制度に変えようという「統一中学校」の提案(社会党がやったようです)は、1970年代に大きな反対にあって潰れてしまいました。その間の事情は興味があるので、ぜひ調べてみたいと考えています。
 では今回は簡単にここまで。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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