教育学を考える9 多様性の保障とはどういう形なのか

 「教育の自由」の概念は、到達点ではなく、出発点であると前回書いた。その問題を今回は扱う。『教育』の7月号に、森岡次郎氏の「『多様な学び』の『多様性』をめぐって」という論文が掲載されている。とても啓発される文章で、今回考えたい問題にフィットしている。
 森岡氏は、若いころ専門学校で、教職のための授業をしていたとき、学生たちの意識を講義に集中させることは、ほとんどできなかったという経験を書いている。毎回プリントを作成し、具体的な内容を盛り込みつつ、彼らに関心をもってもらうよう努力したが、ほとんどの学生は興味を示さなかったのだが、ごくわずか、2,3名は毎回授業を熱心に聴き、レポートも優れていたという。結局「ほんの数人でも、この授業から何かを学んでくれる人がいれば良い。すべての学生にとって有意義な授業などできないのだから」と開き直ったそうだ。
 同じクラスで哲学の授業を担当している教員と情報交換したところ、その教員も同じ悩みを抱えていたのだが、話を進めていくうちに、それぞれの授業で熱心な学生が、違う人であることがわかったという。また、別の事例として、森岡氏の学生時代の経験。氏にとって最もつまらない授業は数学で、教員は、授業中ほとんど黒板を向いて、数式を書き続けている。ときどき説明するのだが、小さい声でぼつぼつ言うので、聞き取れない。試験も難しい。氏は、現在のように授業評価システムがあれば、多くの学生から低評価を受けたろう、そして、その授業にはまったくホスピタリティがないと感じていたそうだ。しかし、あの授業が大学の講義のなかで一番面白い、最も知的に興奮する、と熱っぽく語る学生がいたので、不思議に感じたと書いている。 “教育学を考える9 多様性の保障とはどういう形なのか” の続きを読む

『教育』を読む 2020.7月号 ナショナリズム・歴史・教育1

 『教育』の7月号の特集は、「ナショナリズムと歴史と教育と」「もう一つの教育を求めて」というふたつの特集からなっている。今回は、前者の佐藤和夫「ナショナリズムを乗り越えるつながりの形成のために」を検討する。優れた論考だと思うが、出だしの素材のきり方に疑問を感じる。(従って前半のみの検討)
 特集がナショナリズム、歴史、そして教育であり、佐藤論文もナショナリズムを乗り越えることを模索している。そしてまず、佐藤氏は、津久井やまゆり園で多数を殺傷した植松聖を俎上に乗せる。しかし、植松聖の起こした悲惨な事件は、ナショナリズムと関係しているのだろうか。 
 教育を生涯に渡る意味で使うなら別だが、ここで主要に問題になっている学校教育に関していえば、植松は決して、学校において虐げられたり、あるいは劣等感に苛まれたりしたような状況ではなかった。また、家庭においても一人っ子だった彼は、教師である父と漫画家である母に愛情豊かに育てられたと言われている。昔の彼を知る者は、とても優しかった印象をもっている。そして、父と同じように教師になるために、大学の免許取得できる課程に進んでいる。ここまでは、とりわけ問題行動も見られず、もし、初志貫徹して、教員採用試験を受ければ、大量採用時代だから合格して、普通の人生を歩んでいた可能性もある。(尤もその前に刺青に関心をもち、自分でもいれてしまったので不可能になっている。) “『教育』を読む 2020.7月号 ナショナリズム・歴史・教育1” の続きを読む

教育学を考える8 教師の自由と立場性2 牧柾名「教育の自由」論をてがかりに

 社会が発展すれば、様々な領域で多様性が展開する。戦後、日本人の人気スポーツは相撲と野球だったが、今や「国民的スポーツ」などというものが想定できないほどに、様々なスポーツが人気を誇っている。音楽も「歌謡曲」などと呼ばれたジャンルは、今や多くのジャンルに分化している。アルコール類も日本酒(それもほぼ一升瓶だった)とビールくらいだったが、今やワイン、ウィスキー、カクテル、サワー等々様々なアルコール類がスーパーマーケットに並んでいる。同じ種類でも、入れ物も多様な好みにあわせている。
 そうした発展のなかで、教育に対する志向が多様でないはずがない。私自身は、結論的には単純素朴に、多様な教育を最大限可能にするのが「教育の自由」であり、それは積極的な意味があると考えている。しかし、残念ながら、そう考える人は、決して多くないし、専門家ほど制限的な発想をするように思われる。 “教育学を考える8 教師の自由と立場性2 牧柾名「教育の自由」論をてがかりに” の続きを読む

教育学を考える7 教師の自由と立場性1

 教育の自由にとって、教師が教える際の自由は、極めて重要かつ困難な問題である。日本における最大の論点のひとつである教科書検定をとってもわかる。教科書検定は、戦後一貫して問題であり続けているが、当初と現在とでは、問題の表れ方がかなり異なっている。
 まず、学習指導要領が法的拘束力をもつと文部省に宣言され、そして、教科書検定が永久化・強化され、それに対して家永三郎氏が、教科書検定は検閲にあたり違憲であるとして、教科書訴訟を提起した。その訴訟は、30年続いたが、その最終盤から様相が変わってきた。適切な区分かどうかについては議論があるが、左翼が中心であった家永訴訟から、その後、検定に関わる文科省との軋轢は、むしろ右翼から提起されるようになり、昨年から今年始めの検定結果については、右派教科書が検定不合格となって、教科書検定への批判が右派から巻き起こっている。 “教育学を考える7 教師の自由と立場性1” の続きを読む

教育学を考える5 選択と学びの主体性

 前回は多様性の重要性を論じた。多様性があれば、次にそのなかから自分の意志で選択できることが大切になる。多様性を認められても、自分の意志で選ぶことができなければ、多様性の意味がない。現在の日本の高校は、極めて不十分であるが、教育は多様である。その多様性は偏差値ごとにある程度振り分けられた生徒が集まるために、偏差値にあわせて教育が行われることから生じているに過ぎないのであるが。形式的には受験という選択をするのだが、競争に敗れた者は選択できないから、歪んだ選択というべきだろう。多様性と選択は、こうした歪んだ形ではなく、選択意志が最大限保障されるものでなければならない。
 では選択とは、単に権利としての形式的な概念なのだろうか。それとも、教育的価値をもつ概念なのだろうか。もちろん、選択は権利であり、それが出発点であるが、教育的価値をもつ。つまり、自分で選択できる能力を獲得することは、現代社会において重要なことといえる。
 教育学では「学習」という言葉を、「主体的な意志によって学ぶ行為」と考える。心理学でいう「行動変容」ではない。「教育」は、学習を促す行為と考えてもよいほど、「学習」こそが重要な概念である。勝田守一の名著は『能力と発達と学習』という表題である。今、文献の跡づけはできないのだが、当初生涯教育と言われた言葉が、生涯学習になっていくには、藤岡貞彦や佐藤一子らの提起があった。行政的にも、社会教育→生涯教育→生涯学習と担当局の名称が変遷していく。生涯学んでいくことが大事であり、生涯の観点から見ると、教育は学習の援助と考えるのが合理的なのである。 “教育学を考える5 選択と学びの主体性” の続きを読む

教育学を考える4 教育の多様性の必要

 これまで、私は、教育の多様性を前提として論じてきた。現代社会においては、人が教育に求めるものは、同じではなく、多様であるという前提的認識がある。しかし、他方では、国民全員が、同水準の教育を保障される必要があるという考える人もいる。これからの教育では、どちらの考えに立って、学校のあり方を決めていくべきなのだろうか。
 教育のあり方、教育に期待することは、昔から多様だった。しかし、身分制社会においては、それは身分的に規定されていて、身分を離れて自由に選択できるものではなかった。江戸時代のように、社会の流動性が少しでもある時代になれば、自分の生活圏を離れて、別の社会に移動し、そこで新たな教育を受けることは可能であった。
 教育に同質性が意図的に追求されるようになったのは、近代社会であり、国民教育制度、つまり義務教育が制度として実現するようになってからである。義務教育は、徴兵制と補完的な関係であるから、国民意識の涵養という目的での同質性が、政府によって求められたのである。もちろん、国によって多少の相違はあるが、基本は同じと考えてよい。そうした同質的教育の上に、社会的分業に応じた多様な教育形態が上に乗っていくことになる。 “教育学を考える4 教育の多様性の必要” の続きを読む

9月入学に関する気になる論調について

 9月入学は見送りになったので、9月入学を主張するためではなく、この問題をめぐって表れた有名人の主張について、あまりに酷いとと思われるので、コメントしておこうと思う。
 まず6月3日付けのAERAdotであるが、「9月入学「首相肝いり」も迷走 賛成は現場を知らない政治家ばかり」と題する文章である。題名自体がいかにも不見識だが、内容はかつて「ミスター文部省」と言われた森脇研氏の発言を主体にしている。
 文章は、ある自民党幹部という人の発言の紹介から始まる。安倍首相は最初やる気がなかったが、腹心の下村氏が熱心なので、選択肢のひとつと言い出した。しかし、文科省幹部から、法改正だけで30から40必要、国会議員の休みがなくなる、と言われ、自民党・公明党のチームも見送りを言い出したので、安倍首相も投げ出したという内容である。しかし、下村、稲田、小池氏らは、なおやる気だとする。 “9月入学に関する気になる論調について” の続きを読む

教育学について考える3 何故「自由」「参加」は行政にからめ捕られたのか

 前回は、「教育の自由」と「参加」が、戦後改革からしばらくの間、民間教育研究団体や「国民の教育権」論の立場の主要な概念であったにもかかわらず、反対の側、つまり、支配的勢力の側にからめ捕られてしまったことを指摘した。そして、今回は、なぜそういう敗退が起きたのかを考察する。
勤評闘争
 戦後の教育的対立のなかでも、勤評問題は最も大きな騒動のひとつであった。私は、学生時代に、大学紛争のあとでなされた改革の一環で開かれた「全学ゼミ」のなかで、この勤評問題をとりあげたことがある。ゼミの指導者は、石田雄教授で、このテーマの研究のために、1カ月以上、勤評闘争の舞台であった愛媛県の新聞を読むために、新聞研究所の地下に通って、当時の愛媛新聞をずっと読んだものだ。石田教授も、この発表を受けるための準備だろう、何冊もの勤評関係の本を読んでこられた。
 地方公務員法には、公務員の勤務評定をすることが、明記されている。だから、勤務評定をすること自体は、法的に必要であるのだが、誰もが容易にわかるように、教師の勤務を評価して、昇給や昇格に活用することは、極めて難しい。だから、今でも、教師の評価方法に関しては、コンセンサスはないといってよい。当時は、実際上、教師は勤務評定の対象にはなっていなかったのである。 “教育学について考える3 何故「自由」「参加」は行政にからめ捕られたのか” の続きを読む

教育学について考える2 自由と参加

 文科省が正式に、9月入学の見送りを決めたようだ。その流れは決まっていたようなものなので、特に驚かないが、日本教育学会の提言に対して感じたことと、同じような感じをもったことが、かつて一度あった。それは、学校選択制度に関することだった。
 私は、これまで何度か書いたように、1980年代にいじめによる自殺が多発したときに、教育制度として、このような悲劇をなくすことはできなくても、少なくするようなことは考えられないのかと考えて、学校選択制度に行き着いた。学校でのいじめに耐えられず、しかも、教職員がきちんと対応してくれないときには、容易に転校できるシステムであれば、自殺などしなくてすむし、また、学校を自由に選ぶことができれば、いじめ対策をきちんとしていない学校ではなく、何か問題には真剣に取り組んでいる学校を選べるわけだ。言いかげんにしていると、生徒が集まらないから、学校も真剣に取り組むだろうと考えたわけである。
 では、そういうシステムをもっている国はないのかと探したところ、オランダがまさしくそういう国だった。そこで、オランダの教育を調べることになったのだが、オランダでは、もちろんいじめは珍しくないが、いじめによって自殺するなどということは、まず起きないと、誰もがいう。家庭で親子が話し合う雰囲気が、日本よりはずっと強いということもあるが、やはり、学校を選んで入るために、信頼関係が強く、学校不信は極めて稀だ。不信感をもったら、他の学校に移ることになる。 “教育学について考える2 自由と参加” の続きを読む

道徳教育ノート 二人の弟子

 文科省の道徳教材の中学を見ていったら、とても気乗りがしないような教材が並んでいる。いかにも「道徳教材」というきれいごとの文章で、こんな教材で教えたら、間違いなく特定の道徳的価値観の押しつけになってしまう。そう思いつつ読み進めていって、「二人の弟子」という教材は、なんとか取り組む意欲が湧きそうなので、今回はこの「二人の弟子」を扱う。
 道徳教材には、歴史的な題材が少なくないが、多くが、時代やその背景を無視した文章になっている。おそらく、作者はいるのだろうが、それを教科書編集者が書き換えてしまうのだろう。道徳は時代的限定を受けない、普遍的な価値を教えるのだ、という立場もあるだろうが、時代が変われば道徳的価値が変化することも明らかなのだから、私自身は、やはり、教材である以上、その時代背景や事実を無視することは間違っていると思う。 “道徳教育ノート 二人の弟子” の続きを読む