教育学を考える4 教育の多様性の必要

 これまで、私は、教育の多様性を前提として論じてきた。現代社会においては、人が教育に求めるものは、同じではなく、多様であるという前提的認識がある。しかし、他方では、国民全員が、同水準の教育を保障される必要があるという考える人もいる。これからの教育では、どちらの考えに立って、学校のあり方を決めていくべきなのだろうか。
 教育のあり方、教育に期待することは、昔から多様だった。しかし、身分制社会においては、それは身分的に規定されていて、身分を離れて自由に選択できるものではなかった。江戸時代のように、社会の流動性が少しでもある時代になれば、自分の生活圏を離れて、別の社会に移動し、そこで新たな教育を受けることは可能であった。
 教育に同質性が意図的に追求されるようになったのは、近代社会であり、国民教育制度、つまり義務教育が制度として実現するようになってからである。義務教育は、徴兵制と補完的な関係であるから、国民意識の涵養という目的での同質性が、政府によって求められたのである。もちろん、国によって多少の相違はあるが、基本は同じと考えてよい。そうした同質的教育の上に、社会的分業に応じた多様な教育形態が上に乗っていくことになる。
 これは、1960年代から70年代にかけて、文部省やいくつかの県で実施された高校の多様化政策に、典型的な形で表れている。その中でも富山県は、普通科3、職業科7に高校を分け、職業科を充実させる政策を実施した。全国的にみれば、職業科は、200以上の種類があった。高校全入運動などが行われ、高校進学率が高くなった時期であるが、普通科は大学を目指す生徒が多いから、若年労働力の確保のために、職業高校への進学を増やし、高卒で労働界に入るように誘導しよう、財界の意向に添っていたわけである。
 しかし、高校進学率の高まりは、普通科への志望に集中していく傾向になり、職業科は少なくなっていった。現在の職業科の生徒数は、全体の20%程度である。中学までは原則的に普通教育であるから、専門的な分化は存在しない。75%の普通高校は、何によって分化しているのか。それは制度としてではなく、社会的意識として、偏差値で分化している。偏差値によって、教育方法などに差が出てくると考えられる。そして、理系・文系、国公立・私立というように、進路別に高校内で分化する。
 このような分化のありかたを、偏差値という「一元的な価値」と本多勝一は呼んだが、現在でも、多少の変化はあったが、基本的姿に変化はない。
 このような多様化は、21世社会の多様な姿として相応しいとは考えられない。
 第一に、多様性は社会のなかからの自発的な総意によって起きるものであるほうが、国家が制度的に決めるよりも、社会的な変化によりよく対応できることである。例えば、今年度から必修になるプログラム教育を考えてみよう。これを小学校から高校までの必修とすることは、私にはかなり無駄であり、効果が期待できないと考える。もちろん、そこから大きく飛躍するひとは出てくるだろうが、コストパフォーマンスの点でかなり無駄になると考える。
・コンピューターが社会で最も重要なツールのひとつになって、かなりの時間がたっている。日本において、マニアのパソコンだったNECの88シリーズに対して、一般的な仕事のツールとなって爆発的に普及した98シリーズは1982年に表れた。windowsが普及し、IBM互換のパソコンに地位を奪われるまで、パソコンで仕事をする日本人の多くが使っていた。それから既に40年も経過しているのである。パソコンの授業はその後学校に導入されるようになったが、極めて非効率で、学校でコンピューターを学んだから、技能が高まって、専門家としての基礎を培うことができたという人は、極めて少ないに違いない。ほとんどは学校外での自学によって、あるいは、大学で本格的に学んだと思う。細かい点は省略するが、コンピューターのように年々新しい機能が付け加えられて、数年経てば、まるで異なる世界が開けてくるような領域は、学校教育の正規のカリキュラムとして、みんなが学ぶことには適していないのである。だから、我が校は、コンピューター教育を重視する教育をするというような学校を、自由に設立できることか重要なのだ。そして、興味がある生徒が集まればよい。そして、そうした学校が成果をあげれば、その中で培われた汎用性をもつ内容を、他の学校が基礎として学んでいけばよい。
・コンピューターは、ハードウェア、ソフトウェアなどの開発と、それらを使う立場というように、まったく異なる領域に分かれる。ユーザーとしての立場は、ほとんどの国民にとってあてはまることになるから、その基礎的なことは、国民全員が学ぶ意味があるが、ユーザーであっても、使うソフトの領域はかなり広範であるし、個々人はその一部を使うに過ぎない。従って、コンピューターはかなり高度な専門性をもっているが、それを学ぶには、比較的早くから学ぶことが有効であると考えられる。かなり創造的な性質をもつからである。国民全体に必修とすれば、必ず役に立たないほど中途半端なものにならざるをえない。
 第二に、多様性は教育の内容だけではなく、方法においても必要だからである。現行の学習指導要領は、教え方については、特に規定していない。だから、自由であるようにみえる。しかし、実はそれほど自由ではないし、また、そこで特質を出せるとしても、それを独自の指導法として公開し、それを希望する者が入学するという保障をしているわけでもない。特別な効果的な方法を取り入れている学校があったとしても、そこで学んでいる者は、それに偶然で出会っているに過ぎない。だから、効果的であっても、ネガティブな対応をする者も出てくる。仮説実験授業という、非常に優れた理科の教育法があるのが、私の子どものある時期の担任がそれを実践していた。しかし、教科書から離れる教え方をするために、子どもたちは例外なく楽しく学習していたのに、一部の保護者が反対して、潰してしまったということがある。私はちょうど海外研修に出かける時期で、その準備に忙しかったので、その教師を擁護してあげることかできず、とても残念だった。我が校は、理科は仮説実験授業を実践していることを、公表し、それを念頭に学校選択できるシステムであれば、こうしたトラブルを起きないし、受けたい人は妨害を受けないですむ。しかし、今の制度のように、教育方法は偶然に出会うものでは、せっかくの宝が埋もれてしまうのである。 
 教育の多様性の宝庫であるオランダを参考にして考えてみよう。いまでも最も伝統的で、多数の生徒を集めているのは宗教的な学校である。カトリック、プロテスタントのキリスト教系の学校は、伝統的な教え方で、伝統的な文化をしっかり教えることで支持されている。現在では、かならずしも宗派的要素に拘ることなく、教育のスタイルを考慮して選択する例が多いようだ。宗教的な学校としては、イスラム教、ユダヤ教、仏教、ヒンズー教など、多様な学校が少数ではあるが存在して、宗教を重視した教育を行っている。それに対して、特別な理念や教育方法を主眼にした学校が多様に存在している。公立学校でも、例えばアンネフランク学校という名称の基礎学校(幼稚園と小学校が統合された学校)があるが、アンネフランクの理想を掲げ、人権教育を重視している。ずいぶん前だが、私の大学のヨーロッパ福祉・教育研修で、学生たちがその学校の保護者たちに、ホームステイ先として受け入れてもらったことがある。当時は、障害児の教育に熱心に取り組んでいた。フレネ学校、シュタイナー学校、イェーナプラン学校、モンテッソーリ学校、ドルトンプラン学校、サドベリバレエ学校など、教育理念と方法に、独特の主張がある学校が多数存在している。それぞれが公立でも私立でも存在しているところが、オランダらしいところだ。特別な技能を小さいころからトレーニングする必要がある領域では、バレエ学校や音楽学校など、能力試験を受けて入学する学校もある。
 このような多様な学校が多数存在しうる自由があるほうがいいのか、あるいは、国家的な認可を受けて、設立が絞られるほうがいいのか。それは、多様性そのものの価値をどの程度認めるかによるだろう。私は、特に21世紀は、社会そのものが20世紀よりもずっと多様化した社会になり、また変化の激しい社会でもあるので、多様な教育を受けることができ、また、移動できる自由もあるという状況が好ましいと思っている。そういう立場にたつと、多様性の許容と学校選択の自由は、車の両輪のような関係となるのである。
 では、社会の同質性、国民的アイデンティティは不要なのか。
 21世紀は軍事的な意味での国民的同質性、つまり国民的な愛国心が必要である社会とは考えられない。(そのように考える人もまだ存在しているが。)国民的一体感を重視する人たちにとっては、軍事的・防衛的な内容こそが重要である。しかし、現在の軍隊は極めて高度な先端技術に依存しており、そうした技術を自由に操ることができる者が動かす。今や素人の軍隊が闘う社会ではなくなっている。アメリカのように、世界の警察のような役割を果たす場合は例外として、自国を防衛するのに必要な軍隊は、選抜された高度な技能をもった少数の人間で足りるのである。徴兵制などは、逆に国家的負担となる。それを除けば、国民的一体感が必要だろうか。まして、それを強制的に教えることが必要だろうか。
 またグローバリゼーションによって、外国で働き生活する者は少なくないし、また、有能な人材ほど、そういう傾向をもつ。そのような人材にとって、同質の国民的共通教養や道徳などは、あまり学ぶ価値がないものになっていく。むしろ、国民的一体感や国民的教養よりは、異文化のコミュニケーションが可能な資質・能力のほうが重要になるだろう。もちろん、自国の代表的な文化について、全く無知では、異文化とのコミュニケーションが成立しない。だから、最低限必要な自国文化を学ぶ必要があるが、それは、大きな部分を占めるものではない。
 やはり、教育の多様性を保証していくことが必要なのである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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