コロナ後の大学の在り方を想像する1

 毎日新聞(2020.9.25)に「大学「全面再開」わずか2割 足りぬ教室、実験や実習は感染リスクと向き合い模索」と題する記事がある。コロナ禍真っ最中のときには、全面オンラインだった大学が多いはずであるが、その後対面授業が部分的に再開しても、全面再開が2割に留まっているということだ。いろいろな大学の事情が報告されているが、要するに、大学は3密社会であることが大きな要因である。アメリカのような巨大なキャンパスをもつ大学なら別だろうが、日本の大学は、学生の人数に比較してキャンパスは小さい。講義中は、クラシックの音楽会と同じで、ほとんどしゃべらずに聴いているからよいが、講義の入れ代わりの際は、教室の入り口が電車のラッシュ時に近くなる。そして、そういうときには学生はかなりおしゃべりをする。食事時もかなり3密とおしゃべり状態が普通だ。そして、毎時間、すべての学生が教室を移動するのだから、感染リスクは非常に高いのである。それから、大学の教授は高齢者が多い。自分が感染する危険性を、より多く感じている集団だ。
 そうしたことを考えれば、大学が対面授業全面復活に踏み切れないのは、自然なことだと思われる。しかし、何事も、危機のときこそ、発展の機会でもあるのだ。幸か不幸か、私はこの3月に退職してしまったので、リアリティはないかも知れないが、それだけ自由に考えることができる立場でもあるので、ここで、思い切り、空想的であっても、改革案を構想してみよう。

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当たり前をやめる(続)

 昨日に続いて工藤勇一校長の「当たり前」をやめる実践について。
 氏の著書には、いろいろと驚くことが多いが、「学校に行くこと」について悩んでいる生徒に、「学校にいかなくていいんだよ」というアドバイスを与えた話が出てくる。ひとつは、囲碁のプロになりたいと思っている生徒が、他のライバルたちは学校を休んで、囲碁のプロ試験のための練習に取り組んでいる。だから進歩も速い。しかし、自分は学校に行かねばならない、しかし、それではライバルに抜かされてしまう。悩んで、工藤校長に相談に来た。生徒がこういう悩みを、校長に相談にいくというのが、かなり驚きで、よほど生徒たちに信頼されていたのだろう。
 そして、工藤校長は、「学校に来なくていいんだよ。本当にやりたいことがあるなら、思いきって、学校休んで打ち込んでみたら」というようなアドバイスを与える。校長がいうのだから、と安心して、一年間休学のようにして、中国に修行に出かけることになる。そして、中学に復帰して、無事卒業し、囲碁のプロ試験にも合格したという話だ。

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「学校の当たり前をとめる」工藤勇一校長の実践

 今日(9.24)のFNNプライムオンラインに「学校の「当たり前」をやめた工藤校長が目指す未来の教育」という記事が掲載されている。今年の3月まで東京の麹町中学の校長をやっていた人で、そのときの実践を『学校の「当たり前」をやめた』という本を出版し、ベストセラーになったという。私も遅まきながら購入して、ざっと読んでみたが、近頃稀な面白い本だった。3月で定年退職になり、4月から横浜創英中学・高校の校長に就任したそうだ。
 私たちの年代に東京で育った人にとっては、麹町中学というのは、特別な学校だった。公立の中学であるにもかかわらず、越境入学が多く、当時東大合格者数一位だった日比谷高校に大量に進学していた、「名門」中学だったからである。その後、都立高校の進学校としての凋落で、話題にならなくなったが、都立高校の改革(独自入試の許可等)で若干の復活をとげるのと同時に、麹町中学も話題になることが多くなっていた。そして、この工藤勇一校長の赴任とともにはじまった大改革で、進学などとは異なる次元で話題を呼んでいたことは知っていたが、ここまで徹底的にできたのかと、今回認識を新たにした。題名の通り、「当たり前」をやめると、どれだけのことができるかということだ。

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日本型学校教育の検討3 デジタル教科書

 GIGA構想がいよいよ前倒しになって実施されるようで、既に学校に一人一台のタブレット、あるいはパソコンが導入されつつある。入札で決定した業者が、実は必要な台数のマシンを調達できないということで、辞退するなどという混乱すら起こっているので、本当に年度末までに99%以上の学校に、そうした状態が実現するのかは、まだわからないが、行政が本気であることは確かだ。もちろん、いろいろ基本的なところでの疑問はたくさんある。小学校一年生はまだ文字を習っていないし、日本語を入力するには、ローマ字を習熟しなければ難しいのだから、5,6年生と同じマシンが適当なのかとか、1年生で配布するものを、6年生まで使用するということになっているようだが、4年も経てばかなり古くなってしまうパソコン事情のなかで、それが適切なのか、とかいろいろと思い浮かぶが、ここでは、とりあえず、ICT教育の、ひとつの要となるデジタル教科書をめぐることについて考察する。中教審への案提示の文書は、以下のように書いている “日本型学校教育の検討3 デジタル教科書” の続きを読む

日本型学校教育の検討2 同調圧力と日本型学校教育は表裏一体だ

 今回の中教審答申への提示案は、さすがにコロナ禍を経たなかで出されたので、社会や学校に露わになった問題に対する「配慮」をしているかのように書かれている。しかし、配慮するように書くことと、それを実行可能な案としてまとめること、あるいは、まとめたとしても、それを実行できるかどうかは、全く別問題である。そうした実行可能性という批判的視点がないと、まるでよいことのように書かれた提言の実際の方向性を見失うことになる。
 さて、まずは、日本型学校教育なるもののひとつの側面について検討しよう。

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教育学を考える19 教育における実験

 『岩波講座現代』8巻『学習する社会の明日』の巻頭論文が、「教育の実験をしてよいか」という題になっているので、興味深く読んでみた。しかし、実際には、ほとんどテーマ、つまり「教育の実験をしてよいか」については論じられていないのに驚いた。最初に「教育はもっとも実験室化してはならぬものでありながら、もっとも実験室化しやすいもの」という福田恆存の言葉をひいて、教育における「反知性主義」を批判する形になっている。巻頭論文で、各論文の趣旨を説明することに半分を費やしているが、あまりに題名との内容に乖離が大きい。ついでに、蛇足で書いておくと、この巻は、明らかに「教育」を論じることがテーマになっているが、狭義の教育学者が一人しかはいっていないのにも驚いた。

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「日本型学校教育」を考える1

 先日文科省から、中教審に提出された答申案の骨子が公表されている。そして、「令和の日本型学校教育」の構築をめざす立場からの提言となっている。この「日本型学校教育」という言葉が使用されたのは、2016年の「次世代の学校指導体制強化のためのタスクフォース」の最終まとめ「次世代の学校指導体制の在り方について」からのようだ。これは、「教員が、教科指導、生徒指導、部活指導」等を一体的に行うことを特徴としていることを指し、またその成果として、PISAなどでも「学力面がOECDでもトップクラスであり、更に、勤勉さ、礼儀正しさなど、道徳面、人格面でも評価されてきた」としている。ただし、このまとめでは、こうした特質が教師の労働時間を過重にしているために、いままでのような形の継続は困難になっているという認識があるために、「学校指導体制」の改善が必要であるとしていた。

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『教育』2020.9号を読む 神代健彦「『能力と発達と学習』をゆっくり読む」の検討

 勝田守一著『能力と発達と学習』は、私にとって、戦後最高の「教育学概論」「教育学入門」の書であり、いつかこれを越える『教育学』を書きたいと、ずっと思い続けて、なお果たせないできた高い峰である。しかし、若い世代にとって、勝田守一は、ほとんど過去の人であり、検討に値しない教育学者と考えられていると聞いたことがある。神代氏が「勝田の教育学は、「発達」や「子ども」を無謬の前提として、あらゆる社会的要請を無視するものであるかのように言われる」と書いていることからもわかる。そういう世代であるにもかかわらず、『教育』編集部の依頼に応えて、この決して読みやすいとはいえない本の「現代的意義」を論じるという、あまり気乗りのしない仕事を、果敢に引き受けられたことには、敬意を表すべきだろう。
 しかし、やはり、勝田に共感していないせいか、私には、とうてい納得できない読み方をしているように感じる。
(1) 最初に、総括的結論が示される。「あまり面白い本じゃない。」「いま流行りの教育論を素朴にしたような感じで、はっきり言って新味がない。」

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小学校5,6年の算数・理科・英語の専科教員か?

 8月20日の中教審の特別部会に、2022年度をめどに、小学校5,6年の専科科目を、現在広まっている理科に加えて、算数と英語を加えるという案を、提案したと報道されている。こうした専科化の動向は、ずっと問題となっているし、特に、現在理科の専科化は、報道されているように、進んでいる。しかし、これらは、非常に問題の多い施策と言わざるをえない。
 現在の制度では、小学校の教師は、全教科を教えるのが建前である。しかし、一人ですべてを教えるのは困難だから、学校の事情に応じて、専科の教師が配当されている。私が小学校のときですら、5,6年の音楽は専科の先生が担当していた。学校によってかなり事情が異なると思うが、その他に図工、家庭なども専科がいることがある。要するに、ばらばらなのである。もし、文科省のその構想が実現するとどうなるのか。

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読書ノート『能力と発達と学習』を読む2

 今回は第一章「人間の能力をどうとらえるか」を扱う。
 最初に「知能」を問題にしている。知能とは何か、生まれつきの遺伝的なものか、固定的なものなのか、各知能の関係は何か、測ることは可能なのか、等々様々な検討がなされているが、現在の我々には、あまり切実さを感じさせないテーマである。しかし、1963年当時は、まだ、「知能」は極めてホットで、実際生活にも影響を与えていた重大な問題だったことは知っておくべきだろう。
 一番極端な例はイギリスで、1944年法で、前期中等教育まで義務化されたが、小学校後は3つのコースに区分されていた。しかも、年数も教育内容も異なっていた。それを、イレブンプラステストという試験で振り分けたが、そのテストの重要な柱が知能テストだったのである。つまり、知能テストで、進学する学校の種類を決められる、人生に大きな影響を、知能テストが与えていた。当然、大きな批判が沸き起こり、イギリスを中心とした大論争が起きた。また、DNAが発見されたこともあり、遺伝学が盛んになったことも、教育に影響を与えた。知能や能力は遺伝的に決まっているとか、あるいは人種的に知能の水準は異なっているとか、様々な「学説」が横行していた時期でもあった。かつては日本でも、就学前検診で知能テストが行われ、一定水準以下だと、ほぼ強制的に養護学校にいれられるというような時代もあった。こうした論争を経て、現在の学問では、かなりの部分で学説の一致をえている。既に知能テストを大規模に行うようなこともなくなっている。だから切実感はなくなったのだが、形を変えて、同様の問題は残っていると考えるべきだろう。

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