21世紀になって、官庁の統廃合の結果として生まれた文部科学省。それまでは文部省と科学技術庁だったふたつが統合されてできたわけだが、文科省になってからの大学に対する指導、あるいは介入は次第に強まっている。かつて文部省tが、教育行政当局として積極的に関与していたのは、高校までであった。もちろん、大学政策はあったが、やはり大学の自治が尊重されていたといえる。しかし、2004年に国立大学が法人化されたころから、少しずつ大学への文科省の管理的介入が増えてくる。認証評価などが皮切りだっただろうか。今では、シラバスなど、形式的なことだが、本当に細かいことにも口出しをしてくる。そして、そうしたひとつとして、「学修成果の可視化」なる取り組みがある。
いくつかの大学の広報や推奨プログラムを見てみたが、首をひねるようなものばかりだ。とにかく、ある種の「形式」を押しつけて、これを実施せよ、しないと補助金を出さないというような「誘導」をしてくるわけである。 “学修成果の可視化 文科省の進める大学改革の不毛” の続きを読む
カテゴリー: 教育
大学の授業で出欠をとることは
10月15日のAERAdotに「他人の得が許せない人々が増加中、心に潜む苦しみを読み解く」という文章が出ている。文字通り「他人の得」に対する怒りの感情の事例がいくつか出ている。
(1)定食で飯のおかわり自由にクレームが出た。おかわりしない客からみると「不公平だ」という。
(2)れいわ新撰組で当選した車椅子議員のために国会が改修されたことに、「自己負担でやるべき」という意見がネットで流れた。
(3)出席せずに単位をとるのはずるいから、出席をとってくれと要求する学生
(4)レッドカーペットを歩くアンジェリーナ・ジョリーのサインをもらうために、子どもを近づけた女性に反感を抱く女性
(5)早く結婚したのに子どもが生まれない女性が、自分より早く出産した女性を許せないと感じる
(6)若い人はどこでも就職できるけど、40代の自分はどこにも転職できない、と若い職場の同僚をいじめる女性
この事例の間に、心理学者や宗教家のコメントが入るのだが、それはこの際取り上げないでおく。正直常識的なコメントに過ぎない。この文章を読んで、ブログを書いてみようと思ったのは、(3)に関してである。私にもこうした経験があるが、いくつか気になった。 “大学の授業で出欠をとることは” の続きを読む
神戸の教師いじめ事件 独自の人事制度が影響?
10月9日の毎日新聞に、「独自の人事制度影響か 神戸教諭いじめ 児童認識、同僚は黙認」という記事がでている。まずいじめが子どもや教師に認識されていたという事例が書かれている。「先生が蹴られるのをみた」「加害側の女性教員が被害教諭を学校の廊下で蹴るのをみた」、この教員は被害教員について子どもたちの前で「私のワンコ(犬)みたいな存在や」と言い放った、そして、被害教諭から、いじめを聞かされたこともあったというのである。
なぜとめられなかったのかという問いに対して、本人の希望を踏まえて、最長9年間同じ学校に在籍できる、神戸の市立小学校独特の制度が原因ではないか、というある市議の指摘を紹介している。そして、市教委は、「ベテランから若手まで最適な移動を返済できるよう改革する」という方針だそうだ。
しかし、問題をそらしているのではないかという疑問がわく。 “神戸の教師いじめ事件 独自の人事制度が影響?” の続きを読む
教師が教師へのいじめ 残された教師集団による自己検証が必要だ
今更いじめが起きても驚かないが、新学期になって立て続けに「教師による教師へのいじめ」が二件も報道されたのには、驚いた。最初は9月12日の毎日新聞「小2~3年の担任4人 2学期開始から休む 教員間でトラブル?奈良・郡山南小」という記事である。この事情は、続報がないのでよくわからないし、また、記事の内容も不可解な点がある。要するに、あるひとりの教師に対して、ある教師が厳しく接したために、他の3人の教師と一緒に、8月下旬校長に訴えた。そして、9月2日から体調不良を理由に学校を休み、連絡がとれない状況であるという。3カ月の急用が必要という診断書を郵送で提出したそうだ。校長が調べたかぎりでは、パワハラなどは確認できなかったと書かれている。
トラブルがあったとしても、1対1の関係と理解できるのに、その一人を含めた4人が一切に休暇をとるというのが、私にはあまり理解できない。休んだ4人は20代から50代だという。
そして昨日10月4日の新聞に、「無理やり激辛カレー・卑猥書き込み強要、小学校教員、同僚からいじめ 神戸」という記事だ。こちらは強烈で、既に写真などもネットに掲載され、多数のコメントが出ている。 “教師が教師へのいじめ 残された教師集団による自己検証が必要だ” の続きを読む
化学物質過敏症で通学困難な生徒
今日のHarbor Businessに「学校に通いたい……教室に充満する過剰な「香り」で化学物質過敏症に苦しむ女子高校生」という記事が出ている。化学物質過敏症に罹患している女子高校生が、生徒たちが使っている様々な化学物質で処理した服などの香りで、目眩、頭痛、過呼吸などを引き起しているので、母親が、クラスの保護者に丁寧な事情説明の手紙をだして、原因となる柔軟剤や合成洗剤などを控えるようにお願いしたところ、そのクラスでは協力的で改善されたのだが、学校全体としては取り組まれていないし、また、通学途上の交通機関で体調が悪化するという事態になっている」という記事である。
この化学物質過敏症は、診断が難しく、他の病気と間違えられやすく、また、病気と認めないような医師もいるのだそうだ。診断ができる病院が全国的に少数で、正しい診断と治療をしないために、どんどん病状が悪化する事例が多数あるという。ある調査によれば、可能性の高い人が全体の0.74%、可能性のある人が2.1%なのだそうだ。正確な診断が難しい病気なので、ウェブで調べる限り、書いている人たちによって数値が異なるのはやむをえないが、可能性が高い人0.74%というと、大雑把にいうと、300人いれば2人はいることになる。高校などは、通常1000人近くいるわけだから、7名程度の人が該当する計算になる。 “化学物質過敏症で通学困難な生徒” の続きを読む
キャンプで行方不明、大人たちの安易な計画ではなかったのか?
山梨県道志村「椿荘オートキャンプ場」で、行方不明になった小学一年生の当日の経過が、両親によって明らかにされた。毎日新聞掲載の内容をそのまま引用する。
21日午前
9時 一緒にキャンプするメンバーの一部が到着
午後
0時15分 美咲さんと母、姉がキャンプ場に到着
1時 昼食後、子供たちがテントを張った広場近くで遊ぶ
3時35分 おやつを食べ終えた子供たちが沢に遊びに行く
40分 美咲さんが後を追いかけて行く
50分 大人が子供たちを迎えに行く
4時 美咲さんがいないため、捜し始める
5時 日没が近づき警察に通報
6時 警察官が到着
8時 子供たちを寝かせ、大人は捜索を継続
22日午前
1時30分 仕事を切り上げた父が到着。3時まで捜索を続ける “キャンプで行方不明、大人たちの安易な計画ではなかったのか?” の続きを読む
トロッコ切り換え問題を題材とした授業で、子どもたちが不安に
9月29日の毎日新聞に、「死ぬのは5人か、1人か…授業で「トロッコ問題」 岩国の小中学校が保護者に謝罪」という記事があった。昨日は毎日新聞のページで読んだので、ただ今日コメントを書こうと思っていたのだが、今日ヤフーニュースで読むと、6000件ものコメントがついていた。とうてい読みきれないので、それは読まずに、書くことにするが、かなり関心を引き起こしたことは間違いない。
どのような記事かというと、今年の5月に、中学生2,3年と、小学生5,6年の合計331人に、スクールカウンセラーが行った授業だそうだ。内容は、以下のように紹介されている。
「プリントは、トロッコが進む線路の先が左右に分岐し、一方の線路には5人、もう一方には1人が縛られて横たわり、分岐点にレバーを握る人物の姿が描かれたイラスト入り。「このまま進めば5人が線路上に横たわっている。あなたがレバーを引けば1人が横たわっているだけの道になる。トロッコにブレーキはついていない。あなたはレバーを引きますか、そのままにしますか」との質問があり「何もせずに5人が死ぬ運命」と「自分でレバーを引いて1人が死ぬ運命」の選択肢が書かれていた。」
そして、授業の趣旨は、以下のように説明されていた。 “トロッコ切り換え問題を題材とした授業で、子どもたちが不安に” の続きを読む
学校制度の分岐型と統合型2
日本ではどのように進路選択されているだろうか。最初の進路選択は、受験である。受験は、いわゆる通常の学力によって選抜される。学力による選抜は大学入試まで続く。では、この学力による選抜は何故行われるのか。あまりに当然のこととして理解されているので、実はあいまいなのではないか。
まず学校は学力を育てるところだと考えられているので、その水準を計る。では、何故学校は、学力育成が中心的課題なのか。歴史的な概観をすることも有効だろうが、ここでは省略する。学力は、支配層のために必要と考えられる教養に、近代的な科学の進歩が反映したものであり、その意味では、学力の水準の高い者に、高い教育を保障することは、合理的である。しかし、そうした学力は、いかなる仕事をする上でも必要であるのか、必ずしも必要とされない仕事もあるのか。「何故勉強しなければならないのか?」という子どもから発せられる疑問は、すべての仕事に、学校で学ぶ学力が不可欠であるとは、考えられていないからだろう。 “学校制度の分岐型と統合型2” の続きを読む
学校制度の分岐型と総合型
最近は、教育問題として、学校制度が議論されることはほとんどなくなっている。いじめや不登校、きれる子どもたち、教師の過重労働などの具体的な問題が深刻になっているためだと考えられるが、実は、制度も事実上変化している。近年だけをとっても、義務教育学校という新たな学校種が制定され、小学校、中学校、高校という区分を越えて、小中一貫、中高一貫などの学校も増えている。中高一貫に関しては、中学と高校が連続して同一法人で運営されている場合と、中等教育学校のように、一体の学校との二種類がある。そして、高校には、普通科以外に職業科があり、更に、理数などに特化した学校もある。つまり、複線型学校制度になったわけではないが、単純な単線型ともいえないシステムに変化しているのである。そして、それは、いじめ等の学校の問題の背景的要因のひとつでもある。従って、学校制度のあり方は、教育の内実にも影響を与えることを無視すべきではない。 “学校制度の分岐型と総合型” の続きを読む
『教育』2019.9を読む 縛り・縛られるから抜け出せるのか
既に10月号が出ているのだが、まだ、9月号の宿題のようなものが残っている。「縛られる学校、自らを縛る教師たち」という特集で、そうした「縛り」からどうやって抜けだすのか。私は小学校や中学校の教師ではなく、大学の教師なので、この縛りは極めて緩い。だから、小中学校の縛りについては、いろいろな話を聞くし、実習生の授業をみたり、また、学校側の説明をきいて、感じていることはたくさんある。
「縛り」がだんだん強くなっていることは間違いないし、また、その圧力の質と量がともに形として現れているといえる。もちろん、義務教育である以上、「縛り」はある。少なくとも、日本の義務教育の歴史のなかでは、自由な教育が保障されていた時期は、極めて短い。ないわけでもなかった。しかし、それは、国家がまだ教育の内容まで掌握できない時期に限られていた。明治の初期と戦後初期の数年間だけである。他方、ヨーロッパでは、1980年代までは、多くの国で教える内容まで含めて、学校に任されていたという事実もあるし、今でも、教育内容に関する国家基準はあっても、日本の学習指導要領よりは、ずっと大綱的である。
さて、もっとも普通で基本的な「縛り」は、
(1)学ぶときには、指定された内容を、机に座って学ばなければならない
ということにあるといえる。 “『教育』2019.9を読む 縛り・縛られるから抜け出せるのか” の続きを読む