『教育』2020.8号を読む 佐久間建ハンセン病学習

 特集1の「社会の課題に向きあう教師たち」の最初の文は佐久間建「教育実践から社会認識へ--ハンセン病人権学習を進めるなかで学んだこと」で、筆者は小学校の教師で、『ハンセン病と教育』という著書がある。
 佐久間氏がハンセン病と出会ったのは、勤めた小学校の近くにハンセン病施設があったからだ。1993年のことで、96年に廃止された「らい予防法」がまだあったので、「おばあちゃんが全生園にいってはいけない」と言われている子どもがいたそうだ。
 ハンセン病はかなり古い時代から知られていた病気で、聖書などにも出てくるそうだが、感染力は極めて弱く、それほど恐れられていた病気でもなかった。この文章では触れられていないいが、社会的な差別の対象になったのは、明治時代からである。歴史的に有名な人では、関ヶ原合戦で最も奮戦して敗れた大谷善継がいる。殿様だったということもあるだろうが、尊敬され、高く評価された戦国武将だった。つまりハンセン病が大名として活動することの妨げにはならなかったわけである。 “『教育』2020.8号を読む 佐久間建ハンセン病学習” の続きを読む

『教育』2020.7号を読む オリパラとナショナリズム2

 昨日に続いて、今回は石坂友司氏の「オリパラが生みだすナショナリズムを考える」を考えたい。
 石坂氏は、オリンピック・パラリンピックとナショナリズムの関わりについて、ポジティブな面もあると断りながら、ネガティブな部分を強調する形になっている。ポジティブ面はほとんど書かれていない。私には、スポーツがナショナリズムと結びつくことのポジティブな側面というのは、思いつかない。昨日書いた、当初のオリンピックの価値を見ても、むしろナショナリズムを越える部分に意味があるといえる。国籍を越えて讃えあうとすれば、オリンピックとしての感動的な場面となるだろうが、勝った相手が違う国籍であるから、祝福しない、あるいは逆に、自分たちの国が勝者になったからうれしい、というようなことは、そんなにポジティブな価値とは思えない。 “『教育』2020.7号を読む オリパラとナショナリズム2” の続きを読む

『教育』2020.7号を読む オリパラとナショナリズム1

 7月号は、オリンピック・パラリンピックとナショナリズムの関係を論じた論考が二つある。 森敏生「オリパラ教育のあり方を再考する」と 石坂友司「オリパラが生みだすナショナリズムを考える」だ。前者が、オリパラ教育を基本的に推進する立場、後者が疑問を呈する立場で、方向性が異なった文章だ。『教育』としては、比較的珍しい現象で、私はとても好ましいと思う。教育科学研究会といえども、見解は多様でかまわないはずであり、異なった意見をぶつけ合うことで、新しいものが生みだされていくとしたら、教科研の発展のために、とてもいいことだと思う。
 オリンピックがナショナリズムの高揚に、政治的に利用されていることは、疑いないところだ。オリンピックやスポーツの推進に、極めて熱心な人なら、それに疑問を感じないかも知れないが、私のような、スポーツ好きではあるが、あくまでも趣味だと思っている人間にとっては、過度のオリンピックの入れ込み、そして、それがナショナリズムと結びつくことについては、やはり、疑問を強く感じる。 “『教育』2020.7号を読む オリパラとナショナリズム1” の続きを読む

教育学を考える14 オンライン教育も教育

 私が教育学を研究を志して以来、最も信頼する教育雑誌は、教科研の機関誌である『教育』だった。だから、50年間以上、毎号というわけにはいかないが、ずっと読み続けてきた。手持ちのものは、ほとんどを自炊して、デジタル化して読んでいる。古い時代の教育に関する議論などを参照するときには、真っ先にその当時の『教育』を繙く。「『教育』を読む会」が地域的に組織され、それは全国に散らばっている。そうしたなかで、ある読む会の中心的メンバーが、「オンライン教育は教育ではない」と主張する書き込みを見て、心底驚いてしまった。そこで、疑問を提起したのであるが、もう少し敷衍して、「教育学を考える」素材として、いろいろと考えてみたい。(A氏とここでは呼ばせていただく)
 人はどういう時に学ぶのだろうか。少なくとも最も効果的に学ぶという意味で考えれば、自分に関心のあることを、自分の意志で学ぶときに、最もよく学ぶ。これは、誰でも認めるだろう。そのことを、「学校のシステム」として実行しているのが、サドベリバレイ校の実践である。(度々触れているのでここでは説明しない。(「教育学を考える5 選択の学びの主体性」http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=1607参照)もちろん、教育には多様性が必要であるから、すべてがサドベリバレイ校のようになる必要もないし、そう考えるのは空想的だろう。しかし、この学びの原則は忘れるべきではない。特に、「義務教育」として、学ぶことを強制している学校の関係者はそうだ。そして、学校というシステムそのものが、歴史的には新しい形態であり、現在のような国民教育制度は、たかだか150年の歴史しかない。人間は、学校以外のところで、たくさんのことを学んできたし、義務教育が制度として機能している現代でも、妥当する事実なのである。 “教育学を考える14 オンライン教育も教育” の続きを読む

文科省道徳教「二通の手紙」

 文科省の道徳教育資料の教材に「二通の手紙」という文章がある。これは、「権利と義務」「社会のルール」の大切さを学ぶという教材のようだ。毎回の断りだが、これは、この教材をどのように教えるかという考察ではなく、大人として、まずこの教材を読んで考えることについて書く。
 動物園の入場管理をしている二人の会話から始まる。高校生らしい二人ずれが、ほんの少し入園終了時間を超えた時点で、入場券を買おうとして、少しだからいいじゃないかという、たぶん若い山田と、だめだという年配の佐々木が言い争っているわけだ。そして、佐々木が、高校生に、「規則上いれるわけにはいきません」と断ると、高校生は不服な顔をしながらも、去っていった。そして、納得がいかない山田に、佐々木が若いころの体験を話す。
 定年間際に妻を亡くした元さんが、仕事ぶりをかわれて退職後に引き続き働くことができるようになる。毎日、小学3年くらいの女の子と、3,4歳の弟が、動物園のなかを覗いている。そんなある日、入園終了時刻を過ぎて、入り口を閉めようとしていると、その二人がやってきて、いれてとせがむのだが、元さんは、子どもたちに、「もう終わりだよ。それに、ここは、小さい子はおちうの人が一緒じゃないと入れないんだ」と断る。しかし、女の子が「今日は弟の誕生日だから、見せてやりたかった」と泣きださんばかりになったので、特別にいれてあげた。
 ところが、閉館時間になって、客が帰ったのに、その子たちは出てこない。職員をあげて探すことになり、一時間もたって、園内の雑木林の池で遊んでいるところを発見した。その後、二通の手紙を受け取ったというのが、この文の表題になっている。 “文科省道徳教「二通の手紙」” の続きを読む

教育学を考える13 安井俊夫の授業論

 安井俊夫氏は、戦後の中学社会科教師として、最も優れた一人である。率直にいえば、「一人」という言葉もいらない。単に授業が素晴らしかったというだけではなく、特に歴史教育では、画期的な方法を提起したと思う。
 私が、安井俊夫という名前を聞いたのは、まだ大学に就職できず、生活と研究にも役に立つということで、家庭塾をやっていたときだった。私が住んでいたとなりの通学区の教師だったのだが、そこの生徒が何人か来ていて、盛んに安井先生の素晴らしさを語ってくれたのである。とにかく授業が楽しいというのだが、私が特に印象的だったのは、学年に二人の社会の先生がいて、定期試験の問題を交互に作成するのだが、もう一人の先生が作成した問題であっても、常に安井先生のクラスの平均点が10点近く高くなるということだった。引き込まれるような楽しい授業というだけではなく、試験でいい成績をとれるというのだから、優れた教師であることに疑いはない。それから、できるだけ安井氏の実践記録の著作を読むようにした。大学に勤めるようになって、安井氏の授業を撮影したビデオ映像も数本あるので、すべて入手して、何度もみたし、また、学生にも見せた。安井氏の授業は、実践するのはかなり難しいと思うが、斉藤喜博のような「名人芸」的な雰囲気ではない。相当な勉強をして、授業の構想を何度も練り直すような準備が必要だが、経験の蓄積と情熱があれば、可能な授業方法であると思う。 “教育学を考える13 安井俊夫の授業論” の続きを読む

『教育』2020.7を読む ナショナリズムと歴史と教育3

 いよいよ、ナショナリズムと能力主義を超える方法を探る部分になった。ナショナリズムは、国民に一定の居場所を提供するが、余裕がなくなると、容易に排外主義に転化してしまう。そうならないために、どのような原則が必要か。
 佐藤氏は、まず、能力主義を乗り越える原理を探る。氏は次のように述べる。
 「学校教育がその子ども一人ひとりの得意なことを見つけさせ、その能力を活かし発揮させるように導きその子たちに生きる自身をもたせることこそが、教育の原点ではないのか。そうした能力形成を軽視し、受験競争のための知識獲得だけに駆り立てることが、どれほど重要だというのであろう。」
 そうした具体例として、電気製品の修理の技術をもっている、歌や踊りにみんなが驚嘆する、料理や大工がとてもてきぱきとできる、そういう生活能力が、学校教育をきっかけに発揮されるようになることを期待する。 “『教育』2020.7を読む ナショナリズムと歴史と教育3” の続きを読む

『教育』2020.7を読む ナショナリズムと歴史と教育2

 前回は、津久井やまゆり園で殺傷事件を起こした植松聖に関する佐藤氏の分析に、多少の疑問を呈した。今回は、そこを引き継ぎつつ、次の部分に進みたい。
 植松は、「経済発展に寄与しない人間は存在理由がない」ということで、殺傷事件を起こしたとされるが、それに対して、佐藤氏は、それが本当なら21世紀は恐ろしい世紀であるとして、そうした観念を生みだした「能力主義とナショナリズム」の批判に進むのだが、私は、そこで一歩留まりたい。もちろん、「経済発展に寄与しない人間」も完全に存在理由があるし、生存権が保障されるべきである。しかし、そのような確認で済ますことができない問題であるとも感じるのである。それは、私がオランダにいたときの経験から考えることだ。 “『教育』2020.7を読む ナショナリズムと歴史と教育2” の続きを読む

教育学を考える11 授業 斉藤喜博1

 一斉授業そのものは決して避けることができないものではないが、とりあえず、多人数の子どもが同一教室に存在するというのは、国民教育制度では避けることができない。寺子屋のような個別指導方式も可能だから、一斉授業以外の教授方式もありうるが、私は優れた一斉授業こそが、最も効果的な授業であると確信している。しかし、それには教師の側に高度な技術、知識、情熱が必要である。また、高度な技術には達していなくても、高度な一斉授業を可能にするという目的で活動しているのが、TOSSである。TOSSはあとで考察するとして、今回は、最も優れた一斉授業の実践者であったと、私が考える斉藤喜博、次に安井俊夫の実践を考える。 “教育学を考える11 授業 斉藤喜博1” の続きを読む

教育学を考える10 授業 一斉授業の充実こそ

 これからは、教育の内容的なことを少しずつ考えていきたい。まず初めに「授業」について何回か。
 授業について考えるとき、必ずやり玉にあがるのが、「一斉授業」だ。教師による一方通行の授業で、学習者の関心や理解度にかまわず、ただ知識を伝達するだけの授業。これを変えることが、授業改革の第一歩だというように非難される。もちろん、無味乾燥で、成果のあがらない一斉授業がたくさんあることは事実である。しかし、だから個別授業やグループ授業に変えれば、問題が解決するというわけではない。一斉授業は、必然的に生まれる方法だからだ。
 昔でも今でも「王」やその子どもの教育は、個別教育である。もっとも優れた専門家であると思われる人から、家庭教師のように教わる。アレキサンダー大王の教師がアリストテレスであったことは、有名な歴史的事実である。今の日本でも、天皇への教育は、個人教授である。一緒に付き従って聞く者がいたとしても、正式に教わる者は天皇だけである。しかし、それは王や天皇だから可能なのであって、それが最も良い教育方法であるとしても、「国民教育制度」で実施できないことは疑いない。王の個人教授は、莫大な税金を使っているから可能なのである。一般の教育では、対費用効果を考えれば、教師一人に対して多数の生徒がいて、多数の生徒の親がその費用を負担する以外は、実現不可能である。費用が税金で賄われるシステムであったとしても、それは変わらない。だから、「学校」という場では、教師の数よりも、学生・生徒の数が断然多いのは、古今東西同じなのである。 “教育学を考える10 授業 一斉授業の充実こそ” の続きを読む