5月11日に予備的な声明がでて、早急に検討を経て、日本教育学会としての見解を表明するとしていた「声明」が22日に出た。報道では「日本教育学会」としての見解であるとされているが、正式文書では、「『9月入学・始業制』問題検討委員会」としての声明であって、学会としての総意ではない。メディアの報道も、誤解のないようにすべきであろう。詳細な検討を順次行うとして、まず最初に、全体としての認識枠組みについて、検討する。
文書は、「第Ⅰ部 9月入学・始業実施の場合必要な措置と生じる問題」「第Ⅱ部 いま本当に必要な取り組みに向けて」という二部構成になっている。ここに典型的に現われているのだが、私がずっと不満に思っている教育学者たちの発想法の欠陥がある。
いま議論になっていることに関する「問題点」を指摘する。その問題が生じないように、「現行」を前提にして改良案を提示する。その際、「現行」の欠点については、重視しない。
これが、長く日本の教育学者を支配してきた思考パターンである。今回の声明の「目次」から、そのことを明らかにしておこう。 “日本教育学会9月入学否定論の批判1” の続きを読む
カテゴリー: 教育
道徳教材「最後のおくり物」について
久しぶりに「カテゴリー」にある内容にそった文章を書こうと思う。まずは「道徳教育」に関わり、「最後のおくり物」という5,6年の教材として、文科省のホームページに掲載されている話を扱う。
(1)礼儀正しく真心をもって、(2)相手の立場に立って親切に、というふたつのことを考える教材となっている。
実践例がいくつかインターネットにあり、そのひとつが、概略をまとめているので、それを利用させてもらう。
ロベーヌは、ステージに立つ夢をもつ俳優志望だが、養 成所に通う余裕がないため、窓の外に聞こえてくる練習の 様子を盗み聞きながら、自分で練習を続けていた。守衛の ジョルジュじいさんは、そんなロベーヌを、温かく見守って くれていた。ある日、ロベーヌのもとに「おくりもの(養 成所の学費)」が届けられるようになる。しかし、ロベーヌ が、養成所での練習が始まり、周りからも実力を認められ ようになった頃、「おくりもの」が届かなくなり、通うこと ができなってしまう。そんなとき、ロベールは、「おくりもの」 は、ジョルジュじいさんからだったことに気付くが、じいさ んは病に倒れてしまう。ロベーヌは、身寄りのないじいさ んを自分が看病することに決めるが、じいさんは亡くなって しまう。ロベーヌは、ジョルジュじいさんが最後に書いた手 紙を読み返して、じいさんの「思いやり」の心に触れ、何 かを決意したかのように遠くに視線を移した。http://www.kyoto-be.ne.jp/ed-center/cms_files/kensyusien/dotoku/doc_dotoku_2018_16.pdf
だいたいの内容はこの通りだが、いくつか私が読む限りでは、異なる点がある。 “道徳教材「最後のおくり物」について” の続きを読む
9月入学にメリットがないのか?
9月入学問題がさかんに議論されるようになっているのは、とてもいいことだと思う。いろいろ読んでいくと、気になる議論があるので、気づいたら、その都度検討していきたい。
明確な反対論として、会計年度との関連で反対する議論があった。「「9月入学」にデメリットの数々、社会のリーダーは民意を読み違えるな」と題する日刊工業新聞の記事で署名はない。(https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200515-00010003-newswitch-bus_all)
会計年度は4月から始まるとするのだが、それは誤解ではないだろうか。国としての基本となる会計年度は1月から始まると、私は理解している。それは、課税の基礎となる、国民の基本的な資産 が1月時点から12月時点までで計算されるからである。組織としての会計年度が、多く4月からになっているのは、教育全体が4月から始まり、その結果として、人の移動が4月を開始点とすることが多いからであろう。だから、9月入学になれば、社会の新年度がすべて9月になるのであって、これまでの4月から始まる会計年度を9月から始まるようにすればよい。それでも税金の基本となる年度は1月のままだろう。
したがって、会計年度との関係での否定論は、意味がないことになる。 “9月入学にメリットがないのか?” の続きを読む
教育行政機関の不甲斐なさ オンライン授業がなぜうまくいかないか
関東近県でも、休校措置が解かれることになっているところが出てきた。5月中は休校だという前提で動いていたようだが、急に事情が変わったということもあって、現場はかなりてんてこ舞いのようだ。そういうなかで、いわゆる「足並み論」が強固なせいか、学校や地域の自主的な行動を制約し、混乱を生んでいるという声をきく。21世紀の教育は、子どもたちの自ら行動できる能力の向上が、極めて重要であるのに、それを指導する立場の人たちが、自発的な行動を阻害し、かといって、優れた統一的な指針をだすことで、全体的な効率をあげているのではなく、現場をとまどわせているというのでは、何をか況んやである。これは、必ずしも、現在のような緊急事態だからそうなっているのではなく、平素のやり方が、「足並み論」であり、「上からの指示で動け」というものだからだ。今回の騒動で、もっとも欠陥が露になったのは、オンライン教育に関してだと思うが、これは、普段のIT教育のあり方から、ごく自然におきた混乱であるにすぎない。こうした間違ったやり方を、まずは上から改めなければ、今後の日本の教育は、まことに心配である。
ではどういうことか。
普段のIT教育について考えてみよう。
私は、学校でパソコンの教育を受けたことはないが、現在の40歳以下の年代なら、ほぼ受けたことがあるだろう。そして、その教育とは、ほとんどが、週1程度、パソコン教室で基礎的なことを教わって、実際にやってみる。普段は教室は鍵がかかっていて、自由に使うことはできない。おそらく、ある程度の数のパソコンが、自由に使えるようになっていて、自分のやりたいことができるのは、大学にはいってからではないだろうか。少なくとも、私が学生たちに聞いたところでは、例外はなかった。
他方、私が1992年にオランダに海外研修にいき、娘を現地の公立小学校にいれたときには、オランダの小学校はみな本当に小さいのだが、そのホールみたいなところに、パソコンが2台置いてあって、子どもは自由に触ることができた。しかも、インターネットにつながっていたのである。1992年といえば、国際的に、インターネットの商業利用が可能になった年だから、すぐに学校でも可能にしたということだろう。驚いたのは、子どもが勝手に使うことができた点である。
この差は極めて大きい。 “教育行政機関の不甲斐なさ オンライン授業がなぜうまくいかないか” の続きを読む
教育学会の9月入学反対声明への疑問
5月11日に日本教育学会の名前で、9月入学に反対する声明がだされた。題名は「拙速な導入はかえって問題を深刻化する」となっていて、「慎重な検討」を求めているものだが、実質的には反対声明と受け取らざるをえない。ちなみに、私も日本教育学会の会員だが、この声明には反対せざるをえないし、また、学会員に対する意見聴取の機会があったわけでもない。このような場合には、学会総意ではなく、理事会とか、そういう管理組織での議論だろうから、それを断るべきではなかろうか。
内容的にも、大きな疑問をもたざるをえないものだ。(全文はhttp://www.jera.jp/20200511-1/)
まず声明は、長い休校が続いているなかで、再開後の詰め込みをしないでほしいという子どもたちの切実な声があることを認めつつ、しかし、9月入学では問題を解決できないとする。
9月入学自体については、これまで検討されてきたが、メリット・デメリットがあるので、コロナ騒ぎの解決策としてだすには、解決策の検討がなされていない。例えば、入学年齢が高くなる、就職活動や私立大学の学費問題など。
そして、今求められているのは、緊急の教育の保証である。
以上の3点が論拠になっている。 “教育学会の9月入学反対声明への疑問” の続きを読む
教育することと格差の拡大
新型コロナウィルスによる休校が続いているが、その対応に関して気になる理屈がある。9月入学論や遠隔授業に関して、教育格差がある、教育格差を広げるという理由で否定的になる論調である。だから、どうせよ、というところまで踏み込む文にであったことがないので、積極的に何を主張しているのかは、わからないのだが、想像するに、教育格差を広げるから、遠隔授業はやるべきではないと考えているのだろう。一応そういう前提的な認識で以下書いていく。
遠隔授業を実施するといっても、環境的に格差があるというのは、もちろん事実である。遠隔授業をする側、つまり、学校としても、学校単位、市町村単位、都道府県単位で考えても、かなりの格差があるだろう。カメラ、ネット環境、教師たちのIT水準等にまず格差がある。家庭のほうでも、家族全体がネット環境を普段から使っていてい、有線でも無線でも常時接続環境にあり、パソコンもタブレットも揃っている家庭と、それらが何もない家庭、そして、その中間の家庭など、多様であろう。だから、遠隔授業をするといっても、学校と全家庭含めて十全に実施できる例など、ほとんどないに違いない。また、やれば、効果的に受容できる人と、できない人の格差がでることも確実である。 “教育することと格差の拡大” の続きを読む
学校教育から何を削るか4 集団宿泊的行事
日本の学校には、非常にたくさんの行事がある。しかもその目的が多岐にわたっている。ヨーロッパ的な公教育の目的からみれば、あまりに盛りだくさんのことが、学校、つまり教師に要求されていることになる。しかし、そうして多くのことを学校に求めることによって、教師の負担過重が起こり、その結果として、本来学校が果たすべきことが薄まってしまっているのが現実ではないだろうか。もちろん、行事は子どもたちにとって楽しいものであることが多いだろうし、思い出に残るものでもある。しかし、それがあまりに教師たちに大きな負担を強いるものであるとすれば、考えなおす必要がある。
ここでは、集団宿泊的行事について考える。 “学校教育から何を削るか4 集団宿泊的行事” の続きを読む
学校再開はできるのか
非常事態宣言の期限が近づいてきて、延長問題が今後検討されるだろう。しかし、学校の再開については、賛否両論を引き起こすような事態となっている。
まず、富山で休校中の、臨時登校日に感染したのではないかと考えられるクラスターが発生した。他方、このままでは夏休みをなくして授業をする必要があるという意見がでている。公立小中学校は、今でもエアコンのない学校が多いから、夏休みに授業することは、まず無理だろう。コロナが終息していたとしても、熱中症で危険になる。思い切って9月新学年という構想もあり、私は、それを支持しているが、現実にはその方向にいくことはないだろう。とすると、このまま無作為にいくと、3月のはじめからずっとまともな授業を行っていないまま、ずるずると休校措置が継続していくことになる。 “学校再開はできるのか” の続きを読む
学校教育から何を削るか4 形式的な儀式
教育にとって「形式」とは何だろうか。
学校現場に「挨拶競争」という指導方法がある。子どもたちに挨拶を習慣化させるための一種の戦略的手法である。今ではTOSSと言われる団体が、技法として広めた。
教師が「明日から挨拶競争を始めましょう。誰かと会ったとき、どちらが先に挨拶をするかという競争です。先生も参加します。最初に言った方が勝ちです。」
翌日から早速始め、終わりの会で、結果を出し合う。子どもたちは、口々に述べあう。「先生は、今日はずっと負けっぱなしでした。みんなすごいですね。先生たちも感心していました。でも明日からは負けません。」
こうやってしばらく続けると、習慣化するというのである。 “学校教育から何を削るか4 形式的な儀式” の続きを読む
9月新学年に変えよう
今日(4月18日)、youtubeで佐藤優氏のラジオ番組を聞いていたら、この機会に9月新学年に変えたらどうか、という話をしていた。大賛成だ。このブログでも、9月新学年にすべきという考えを表明したことがあるが、実現はなかなか難しいとは思っていた。数年前か、東大が音頭を取って、9月新学期に変更するという動きを見せたことがある。しかし、ほとんどの大学は追随せず、高校以下の学校はまったく無関心だったから、ほとんど大きな話題になることもなく挫折した。やはり、一部の学校だけで実施しても、他と開始時期がずれてしまえば、受け入れられないのだ。
しかし、今は、ほぼ全校種で休校になっており、しかも、この休校がいつまで続くかわからない。連休明けには始めたいと考えている人が多いが、危険だという意見も多い。そこで、佐藤氏は、いっそのこと、ずっと休みにして、9月新学期、つまり、4月新学期という授業はほとんどやっていないのだから、それを半年そのまま一斉にずらせば、9月新学年が実現できるというわけである。これまでの困難は一挙に回避できる。
では、何故9月新学年がいいのか。理由はいくつもある。 “9月新学年に変えよう” の続きを読む