原爆の日に考える 戦争を終わらせたのは原爆か 日米教師の認識の差

 ブログに、原爆関連で書いたことはないのだが、少し前に、中山京子氏の真珠湾攻撃をどう教えるかという、日米教師によるワークショップ報告に関する文章を書いたので、少し考えてみようと思った。(http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=1705)
 もともとは真珠湾攻撃に関するワークショップだが、ヒロシマも話題になったそうだ。ヒロシマに関しては、当然だと思うが、日米の教師間の意見の相違が極めて大きかった。アメリカ人の教師は、戦争を終わらせたのが原爆投下であり、もし投下しなかったら、本土決戦になって、もっと悲惨な状況になっただろうというわけだ。残念ながら、日本人教師は、原爆の悲惨さを訴えるというレベルに留まったのかも知れない。

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道徳教材「二通の手紙」をめぐって

 道徳教材「二通の手紙」に関しての文章について、「二通のコメント」があったので、返信として、また新たに考えたこととして書いておきたい。返信としては、「ですます調」が適切なのだろうが、ブログの文章なので、「である調」にさせていただく。(また、コメントには氏名が書かれているが、以下はコメントとさせていただく。)
 コメントがまず問題にしているのは、この「二通の手紙」の単元の目標が「生徒にルールを守らせることの重要さを教える」となっていることである。実際に、教育実習でこの教材での道徳の授業をしたときに、むしろ機械的にルールから解雇したやりかたに批判的な生徒もいたという。だから、この教材は、単にルールを守るということではなく、「責任能力を育む」とか「臨機応変な対応力」というようにするほうが適切ではないかという。

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教育学を考える16 試験を誰が作るか 市販テストを考える

 私が小学生の頃、試験問題は担任の教師が自分で作成した。内容も自分で考え、印刷も行っていた。当時は、ガリ版刷りであったので、非常に大変だったはずである。もちろん、教師用の指導書なども参考にしたのだろうが、とにかく、自分で行った授業を、子どもたちがどれだけ理解したのかをチェックするためには、やはり、授業を前提にした試験問題であることが、最も的確な評価が可能である。だから、中学以上は、今でも担当教師が試験問題を作成していることが多いのではないだろうか。小学校は、全教科を実施するとすれば、非常に負担が大きいから、市販テストが登場すると、急速に自作の試験をせずに、市販テストに変えていく流れになり、今では、小学校の教師が試験問題を自分で作成することは、ほとんどない状況になっている。
 実は、日教組は、1970年代初頭に、市販テスト反対運動をしている。また、教育科学研究会の機関誌である『教育』は、72年に市販テストの特集を組んでいる。何故、日教組は反対し、『教育』も批判的論文を並べたのか。それは以下のような認識があったからである。 “教育学を考える16 試験を誰が作るか 市販テストを考える” の続きを読む

『教育』2020.8号を読む 戦争の社会認識を育てる実践

 今回取り上げる文章について、かなり批判的色彩が強いが、実践そのものを否定しているわけではなく、優れたものだと考えている。批判はあくまでも、価値ある文だと思うので行うものであることを、最初に断っておきたい。

 中山京子「教師の社会認識を育てる--海を越える取り組みから」を取り上げる。中山氏は、小学校の先生を11年やったあと、大学で教職課程担当の教員をしている。中山氏の文は、教職をとる学生に対する採用試験の学習と大学の学問との関連、日米の教師で英語でのパールハーバーとヒロシマを考えるワークショップ、グアムへのスタディ・ツアーに関する三つの柱で構成されている。それぞれ興味深い提起がなされているように思われる。しかし、それぞれに若干の疑問も感じるのである。 “『教育』2020.8号を読む 戦争の社会認識を育てる実践” の続きを読む

教育学を考える15 単元の配置について

 義務教育で学ぶ内容の大きな枠組みは、ほとんど国民の間で意見の相違はないように思われる。算数は不要だとか、自国の言語をきちんと学ぶ必要はないとか、そういう意見をもっている人は、まずいないといえる。しかし、細かな内容、例えば歴史の「慰安婦」などは、教えるべきだという人たちと、教えるべきではないという人たちが、長い間争っていて、双方が譲らないから、いまだに表面的には決着がついていない。こういう問題は、「教育の自由」という論点の領域で議論することといえる。(多様性のところで考察した。)
 教育内容に関しては、更に、ある内容が合意できるとしても、それをどう配列するかという問題がある。
 現在は主要な教授方法となっていないが、経験主義のカリキュラムは、教科という編成を採用しないので、教科によって教育内容を構成する場合と、基本的に異なる。現行の学習指導要領では、「総合的学習」が経験主義カリキュラムに相当するが、ここではとりあえず考慮の外に置いておく。 “教育学を考える15 単元の配置について” の続きを読む

AIで講義内容をテキスト化するメリット

 昨日テレビのニュースで、ある大学が、AIを使って、オンラインでの講義をテキスト化する実験をしたと報道されていた。ウェブで検索すると、けっこう多くの大学や企業で活用が始まっているそうだ。これは、ぜひ大学ではやってほしいことだ。私自身、まだまだ音声認識ソフトがつかえる水準でなかった時代に、自分でテープ起こしで講義をテキスト化していたことが、何度かあるので、はやく音声認識ソフトが実用段階になることを願っていたが、最後の年に、ある程度つかえるかも知れないというソフトを試してみたのだが、ソフトの完成度がまだ高くなかったことと、教室でのマイク設定に難があって、実際にはつかえなかった。これはとても残念なことだった。
 なぜ、手間隙かけてまで、テープ起こしをして講義のテキスト化をしていたのか、そのメリットは何かを書いておきたい。(私の「最終講義」にも若干の紹介がある。本ブログ1月末) “AIで講義内容をテキスト化するメリット” の続きを読む

『教育』2020.8号を読む 佐久間建ハンセン病学習

 特集1の「社会の課題に向きあう教師たち」の最初の文は佐久間建「教育実践から社会認識へ--ハンセン病人権学習を進めるなかで学んだこと」で、筆者は小学校の教師で、『ハンセン病と教育』という著書がある。
 佐久間氏がハンセン病と出会ったのは、勤めた小学校の近くにハンセン病施設があったからだ。1993年のことで、96年に廃止された「らい予防法」がまだあったので、「おばあちゃんが全生園にいってはいけない」と言われている子どもがいたそうだ。
 ハンセン病はかなり古い時代から知られていた病気で、聖書などにも出てくるそうだが、感染力は極めて弱く、それほど恐れられていた病気でもなかった。この文章では触れられていないいが、社会的な差別の対象になったのは、明治時代からである。歴史的に有名な人では、関ヶ原合戦で最も奮戦して敗れた大谷善継がいる。殿様だったということもあるだろうが、尊敬され、高く評価された戦国武将だった。つまりハンセン病が大名として活動することの妨げにはならなかったわけである。 “『教育』2020.8号を読む 佐久間建ハンセン病学習” の続きを読む

『教育』2020.7号を読む オリパラとナショナリズム2

 昨日に続いて、今回は石坂友司氏の「オリパラが生みだすナショナリズムを考える」を考えたい。
 石坂氏は、オリンピック・パラリンピックとナショナリズムの関わりについて、ポジティブな面もあると断りながら、ネガティブな部分を強調する形になっている。ポジティブ面はほとんど書かれていない。私には、スポーツがナショナリズムと結びつくことのポジティブな側面というのは、思いつかない。昨日書いた、当初のオリンピックの価値を見ても、むしろナショナリズムを越える部分に意味があるといえる。国籍を越えて讃えあうとすれば、オリンピックとしての感動的な場面となるだろうが、勝った相手が違う国籍であるから、祝福しない、あるいは逆に、自分たちの国が勝者になったからうれしい、というようなことは、そんなにポジティブな価値とは思えない。 “『教育』2020.7号を読む オリパラとナショナリズム2” の続きを読む

『教育』2020.7号を読む オリパラとナショナリズム1

 7月号は、オリンピック・パラリンピックとナショナリズムの関係を論じた論考が二つある。 森敏生「オリパラ教育のあり方を再考する」と 石坂友司「オリパラが生みだすナショナリズムを考える」だ。前者が、オリパラ教育を基本的に推進する立場、後者が疑問を呈する立場で、方向性が異なった文章だ。『教育』としては、比較的珍しい現象で、私はとても好ましいと思う。教育科学研究会といえども、見解は多様でかまわないはずであり、異なった意見をぶつけ合うことで、新しいものが生みだされていくとしたら、教科研の発展のために、とてもいいことだと思う。
 オリンピックがナショナリズムの高揚に、政治的に利用されていることは、疑いないところだ。オリンピックやスポーツの推進に、極めて熱心な人なら、それに疑問を感じないかも知れないが、私のような、スポーツ好きではあるが、あくまでも趣味だと思っている人間にとっては、過度のオリンピックの入れ込み、そして、それがナショナリズムと結びつくことについては、やはり、疑問を強く感じる。 “『教育』2020.7号を読む オリパラとナショナリズム1” の続きを読む

教育学を考える14 オンライン教育も教育

 私が教育学を研究を志して以来、最も信頼する教育雑誌は、教科研の機関誌である『教育』だった。だから、50年間以上、毎号というわけにはいかないが、ずっと読み続けてきた。手持ちのものは、ほとんどを自炊して、デジタル化して読んでいる。古い時代の教育に関する議論などを参照するときには、真っ先にその当時の『教育』を繙く。「『教育』を読む会」が地域的に組織され、それは全国に散らばっている。そうしたなかで、ある読む会の中心的メンバーが、「オンライン教育は教育ではない」と主張する書き込みを見て、心底驚いてしまった。そこで、疑問を提起したのであるが、もう少し敷衍して、「教育学を考える」素材として、いろいろと考えてみたい。(A氏とここでは呼ばせていただく)
 人はどういう時に学ぶのだろうか。少なくとも最も効果的に学ぶという意味で考えれば、自分に関心のあることを、自分の意志で学ぶときに、最もよく学ぶ。これは、誰でも認めるだろう。そのことを、「学校のシステム」として実行しているのが、サドベリバレイ校の実践である。(度々触れているのでここでは説明しない。(「教育学を考える5 選択の学びの主体性」http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=1607参照)もちろん、教育には多様性が必要であるから、すべてがサドベリバレイ校のようになる必要もないし、そう考えるのは空想的だろう。しかし、この学びの原則は忘れるべきではない。特に、「義務教育」として、学ぶことを強制している学校の関係者はそうだ。そして、学校というシステムそのものが、歴史的には新しい形態であり、現在のような国民教育制度は、たかだか150年の歴史しかない。人間は、学校以外のところで、たくさんのことを学んできたし、義務教育が制度として機能している現代でも、妥当する事実なのである。 “教育学を考える14 オンライン教育も教育” の続きを読む