『教育』2020.4を読む 「学びは遊び、遊びは学び」

 『教育』4月号の第一特集は「学びは遊び、遊びは学び」となっている。かなりたくさんの文章が掲載されており、ひとつひとつ紹介・検討するよりは、触発されて考えたことを書いてみたい。
 「学び」と「遊び」の関係は、教育学の多くが、相互不可分のものと考えてきた。宗教家の教育論とか、武士の教育論などという領域では、峻別されていることが多いと思うが、少なくとも、教育そのものを専門的な対象とした学問では、学びと遊びはまったく別ものとは考えないのではなかろうか。しかし、だからといって、同じものではない。また、不可分だといっても、本当に、日々教師が学びと遊びは不可分のことだと思って、教育実践をしているかも疑問が残る。この『教育』の特集を考えた編集者、そして、寄稿した人が、心底「学びは遊び、遊びは学び」と考えているかも、質問してみたい気がする。特集のまえがきには、微妙に異なる表現もみられる。
 「遊びの中に学びがある、学びの中に遊びがある。)
 これは、イコールで結んでいるわけではなく、そもそも別物だが、相互浸透しているというようなニュアンスだろう。
 ほとんどの大人は、生活のために労働をする。労働はお金を稼ぐためのものである。そして、遊びとは、労働時間以外に、自分で自由に行う楽しみのための活動ということになるだろう。子どもの場合には、学校にいって、しなければならない勉強が「学び」であって、学びから解放された行為が遊びだろう。多くの人の意識では、やはり、遊びと学び、労働は峻別されている。通常の人にとっては趣味、遊びに属することを仕事にしている人だって、仕事と遊びは違う概念で考えるに違いない。
 そして、このふたつは峻別されるだけではなく、むしろ相互に陣地戦をするような対立する関係ではなかろうか。仕事や学びに時間を多くとられれば、それだけ遊びが少なくなったり、できなくなったりする。学校から帰って直ぐに塾にいって、夜遅く帰宅する子どもは、遊ぶ時間がないと意識するに違いない。
 仕事や学校の学びは、自分の外から「中身」が提出される。遊びは、何をするか、自分の意思で行うものだ。
 では、本当に、「学びは遊び、遊びは学び」という関係、あるいは「遊びの中に学びがある。学びの中に遊びがある」という関係は、成立するのだろうか。正しいのだろうか。
 確かなことは、誰もが、そうであればいいと願っているという点だろう。
 確かに、それを文字通り実行している学校がある。それはアメリカのボストン近郊にあるサドベリバレイ校である。この学校に関しては、私の「教育学概論」という授業で、最初の時間に短いビデオを見せ、この学校をひとつの極の形として、講義を構成するようにしていた。つまり、通常の学校と、最も対極にある教育スタイルをとっているからである。ひと言でいえば、この学校には、「出席」することと、みなで決めた規則を守ること以外には、義務がない。(ただし、規則は、教師が一方的に押しつけることはまったくなく、生徒と教員が平等な立場で参加する全校集会で議決される必要がある。)
 生徒たちは、朝登校したあとは、何をして過ごしてもよい。カリキュラムがそもそも存在しないのである。勉強をしたいが、だれかに教わりたい場合には、その人と相談して契約を結ぶことで、授業が行われる。自分が望まないのに、学習を強制されることはまったくない。この特集のテーマである「学びは遊び、遊びは学び」というのに、完全に当てはまる逸話がある。(創立者の一人であるグリンバーグ氏の著書に出てくる話である。)
 この学校は4歳から18歳までが在籍しているが、登校後釣りばかりしている小学生にあたる男の子がいた。年一度保護者との面談があるが、父親はそのことを知っているので、「うちの子はちゃんと勉強しているんでしょうか」と質問をする。すると、グリンバーグ氏は、「ちゃんとしていますよ。」父「でも、釣りばかりしていて、勉強していないのでは?」「いや、釣りをしながら、たくさんのことを学んでいるのです。一年の間に、天気がいろいろと変わります。そうすると、池やまわりの様子、そして、つれる魚が変わってくるでしょう。そういうことをちゃんと観察しています。そして、友達がいろいろと彼に質問したり、一緒に釣りをしますから、そこで知識を逆に教えてあげているんです。」
 そのようなやりとりをしながら、4年間、彼は釣りばかりしていたそうだ。ところが、中学生になると、釣りはばったりやらなくなり、今度は、コンピュータに凝りだした。そして、高校の年齢になると、コンピュータの修理をする会社を設立して、卒業後そのまま会社の経営者となって、成功しているそうだ。
 確かに、彼は、サドベリバレイ校でふたつのことしかやっていない。釣りとコンピュータである。そして、それは、周囲からみれば、完全に遊びとして行われていた。しかし、彼が意図していたかどうかは別として、釣りをしながら、また、コンピュータをしながら、学校で学ぶべき内容を確実に習得していたのである。しかも、単に授業で吸収するよりは、ずっと確実に、必要な知識を獲得していた。だから、会社を設立し、事業に成功したのである。
 私は、授業でこの話をよくしたが、いくつかのことを、ここから引き出すことができると考えている。
 ひとつは、新しいことへの適応力の形成である。サドベリバレイ校の教育は、これから身につける能力として、学校で学ぶ「知識」などが重要なのではなく、変化し続ける現代社会において必要なのは、新しい変化に対応していける能力であるという考えに基づいている。AIの発達によって、将来は現在ある職業の半分くらいが消滅するといわれているわけだが、職業が消滅すれば、当然まったく新しい仕事をマスターしなければ、生きていくことができない。
 この少年は、釣りからコンピュータへと、まったく異質なものに、のめり込む対象を変化させている。つまり、新しいことに対応したわけである。なぜ、それが可能だったのか。もちろん、興味が移って、それぞれ好きなことをやっていたということがある。だが、釣りという「遊び」をしながら学ぶ行為を、徹底的にやったことで、「究めた」という感覚があったのではないだろうか。そして、その間には、実にたくさんの困難があったに違いない。雨や雪がふれば、単純につらいし、また、釣れないときに、どうしたら釣れるかと試行錯誤しただろう。季節の変化、天気、森、池、魚、その他の動物、人々の行動などの変化を、ずっと観察しながら、分析もしていたに違いない。中心はひとつであるが、総合的、かつ徹底的に行うことで、壁を乗り越える自信を身につけたと思われる。だから、まったく新しいことを始めても、臆することなく取り組めたのだろう。
 そして、それが可能であったのは、やはり、自分がやりたいことだったからである。忍耐力をどのように培うか、日本の教育では、つらいことも我慢してやることだ、という雰囲気がある。しかし、好きなことを徹底的にやることのほうが、実は忍耐力がよりよく身につくのである。好きなことを徹底的にやることによって、忍耐力の一番大事な「壁」にぶち当たってもそれを乗り越えることができるからである。
 『教育』の特集は、確かに、重要なテーマであるが、なんとなく、つまらない授業ではなく、楽しい授業を、あるいは、遊び的な要素を取り入れようというようなレベルでの論考がほとんどであって、もう少し徹底した掘り下げがほしかったと思う。
 ちなみに、サドベリバレイ校の教育をする学校は、日本で7,8校存在している。しかし、ボストンのような効果があがっているかは、わからない。実際に何人かの学生が見学にいっているが、評価は厳しいものがあった。その点については、別に書くつもりである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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