コロナ後の大学の在り方を想像する2

(4)教員も学生も、ひとつの大学、学部に縛りつける必要はなくなると書いた。この縛りから幾分解放してくれる単位互換システムには、これまでみっつの制約があった。
 第一は、地理的制約である。東京にある大学と名古屋の大学が単位互換制度を実施しても、実質的には授業をとることはできない。だから、かならず近場の大学同士が組むことになる。
 第二は、大学の水準である。偏差値40の大学が早稲田や慶応と単位互換をしたいといっても、絶対に断られるだろう。今の大学には、明確な「偏差値格差」があるから、偏差値がだいたい同水準の大学間でしか、単位互換は難しい。

 第三は、各大学が、学生を囲い込みたいという意識である。これは、私自身が大学に長く勤めていて、残念なことだが、強く感じた。学部や学科は、学問的な専門領域によって構成されていることが多い。教員は従って、アカデミックな領域ごとの専門をもっている。そして、自分が教えている学生たちは、その専門領域で学んでほしいと思っている人が多い。だから、他の学科の授業、他の学部の授業をとること自体、あまり快く思わない。まして、他大学となれば推して知るべしである。
 第一の距離的問題は、インターネットを活用したオンライン教育によって完全に解決できる。今後はやろうとするかのみにかかっている。
 かつてヨーロッパの大学は、ラテン語という共通言語によって、移動の自由があった。どこの大学でも、学ぶ資格があったのである。それがドイツの大学に引き継がれ、アビトゥアを取得すれば、ドイツのどの大学でも学ぶことができ、学期ごとに移動することもできた。過去のドイツの偉大な科学者の経歴をみると、複数の大学で学んでいる人が多いが、それはこうした理由による。現在は、進学率が高まっているので、かなり制限されているが、制度的には残っているし、また、EU全体として、中途での外国留学を奨励していて、その保障措置がとられている。つまり、ヨーロッパでは、大学間の移動を可能にする措置に積極的である。
 インターネットによって、移動するまでもなく、他大学の講義を履修できるようにすれば、こうした原則が可能になる。
 第二は、大学の格差をどう考えるかによるだろう。日本全体の高等教育を発展させる上で、大学の格差があったほうがいいのか、ないほうがいいのか。もちろん、それは様々な側面があるから、ひとつの結論を断定的に出すのは難しい。戦前の日本の帝国大学は、旧制高校と定員がほぼ同じであったので、旧制高校を卒業すれば、ごくわずかな特別な学部を除いて、ほぼ希望の大学・学部に進学することができた。旧制高校にも、わずかな序列はあったかも知れないが、むしろ多くは近くの旧制高校を選んでいたと思われる。これは、旧制の高等教育(帝国大学)が、少数のエリートを対象にしていたから成立していた制度であるといえる。だから、大衆化した戦後の大学に、この原理をそのまま適用することはできないだろう。しかし、本当に、大学が偏差値で細かく輪切りにされて、それを前提に受験競争が行われるのが、教育的に好ましいのか。それには否定的な人が多いのではないだろうか。
 私自身の経験上でいえることだが、私の勤務していた大学は、偏差値としては平均的な大学である。しかし、それはあくまでも受験産業が出している数値であって、実際にはずっと偏差値の高い学生もいるし、逆に低い学生もいる。高い偏差値の大学を不合格になって入学する学生がいる一方、偏差値の低い高校のほうが実は有利な仕組みになっている推薦入試で入ってくる学生は、偏差値が大学の数値よりはずっと低い学生がいる。では、実際に大学教育が始まって、その偏差値格差は、そのまま大学での成績となって表れ、卒業時にも、そのまま対応するような結果になるのかといえば、そんなことはない。あくまでも、高校までの勉強と、大学での専門領域における勉強とは、かなり異なっている。自分で選択したかどうか、将来の職業と直結しているかどうかに影響される。大学の勉強は、自覚的に選択した場合には、ずっと意欲的に取り組みやすい。だから、高校時代は偏差値が低くても、大学に入って伸びる学生はいくらでもいるのだ。
 そして、前回も書いたように、学生が進む道は、何も学問的な領域によって区切られるわけではなく、それぞれの目指す方向によって、学びたい科目は、多岐にわたるのが通常である。それを学問の領域を学ばせたい学部や学科、そしてその教員たちの都合で、学生の履修を縛るのは、学生の意欲を削ぐだけだ。
 そういう意味で、講義の受講は、全国どの大学でもよい、というシステムを作ることができたら、学生の意欲はずっと満たされることになるし、しっかりと勉強するようになるのではないだろうか。
 もちろん、それぞれの講義が、受講するために必要な条件を定めることは必要だろうし、その受講するには、受講料を払うのが当然でもある。
 
(5)では、教師の側ではどうなのか。
 大学の教師にどのような問題があるのだろうか。すべてを網羅するわけにはいかないが、考えられる点を整理してみよう。(私は文系なので、理系の詳細は理解していないので、ここでは文系を念頭においている)
 第一に、大学のポストには、当然定まった量的制限がある。文科省が定める、領域による必要定数、大学の経営上の制約、資格付与のために必要な科目や人員など、多様な事情で教師の定員は決まっている。しかし、大学の授業は、そのポストにある教師だけで成立しているわけではなく、かなり大量の非常勤講師によって補充されていることは、前回も書いた。そして、常勤のポストをえることは、かなり運もあって、実力だけで獲得することは難しいのである。近年は、公募によって、かなり公平な選抜が行われるようになっているが、ポストの募集がないことには、就くことができない。
 第二に、大学の学部や学科の構成は、一般の人たちが考えいるよりも、おそらく非常に流動的である。私が雇用されたときの担当講義(演習・実習科目は除いて)は、2つであった。しかし、35年間勤めて退職するまでに、11種類の講義を担当した。もちろん、途中で廃止されたり、担当者が代わったり、追加されたりで、11になったわけだが、これは、学科編成が変わったことが大きな要因になっている。これは、必ずしも担当するに相応しくない科目を、無理にやっているという側面がある。もちろん、勉強になるので、私としては嫌ではなかったが、受講生にとっては、もっと相応しい人に教わりたかったということもあったろう。しかし、大学には、予算規模があるから、非常勤講師の数にも制限がある。だから、必ずしも、適切な教員が配置されているとは限らないのである。これは、教員の過重負担にもなっている。
 第一の問題を考えてみよう。
 現在の教授採用システムは維持するとして、私が考えるのは、一定の資格を取得すれば、講義を設定でき、その受講料を得ることができるシステムを、新たに創造できないかということだ。
 ドイツの学生の自由な移動は、別の側面として、教授の自由でもあった。教える側が資格をとれば、大学で授業を設定することができた。私講師(Privatdozent)という制度だ。Dissertationという論文に合格すれば、それが可能になった。聴講する学生の授業料だけが収入となる。昔は、ほとんどすべての教授が、最初は私講師から始まったはずである。カントやヘーゲルも最初は、私講師だったのである。今もそのシステムが機能しているようで、実際に私講師が存在している。 
 かつて日本の博士号は、求める水準が高すぎて、留学生が来ないなどといわれていたが、これは、ドイツのDissertationを参考にしたからだといわれている。こうした資格をどのように設定するかは、かなり難しい課題であるが、そうした資格を獲得したら、自由に自分の意志で講義を設定することができれば、非常勤講師という雇われなければ教えることができない状況を、一歩進めることができる。各大学に、そうした私講師をおくシステムを作るか、あるいは、そういう私講師を集約するバーチャルな機構を作るか、あるいはその両方でもよい。こうすれば、意欲的で実力のある、しかし、それまでポストを得られない人が、講義を開くことができるようになる。オンライン講義であれば、教室など不要である。
 こうしたシステムを構築しておけば、第二の問題は、自然に解消されるような気がする。流動化する学科編成に対応するのに、必ずしも、常勤のスタッフだけで対応する必要はなく、しかも、膨大な人材がバーチャル機構に存在しているのだから、大学側が作成するモデル抗議案だけではなく、学生が様々なバーチャル機構で補充することもできるわけだ。
 
(6)社会人の学ぶ機会
 さて、そのようなやり方で、少ない学生のパイを奪い合うことは、大学としての生き残りにとって、マイナスではないかという考えもあるだろう。それは、逆に、欧米の大学に対して、日本の大学の非常に大きな欠点を考えると、解決方向が逆に見えてくる。その欠点とは、日本の大学には、社会人の学生が極めて少ないことである。実は、アメリカも大学の大衆化に際して、大学が増えたのに、18歳人口がそれに応じて増えるわけではないから、冬の時代になったが、それを克服したのが、社会人学生の受け入れが、大きかったと言われている。社会人学生が少ないことは、少子化に対応できないことと、教育水準への刺激が少ないことがマイナスである。私の学部には社会人入学試験があったが、滅多に応募なく、非常に残念だったが、たまたま社会人が入学して、講義をとってくれると、まったく雰囲気が変わったものだ。最後の数年間は、シルバー枠ができて、私の講義もその対象になり、毎年10名くらいの高齢者が受講してくれたが、これは本当に授業をやりやすくしてくれた。学生と違って、臆することなく発言してくれるので、内容が豊かになるのだ。
 日本の大学の活性化には、社会人学生が必須であると、私は思う。しかし、高齢者は、高額な授業料を払って入学することもできないだろうし、また、現役で働いている人は、聴講すら難しい。しかし、オンライン講座でとりたい講義をとれるということになれば、時間的制約もかなりなくなるから、とりやすくなる。子育て中の人たちでも、部分的には、リアルタイムの授業を履修できるだろう。インターネットの時間と空間の制約を撤廃するという本質的機能を活用すれば、これまで、日本の大学に最も欠けていた社会人学生を獲得できるのである。社会人も、学びたい分野をもっている人は、たくさんいるはずである。
 こうして社会人学生が対象になれば、オンライン教育の拡大によって、大きな学ぶ存在を掘り起こすことができるのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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