日本型学校教育の検討2 同調圧力と日本型学校教育は表裏一体だ

 今回の中教審答申への提示案は、さすがにコロナ禍を経たなかで出されたので、社会や学校に露わになった問題に対する「配慮」をしているかのように書かれている。しかし、配慮するように書くことと、それを実行可能な案としてまとめること、あるいは、まとめたとしても、それを実行できるかどうかは、全く別問題である。そうした実行可能性という批判的視点がないと、まるでよいことのように書かれた提言の実際の方向性を見失うことになる。
 さて、まずは、日本型学校教育なるもののひとつの側面について検討しよう。

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教育学を考える19 教育における実験

 『岩波講座現代』8巻『学習する社会の明日』の巻頭論文が、「教育の実験をしてよいか」という題になっているので、興味深く読んでみた。しかし、実際には、ほとんどテーマ、つまり「教育の実験をしてよいか」については論じられていないのに驚いた。最初に「教育はもっとも実験室化してはならぬものでありながら、もっとも実験室化しやすいもの」という福田恆存の言葉をひいて、教育における「反知性主義」を批判する形になっている。巻頭論文で、各論文の趣旨を説明することに半分を費やしているが、あまりに題名との内容に乖離が大きい。ついでに、蛇足で書いておくと、この巻は、明らかに「教育」を論じることがテーマになっているが、狭義の教育学者が一人しかはいっていないのにも驚いた。

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「日本型学校教育」を考える1

 先日文科省から、中教審に提出された答申案の骨子が公表されている。そして、「令和の日本型学校教育」の構築をめざす立場からの提言となっている。この「日本型学校教育」という言葉が使用されたのは、2016年の「次世代の学校指導体制強化のためのタスクフォース」の最終まとめ「次世代の学校指導体制の在り方について」からのようだ。これは、「教員が、教科指導、生徒指導、部活指導」等を一体的に行うことを特徴としていることを指し、またその成果として、PISAなどでも「学力面がOECDでもトップクラスであり、更に、勤勉さ、礼儀正しさなど、道徳面、人格面でも評価されてきた」としている。ただし、このまとめでは、こうした特質が教師の労働時間を過重にしているために、いままでのような形の継続は困難になっているという認識があるために、「学校指導体制」の改善が必要であるとしていた。

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『教育』2020.9号を読む 神代健彦「『能力と発達と学習』をゆっくり読む」の検討

 勝田守一著『能力と発達と学習』は、私にとって、戦後最高の「教育学概論」「教育学入門」の書であり、いつかこれを越える『教育学』を書きたいと、ずっと思い続けて、なお果たせないできた高い峰である。しかし、若い世代にとって、勝田守一は、ほとんど過去の人であり、検討に値しない教育学者と考えられていると聞いたことがある。神代氏が「勝田の教育学は、「発達」や「子ども」を無謬の前提として、あらゆる社会的要請を無視するものであるかのように言われる」と書いていることからもわかる。そういう世代であるにもかかわらず、『教育』編集部の依頼に応えて、この決して読みやすいとはいえない本の「現代的意義」を論じるという、あまり気乗りのしない仕事を、果敢に引き受けられたことには、敬意を表すべきだろう。
 しかし、やはり、勝田に共感していないせいか、私には、とうてい納得できない読み方をしているように感じる。
(1) 最初に、総括的結論が示される。「あまり面白い本じゃない。」「いま流行りの教育論を素朴にしたような感じで、はっきり言って新味がない。」

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小学校5,6年の算数・理科・英語の専科教員か?

 8月20日の中教審の特別部会に、2022年度をめどに、小学校5,6年の専科科目を、現在広まっている理科に加えて、算数と英語を加えるという案を、提案したと報道されている。こうした専科化の動向は、ずっと問題となっているし、特に、現在理科の専科化は、報道されているように、進んでいる。しかし、これらは、非常に問題の多い施策と言わざるをえない。
 現在の制度では、小学校の教師は、全教科を教えるのが建前である。しかし、一人ですべてを教えるのは困難だから、学校の事情に応じて、専科の教師が配当されている。私が小学校のときですら、5,6年の音楽は専科の先生が担当していた。学校によってかなり事情が異なると思うが、その他に図工、家庭なども専科がいることがある。要するに、ばらばらなのである。もし、文科省のその構想が実現するとどうなるのか。

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読書ノート『能力と発達と学習』を読む2

 今回は第一章「人間の能力をどうとらえるか」を扱う。
 最初に「知能」を問題にしている。知能とは何か、生まれつきの遺伝的なものか、固定的なものなのか、各知能の関係は何か、測ることは可能なのか、等々様々な検討がなされているが、現在の我々には、あまり切実さを感じさせないテーマである。しかし、1963年当時は、まだ、「知能」は極めてホットで、実際生活にも影響を与えていた重大な問題だったことは知っておくべきだろう。
 一番極端な例はイギリスで、1944年法で、前期中等教育まで義務化されたが、小学校後は3つのコースに区分されていた。しかも、年数も教育内容も異なっていた。それを、イレブンプラステストという試験で振り分けたが、そのテストの重要な柱が知能テストだったのである。つまり、知能テストで、進学する学校の種類を決められる、人生に大きな影響を、知能テストが与えていた。当然、大きな批判が沸き起こり、イギリスを中心とした大論争が起きた。また、DNAが発見されたこともあり、遺伝学が盛んになったことも、教育に影響を与えた。知能や能力は遺伝的に決まっているとか、あるいは人種的に知能の水準は異なっているとか、様々な「学説」が横行していた時期でもあった。かつては日本でも、就学前検診で知能テストが行われ、一定水準以下だと、ほぼ強制的に養護学校にいれられるというような時代もあった。こうした論争を経て、現在の学問では、かなりの部分で学説の一致をえている。既に知能テストを大規模に行うようなこともなくなっている。だから切実感はなくなったのだが、形を変えて、同様の問題は残っていると考えるべきだろう。

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読書ノート『能力と発達と学習』(勝田守一)を読む1

『教育』が第二特集として「能力・発達・学習と教育実践」というテーマを設定して、勝田守一の名著『能力と発達と学習』を論じる文章を掲載した。その論文に対しては、別途論評する予定だが、それと並行して、私自身の読書ノートとして、何度かに分けて、考察しようと思った。考察というよりも、この名著(以下、本書 ページ数は、著作集6巻のもの)から何を学びとるかということの整理にしかならないかも知れない。
 本書は、『教育』に一年間連載された文章をまとめたもので、「教育学入門」であるが、「教育研究の成立する前提とその本来の領域」を明らかにすることを志して書かれた。私自身は、あまり読書家ではないので、大量の本を読んでいるわけではないが、私の読んだ「教育学入門」「教育学概論」のなかで、戦後最高の書物であり、これを凌駕するものは書かれていない。私自身、生涯のなかで、この本を越える「教育学概論」の書物を書くことは、夢であり、また、最大の努力目標として、ずっと念頭にある。しかし、先の論文は、この名著を、面白くない、新味のないもので、最近流行りの論の先駆けに過ぎないなどと評価している。前のことだが、最近の若い教育学研究者は、勝田守一という人を、かなり低く評価していると聞いたことがある。その典型的な事例を、『教育』の論文でみたわけだが、その論評は別途行うので、それとは無関係に、本書を読み進めたい。
 まず、最初に私の本書を読む心構えを書いておきたい。

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『教育』2020.8号を読む 荒井文昭「現場で決める--教育の自由を支える民主主義のかたち

 第二特集「コロナ一斉休校と子ども・教育」の最後の論文は、荒井文昭氏の「現場で決める--教育の自由を支える民主主義のかたち」だ。
 題名が「現場で決める」だから、まず「現場が決められない」状況から入っているのだが、「パソコンとwifi機器の無償貸与をしながら、双方向性を確保しようとしている一部の学校、NPO」がある一方、多数は、指示待ちの状態に置かれていることが、「深刻な事態」という。確かに、私が聴いている現場の声でも、指示待ち状態が多いが、しかし、それは積極的な提案をしても、上から潰されるという事態もあわせて起きており、強制された指示待ちという、いかにも残念な事態であることが多い。残念ながら、この文章では、積極的な提案が潰されることについてのコメントがないことだ。筆者の職場でも同様なことが起こったというが、それについては、「東京の教育に象徴される教育政策の結果」であると、そのこと自体は間違いではないにせよ、ではどう切り込むかいう視点があまり感じられない。職場の大学での実践を紹介しているが、大学と小学校、中学校では状況はかなり違う。オンライン教育の実施などを提唱しても、待ったがかかるのは、教委の消極性だけではなく、確かにネット環境の整備が遅れていることがある。では、それに対応しようがないとかといえば、私はあったと思っている。例えば、ネット環境がない家庭では、学校に登校させて授業を行う、その授業をZOOMなどを使ってネット配信して、双方向授業とする。そういう案をいろいろなところに提示した。当初は、数人数の登校は認めるところが多かったのだから、可能だったはずである。困難な状況であるほど、創造的に対応を考えねばならない。

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教育学を考える18 集団の教育的価値はその意味2

 前回、集団の教育的価値と教育力について、簡単に整理したが、いわゆる「集団主義教育」が、何故、日本の教育運動から消えてしまったかに見えるのか、あるいは、事実として、集団主義教育を主張する人たちがほとんど見られないのか。それを今回は考えたい。
 集団主義教育を主張する民間教育研究団体は、主にふたつあった。生活綴り方を推進する「日本作文の会」と、核班づくりを中心とする「全国生活指導研究協議会」( 全生研)である。もちろん、このふたつは現在でも活動しているが、少なくとも、集団主義教育を前面に出してはいない。外から見ている限りでは、やはり、活動に大きな変化があったように見える。(私は、この団体の会員ではないが、その主張や実践例は、大学の講義で毎年必ず紹介してきた。そして、基本的には、変化する以前の教育スタイルを、いまでも肯定的に見ていることを、まず断っておきたい。)

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教育学を考える17 集団の教育的価値と意味1

 ここしばらく、教育について議論する場で、「集団」について考えてきた。ある参加者は、教育は個人の差を重視し、個人に応じた教育が理想であり、個人を無視した集団教育は、誤りであるだけではなく、気持ち悪いという。この議論にも、大いに頷ける部分がある。例えば、多くの日本人は、北朝鮮の軍隊の一糸乱れない行進の映像をみると、どこか気持ち悪くなる。そういう声を実際に聞く。しかし、スポーツとしての行進があり、様々な形を作りながら、かなりの大人数で行進する。これも一糸乱れずというものだが、これは、美しいと感じる。私はテレビで日体大の学生によるこうした行進の映像をみて、すごく感心した。同じ一糸乱れずの行進でも、気持ち悪く思ったり、感動したりするのは、何が違うのだろうか。ぴったり揃った行為として美しいと感じるのは、バレエの群舞なども同様だ。もし群舞で足をあげるタイミングや飛ぶタイミングが乱れたら、失望するに違いない。尤も、これは、感じ方が違うかも知れないので、深入りはしない。ただ、集団行動について、気持ち悪いと感じる感覚があることは、確認しておいてよいし、日本の教育は、気持ち悪さという集団行動がないかどうかは、省みる必要があると思われるからだ。

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