「学校の当たり前をとめる」工藤勇一校長の実践

 今日(9.24)のFNNプライムオンラインに「学校の「当たり前」をやめた工藤校長が目指す未来の教育」という記事が掲載されている。今年の3月まで東京の麹町中学の校長をやっていた人で、そのときの実践を『学校の「当たり前」をやめた』という本を出版し、ベストセラーになったという。私も遅まきながら購入して、ざっと読んでみたが、近頃稀な面白い本だった。3月で定年退職になり、4月から横浜創英中学・高校の校長に就任したそうだ。
 私たちの年代に東京で育った人にとっては、麹町中学というのは、特別な学校だった。公立の中学であるにもかかわらず、越境入学が多く、当時東大合格者数一位だった日比谷高校に大量に進学していた、「名門」中学だったからである。その後、都立高校の進学校としての凋落で、話題にならなくなったが、都立高校の改革(独自入試の許可等)で若干の復活をとげるのと同時に、麹町中学も話題になることが多くなっていた。そして、この工藤勇一校長の赴任とともにはじまった大改革で、進学などとは異なる次元で話題を呼んでいたことは知っていたが、ここまで徹底的にできたのかと、今回認識を新たにした。題名の通り、「当たり前」をやめると、どれだけのことができるかということだ。

 学校には、伝統的に、こうするものだという観念やしきたりがたくさんある。私は、不要な慣行や行事などを削減することで、学校の生き返りを図るべきだとして、「学校教育から何を削るか」と考えて、このブログでも書いてきたが、そうしたことを実際に実践している校長がいることに、強い共感をもつ。
 教育の世界の「当たり前」を、世界で最も徹底的にやめたのは、サドベリバレイ校である。何度か書いているので、承知のことと思うが、学校にきたら出欠簿をチェックすることだけが「義務」で、あとは何をしてもよい。何をするかは、全部自分が決めるという学校だ。原理的には、私はその教育理念を強く支持しているが、ただ、通常の公立学校でそのまま実施するのは、もちろんできない。しかし、工藤校長の実践は、もちろん、サドベリバレイ校の教育とは異なり、授業もやるし、行事も部活もあるが、ただ、基本的な姿勢として、極めて近いものを感じる。それは何かというと、教育は何のためにあるのか、という基本的な目的を見据えて、目的と手段をはき違えることなく、目的達成のために手段を活用する姿勢を徹底している点である。
 一番最初に確認する学校の目的、それは「社会の中でよりよく生きていけるようになるために学ぶ場所」であるという。これは、サドベリバレイ校の目的が、「人は誰でも社会で成功したいと思っている。その成功を実現できるようにする」ことが目的であるというのと、重なっている。そして、工藤校長は、その際極めて大事なことが、自分で選択できることだと言っている。日本の学校に、最も欠けていることが、実は一番重要だと主張しているのだ。サドベリバレイ校は、いうまでもなく、やることすべてを自分で選択しなければならない学校である。
 こうしたことは、考えてみれば、当たり前のことだが、実は、あまり意識されていないのではないだろうか。例えば、熱心な教師は、「今の子どもたちが生き生きすること」が大切といって、将来社会に出てからの成功というと、市場社会で成功することが目的か、などと疑問を呈する教師がいる。逆に、受験に受かることという、極めて短絡的な目標に限定してしまうような教師も多い。そうではなく、やはり、教育の目的は、一人前になったときに、よりよく生きることができる力を身につけることにあるのだ。では、どういう力が必要で、どのようにつけさせるのか、その点については、絶対的に正しいことはなく、試行錯誤になるだろう。そして、そのためには、最大限の柔軟さと、人が学ぶことに意欲的になるためには、何が必要なのかを、知った上で、それを実施することだろう。そのために、むしろ阻害要因となることを、まず工藤氏は、やめたわけだ。
 いろいろな改革をしているが、まず「やめた」ことは、宿題・定期考査・固定的担任制ということだ。大賛成だ。前のふたつは、私も度々触れていたことだ。
 宿題が、家庭での自主的な学習を促すのならばいいのだが、単に「遊ぶな」というような合図であったり、あるいは、形式的な枠づけ学習をさせるものであれば、かえって学習意欲を低下させるものだ。余程工夫をしないと、宿題は成果をだすことはないといえる。教室での学習が、とても興味深く、もっと知りたいと思えば、宿題などださなくても、自発的に学習をするだろう。このレベルの学習を実現するのは困難だとしても、無意味な宿題を出していると、教師にとっても免罪符のように機能するのではないか。
 定期考査の廃止も大いに賛成である。教育は絶えず評価をしながら進める必要があり、そういう教育の原則を守っていれば、定期考査などは必要ないのだ。工藤校長は、単元が終わった段階で豆テストをしていたと、著書に書いているが、極端にいえば、そういう豆テストでも不要だと思っている。定期考査は、学校の権威付けと成績表を付けるために行っているものであって、教育上の必要性からではない。定期考査のために授業をするという、転倒が生じているのだ。
 固定担任制の廃止は、私も考えたことはなかった。いわれれば、なるほどと思う。小学校の場合には、基本教科を教える人が、固定的な学級担任となるのが合理的だと思うが、中学の場合は、完全に教科担任制だから、固定的な担任は確かに不要である。HRとか、道徳とか、そういうが担任として必要だというような意見もあるだろうが、そもそも、様々な教科の教師が、道徳というひとつの教科を全員が教えるということも、不自然なことだ。私自身は、教科としての道徳などは必要ないと思っているのだが。
 朝の連絡事項などは、放送で行えば、確実に伝わるし、出欠は授業ごとに担当教師がとる。健康チェックなどは、朝だけやるのではなく、授業中は、教師が常に注意すべきものだから、朝の会などは、必要ないのだ。
 とにかく、工藤校長の実践の最も重要な点は、目的と手段の転倒をせず、しっかりと目的を確認して、それを実現するための手段と内容を再構成する。不要なものはやめて、必要なことは、それまでやっていなかったことでも、取り入れるという姿勢である。
 そして、著書には、目的として民主主義の形成が重視されていて、運動会の在り方なども、生徒の討論を最大限尊重している。そういうなかでこそ、子どもは成長するのだと示してくれている。『学校の「当たり前」をやめる』は、ぜひたくさんの人に読んでほしいと思う。 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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