当たり前をやめる(続)

 昨日に続いて工藤勇一校長の「当たり前」をやめる実践について。
 氏の著書には、いろいろと驚くことが多いが、「学校に行くこと」について悩んでいる生徒に、「学校にいかなくていいんだよ」というアドバイスを与えた話が出てくる。ひとつは、囲碁のプロになりたいと思っている生徒が、他のライバルたちは学校を休んで、囲碁のプロ試験のための練習に取り組んでいる。だから進歩も速い。しかし、自分は学校に行かねばならない、しかし、それではライバルに抜かされてしまう。悩んで、工藤校長に相談に来た。生徒がこういう悩みを、校長に相談にいくというのが、かなり驚きで、よほど生徒たちに信頼されていたのだろう。
 そして、工藤校長は、「学校に来なくていいんだよ。本当にやりたいことがあるなら、思いきって、学校休んで打ち込んでみたら」というようなアドバイスを与える。校長がいうのだから、と安心して、一年間休学のようにして、中国に修行に出かけることになる。そして、中学に復帰して、無事卒業し、囲碁のプロ試験にも合格したという話だ。

 この話で、私は、オランダの少女ラウラ・デッカーのことを思い出した。ラウラは、父親もヨット乗りで、小さいころからヨットに親しんでいた。13歳のときに、単独でヨットによる世界一周を計画して、義務教育期間だったから、学校の休暇措置を願いでた。しかし、児童保護局が、子どもが一人でヨットによる世界一周など危険すぎるので許可できないとして、休暇を認めなかった。それで、ラウラは裁判闘争をすることになる。オランダ世論がかなり割れたそうだ。もちろん、支持する声もあったし、やはり危険だという声もあった。結局、世界記録が可能なぎりぎりのところで、許可を勝ち取り、世界一周を実現する。最年少記録を更新したわけだ。オランダは、世界で最も自由な教育制度をもっている国として、有名だが、学校の出欠については厳しいものがある。そういう国でも、なかなか認めなかったわけだ。もっとも、確かに、常識的に考えて、13,4歳の少女が、一人でヨットで世界一周するというのは、あまりに危険で、許可して事故があった場合、責任をとれるのかということを考えたのだろう。しかし、結局は認めることになる。判決によってだが。
 思い出すもうひとつの事例。アンネ・ゾフィー・ムターという、現在では中高年になってしまったが、10代から世界のトップバイオリニストとして活躍している人がいる。彼女は、小さなときからコンクールに出て、出るたびに優勝していた。13歳のときに、カラヤンに認められて、レコードまで制作し、以後カラヤンが死ぬまで、ずっと最も重要なカラヤンの共演者となった。彼女が、コンクールで優勝を続けているときに、このような才能ある人が、義務教育というシステムで、才能を伸ばすことを制限されるのは、社会にとっても損失だから、義務教育を免除されたという記事を読んだことがある。たぶん事実なのだろう。学校には行かなくなっても、彼女は非常に教養の高い人で、さまざまな社会活動もしている。管理者が、柔軟な精神をもっていることを示した事例である。
 ただし、工藤校長は、囲碁のプロをめざす才能ある生徒だから、許したわけではなく、別の事例として、不登校の生徒の話がある。同じように、校長に相談にきた不登校の生徒にも、そんな無理して学校に来る必要はないのだ、というと、その生徒は非常に気持ちが楽になって、引き籠もりだったのに、家の外に出られるようになり、やがてはクラスに復帰したという。このような生徒は、普通はスクールカウンセラーに相談し、同じようなアドバイスを受けるだろうが、やはり、カウンセラーはあくまで相談活動して、気持ちを理解してくれるが、だからといって、実際に、学校のルールに反する行為を是認することはできない。そこに限界があるだろう。校長は最高管理者だから、校長が、学校に来なくてもいいんだよ、と諭せば、本当に行かなくてもいいのだ、と思える。気持ちのもち方が、やはりかなり違うだろう。もちろん、そのことが問題になれば、校長の責任となる。それでも、学校に来なくてもよい、と言い切れる校長がいるということが、多くの校長にも勇気と示唆を与えるのではないだろうか。
 また、もうひとつ、この校長の考えの柔軟性を表わすことに、ICTに関する見解がある。コロナ休暇でオンラインの遠隔授業が必要になったとき、既に工藤校長は定年になっていたわけだが、遠隔授業については、非常に積極的な見解を述べていた。そして、バーチャルな空間では、真の教育ができないのでは、という質問に、リアルもバーチャルもないと言い切っている。現場の教師には、特に子どもの味方という自覚をもっている教師ほど、リアルな対面授業こそが教育だ、という信念に固執している人が少なくない。もちろん、バーチャルよりもリアルの対面授業のほうが、平均的には、よいだろうが、すべてそうだとは言い切れないし、メディアの発達によって、人の学び方はそれだけ多様なものになってきた。これまでに学んでいることで、リアルではない手法はいくらでもある。読書、映像などでも多くのことを学べるのであって、インターネット時代には、更にリアルではない学びの世界は拡大している。非常に優れた教師によるオンライン授業は、授業力の劣った、しかも工夫のないリアルの対面授業よりも、ずっとよい場合もあるだろう。
 工藤校長から学べる「柔軟性」は、いろいろな場面に応用できそうである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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