優生思想を考える

 
 『教育』が「優生思想をこえる」という特集を組んだために、優生思想について改めて考えることになった。各論文については、個別に考察するが、優生思想を基本的にどう考えるかということを整理してみたいと考えた。
 『教育』12月号(2020年)の5ページに優生思想の定義が書かれている。
 「人間の存在と人格の全体性に対して、役に立つ、生産性の有無というごく限られた部分のみをもって価値を計ろうとするものであり、歴史的に侵されてきた負の遺産を引きずり、かつ現代社会が再生産しつつある思想である」
となっている。
 ところで、「優生思想」という言葉は、国語辞典や百科事典にはほとんど見出しにない。あるのは「優生学」である。だから、優生思想とは、優生学の立場を正しいと認め、それを社会的政策として進めようとする思想ということになるだろうか。『教育』の定義とは、異なることになる。『教育』の定義は、近年の保守的政治家や、やまゆり園事件を起こした植松聖の表明した考えかたをまとめたものというほうが適切だろう。

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ハーバード大学のアファマーティブ・アクションは合法とい判決

 アジア系の住民が起こしていたハーバード大学に対する、アファーマティブ・アクションをやめよという提訴に対して、連邦高裁が訴えを退け、ハーバード大学の措置は、公民権法等に違しないという判決を下した。これは、大分前から、アメリカ社会の大きな争点のひとつだったし、いまでも論争が続いている。アファーマティブ・アクションとは、公的機関が行う採用人事において、住民の民族構成の割合に沿うというものだ。私的企業などには義務付けられていないが、私立大学であるハーバード大学は、通常のアファーマティブ・アクションのように、割合を決めるというのではないが、民族構成を考慮する措置をとっているとされている。以前、NHKでハーバード大学の入試のやり方を、ドキュメントで放映していたが、日本の大学のように、点数順に並べて上から機械的に合格させるというのではなく、様々な要素を考慮して、個別に合格者を決めていくので、日本の採用試験でいえば、教員の「選考」に近いものだといえる。

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北海道の指導死事件の判決について

 11月13日に、2013年3月に起きた「指導死」によるとされた自殺に関して、保護者が提訴した裁判の判決があった。かなり考察が難しい事例であるが、避けて通れないので、じっくりと可能な資料を読んでみた。たくさんの文書がネット上にあるが、かなり事実認定が錯綜しており、何が事実だったのかがよく理解できない。そこで、地裁の判決文で確認することにした。13日にだされたのは、高裁判決だが、まだ公開されていない。基本的に地裁判決を支持した内容とされているので、事実認定は地裁判決でよいだろう。
 事件の推移をみて、まず感じるのは、私自分が当事者である部活の指導者だったと仮定しても、どうしていいか分からないという思いになっただろうことだ。簡単に事実を整理すると、Xは、中学から吹奏楽をしており、高校でも吹奏楽の盛んな高校に入学して、吹奏楽部に入った。(ところで、面白いのは、吹奏楽部とはいわず、吹奏楽局と呼んでいるのだそうだ。そういう呼び方は初めて接した。ここでは一般的に部としておきたい。)
 Xは、入部したあと、意欲的に活動していたと思われるが、2学期くらいから、様々な困難にぶつかったようだ。ひとつは、病気である。小学校5年のころから心臓に持病をもっており、練習中に倒れて救急搬送されたり、顧問に車で送ってもらったりしたことがあったという。また、年末に腎臓の疾患で入院手術をした。それ以後、自分の健康にかなりの不安をもったようだ。

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『教育』2020.12号を読む 優生思想の克服のために1

 『教育』12月号の第一特集が「優生思想をこえる」である。やまゆり園事件の判決をきっかけに、植松被告の考えである優生思想を、ナチスの思想とだけみるのではなく、現代社会に深く浸透した思想や価値観に関わる課題として引き取ろうという視点で、特集が組まれたということだ。優生思想とは、人間の存在と人格の「全体性」に対して、「役に立つ」「生産性」の有無という「部分」のみをもって価値を計ろうとする思想と定義している。以後、個別の論考に対して考察をすることにして、今回は、特集全体に対する感想と疑問を書いておきたい。
 個々の執筆者には、多少の差異があるが、だいたいにおいて、どんなに重い障害をもっていても、「生きている価値」があり、それを否定した植松の行為を批判する構造になっている。ただし、思想的吟味ということになると、全体が、被害者の立場、つまり、障害をもった弱い立場から論じているので、そこからはみ出す論点については、あまり掘り下げられていないか無視される。そこが残念である。
 まず何よりも、どんな人でも生きる価値があるとするならば、死刑判決を受けた植松については、どうなのだろうか。もし、本当にどんな人でも生きる価値があるならば、彼への死刑判決は批判されていなければならない。何ら触れていないので、おそらく、死刑判決は是認されているのだろう。しかし、死刑を是認すれば、「生きるに値しない人間は存在する」ことを認めることになる。何度もブログでも書いているように、私は死刑否定論者ではないので、極論としては、生きるに値しない人間が存在することを認める立場である。

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『教育』2020.11号を読む 菅間正道「リアルな学び/交わりとオンラインをめぐる一考察」(2)

 
 
 もう少し、「身体性・直接性」「偶発性」「根源的応答性」について、考えてみよう。
 「授業はリアルだ」という感覚から、こうした概念を考えたというから、「身体性・直接性」は、実際にひとつの場所に居て、一緒に学ぶことをいうのだろう。貴戸理恵氏の「(オンラインは)可能。ただし対面とは別のかたちで。その一方でやはり『対面には及ばない』と感じる点もある。それは『余白』と『身体性』が失われることだ」という文章を引用していることでわかるように、要するに、対面であることが、授業にとって、不可欠ではないが、極めて重要だと主張している。もちろん、教育効果として、対面であるほうがよいには違いないが、結局は、「極めて重要」だという主張が、結局、「不可欠」だというように傾いていくのである。その立論として、菅間氏は、ふたつのことを書いている。
 ひとつは、生き物であるわれわれは、べたべたの濃厚接触のなかで生まれ、死んでいく。だから、オンライン保育やオンライン介護は決して可能にならないという。しかし、オンライン保育やオンライン介護が可能でないのは、身体的「世話」という部分があるからで、そのことが、生き物であるわれわれが濃厚接触(身体性)が教育において不可欠であることにはならない。また、部分的には、オンライン保育やオンライン介護も可能である。それはオンライン診療が可能であることをみてもわかる。保育者や介護士が、対応困難になったときに、より専門的な知見をもった人に、オンラインでアドバイスを受けつつ業務を進めるようなことは、十分にありうる。

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『教育』2020.11号 菅間正道「リアルな学び/交わりとオンラインをめぐる一考察」を読む

 人はどこで、どういう風に学ぶのだろうか。このことを考えるときに、ふたつ重要な視点がある。
 第一に、人は、あらゆる場で、あらゆるときに、学んでいるということだ。多様な筋道の学びがある。学校に通っている人も、塾、通信添削、家庭教師、読書、スポーツクラブ、習い事、テレビ、ラジオ、新聞、インターネット、友人との会話、SNSやメールのやりとり(昔は手紙)等でも学んでいるだろう。
 第二に、そのことの裏返しでもあるが、学校の教室で学んでいることなどは、ごく一部に過ぎない点である。そして、教師は、その点をはっきりと自覚するだけではなく、子どもたちが学び場や方法を、できるだけ豊富にもつように指導すべきであるという点である。教え子たちは、上級の学校や社会に巣立っていく。そのときに、学校で学んだことしか修得しておらず、あるいは学校での学び方しかできないとしたらどうだろうか。あらゆることから学べる人間として送り出す必要があるはずである。
 菅間正道「リアルな学び/交わりとオンラインをめぐる一考察」は、教育に必要なことを追求しているだけではなく、余儀なくされた休校措置のなかで、可能な限りのことを実践している。菅間氏は、自由の森学園高校の教頭先生だが、自由の森学園は、私のゼミの学生で卒論で扱った者がいた。なんと卒業式にその学生は出席し、ビデオを撮ってきたので、それを見たことがある。現在の堅苦しい学校教育のなかで、創造的な教育をしている少ない学校であり、この論文にしても、そうした校風故に可能になった積極的な面を感じる。

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文科省ガオンライン授業多い大学を公表?

 文科省が、オンライン授業の割合が50%以上の大学の名前を公表するという方針だそうだ。ずいぶんとおせっかいなことだ。そもそもコロナ禍で、オンライン授業を勧めたのは、文科省ではないか。それを今度は、体面授業を重視しろというのは、なんともはや、いいかげんな行政だ。オンライン授業と体面授業と明確に区別しない、つまり、両方やっている授業だってけっこうあるのだ。少人数の演習などは、オンラインでもまったく問題なく機能するだろう。通常の体面授業を、カメラをおいてオンラインで流し、大学に来られない学生は、どこかでそのオンライン授業を聴講するという方法もある。就職活動などをしている学生にとっては、ありがたい方法だ。ある大学の教員に聞いたところ、どちらも可としたら、オンラインを希望した学生が圧倒的に多かったというのだ。また、学生にしても、4年生になって、あまり授業をとっていないのなら、定期券を買わずに済む。バイトやりながら、授業のときだけ抜け出すという手段もある。欠席するよりは、ずっといいわけだ。そして、無駄を省くことができる。つまり、オンライン授業は、学生が求めている側面もあるのだ。もちろん、対面授業を求める学生もいる。選択肢が増えることがいいのだ。

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教育学を考える20 主体性・主体的の考察

 最近、ある場で「主体的・主体性」の教育における意味に関する議論をした。少し整理してみたいので、ここで考察することにした。
 「主体的・対話的」な教育が必要であると、近年文科省などが強調している。戦後の文科省の歩みをずっとみている人間にとっては、文科省がいうことには、とりあえずフィルターをかけて、注意しなければならないという意識がある。特に、21世紀にはいって、「ゆとり教育」をやめ、学力推進的な方向をとったあとは、実際に、主張していることと、その結果にかなりの矛盾、ちぐはぐさが生じている。「いじめ防止対策推進法」が制定されてから、逆に、いじめによる自殺などが多数起きている。学力推進策に転換したにもかかわらず、必ずしも、PISAなどでも以前の好成績をキープしているわけではない。文部省が文部科学省になって、大学政策を熱心にやりだしたが、日本の大学の国際ランクはさがり続けている。
 つまり、実際には、「いいことをいっているような感じだが、その結果は逆だ」というような事態が少なくないのである。そういうなかで、文科省が推進しようとしている「主体的・対話的」授業に対する疑問が生じるのも、当然というべきだろう。そういうときに、こうしたあいまいな概念は、教育学として不要であるという意見が提示されて、議論になったわけである。

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パリのテロ事件再考2 仮想授業を構成してみた

 さて、ここから授業の続きになるが、何故、こんなことに拘るのかを説明しておきたい。私は教育学者なので、どうしても今回の事件に関しては、原因となったパティ教師の行った授業が気になるだけではなく、はっきり言うと問題が多いものだったのではないかと考えている。もっと、教育学的に適切な授業をしていれば、殺害の対象となるような悲劇は起きなかった可能性が大きいと思うのである。だから、どういう授業であればよかったのかを考える必要があるわけだ。
 パティ教師の授業の問題は、再度整理すると、「表現の自由」を教えるために、風刺画を掲載することを認めることが、表現の自由の具体化なのだ、という立場を一方的に説明したと思われる点にある。しかも、その際に、不快な思いをする可能性があるからという理由で、イスラム教徒の生徒を教室から退出させた。これは、どのような問題を感じるか。

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パリのテロ事件再考 表現の自由の扱い方1

 フランスの歴史の教師パティ氏の葬儀が国葬として行われ、マクロン大統領が弔辞を読むという異例の事態となった。それだけ、フランスとして「表現の自由」を重んじているということだろうか。マクロン大統領によれば、「風刺の自由」となるそうだが。この問題については、既に一度書いたが、もう少し補充した形で論じたい。(パリのテロ事件 原因となった授業を考える http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=1885 2020.10.18)
 報道によれば、パティ教師は、非常に優しい人で、生徒の意見等をよく聞く人だったという。殺害された人を悪くいうことは、あまりないわけだが、しかし、一部のイスラム教徒たちは、SNSで非難し、報復行動を呼びかけていた。そして、犯人が教師の顔を知らないために、その学校の生徒に確認するように協力を求めたところ、二人の生徒がそれに応じ、2時間ほども一緒にパティ氏が校舎から出てくるのを待って、そして、あの人だと教えたという。当然、既に騒ぎになっていたわけだから、その生徒は、犯人がテロ行為に近いことを行うことを知って、協力したと考えるべきだろう。とするならば、やはり、誰の意見もよく聞いたというわけでもなさそうだ。事実、問題となった授業を行ったときには、イスラム教徒の生徒を教室から退出させたという。もっとも、イスラム教徒というだけの理由で、かつ全員を退出させたかどうかは、報道ではわからない。

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