日本型学校教育の検討3 デジタル教科書

 GIGA構想がいよいよ前倒しになって実施されるようで、既に学校に一人一台のタブレット、あるいはパソコンが導入されつつある。入札で決定した業者が、実は必要な台数のマシンを調達できないということで、辞退するなどという混乱すら起こっているので、本当に年度末までに99%以上の学校に、そうした状態が実現するのかは、まだわからないが、行政が本気であることは確かだ。もちろん、いろいろ基本的なところでの疑問はたくさんある。小学校一年生はまだ文字を習っていないし、日本語を入力するには、ローマ字を習熟しなければ難しいのだから、5,6年生と同じマシンが適当なのかとか、1年生で配布するものを、6年生まで使用するということになっているようだが、4年も経てばかなり古くなってしまうパソコン事情のなかで、それが適切なのか、とかいろいろと思い浮かぶが、ここでは、とりあえず、ICT教育の、ひとつの要となるデジタル教科書をめぐることについて考察する。中教審への案提示の文書は、以下のように書いている
 
「4 デジタル教科書・教材の普及促進
ICTを活用した取組の促進を踏まえ,学習者用デジタル教科書・教材についても,普及促進を図る。また,学習者用デジタル教科書の今後の在り方等について,その効果・影響等について検証しつつ,使用の基準や教材との連携の在り方も含め,学びの充実の観点から検討を行うことが必要である。」
 
 ところで、現在の文科省のデジタル教科書の認識は以下のような図で示されている。(文科省のホームページより)
 文科省も研究はしているだろうが、現時点で、このような図を出しているくらいだから、その基本姿勢はわかる。紙の教科書をそのままでデシタル化しても、ほとんどメリットはない。もし、すべての教科書をそのままでデジタル化して、タブレットだけもってくれば、紙の教科書は家においておける、あるいは、印刷して配布する必要がない。そういうメリットはある。しかし、それは学習上のメリットではない。デジタル教科書を、本当にデジタルであることのメリットを活かそうとしたら、当然紙バージョンとは、様々な点で異なるように設計する必要がある。
 実際に、学校で既にタブレットやパソコンを子どもたちに配布して、授業で利用している場合、まずは「調べ学習」に使うだろう。自分で調べることが、これまでのような「資料集」や「地図帳」などで調べるのとは、次元の違う領域にはいっていくことになる。それは直ぐに子どもでも理解できるはずである。そして、子どもがどんどんインターネットを使って、自分で調べるようになれば、教科書の記述などは、かなり貧弱で、インターネットでは、もっと詳しく知識を得ることができる。だから、極端な言い方をすれば、教科書の存在価値がかなり低下することになる。子どもたちも、それを実感するだろう。そういう、GIGA構想で学ぶなかで、教科書とは何なのか、そもそも必要なのか、あるいは、どのようなものとして有用なのかが、かなり根底的に問い直される必要がある。
 日本にも7,8校存在するサドベリバレイ校では、教科書はおろか、授業もない。学習は、すべて個々人に任されており、好きなように一日を過ごす。ただし、学びたいときには、十分に保障される体制がある。スタッフや先輩に授業をしてもらってもいいし、図書館もある。そして、特別な授業で特別なことを学びたければ、新たに教師を雇ってくれる。決まったカリキュラムは一切存在しない。そうしたサドベリバレイ校からは、かなりの人材が育っているようだ。もちろん、通常の学校を、そのようなシステムにすることは無理だろうが、一人一台のパソコンというスタイルの学習は、これまでの教科書を使った一斉授業からは、根本的に形態が異なるものになることは、誰にもわかることだ。
 端的にいえば、私はこれまでのような教科書は不要になると考えている。算数・数学や理科で、基本的な事項が説明されているものは、あったほうがよいかも知れない。しかし、それは既に教科書ではない。
 以下は、私の構想という程度のものだ。
 もっとも参考になるのは、シュタイナー教育における「ノート」だ。シュタイナー学校では、無地の大きなノートが配布され、授業などで学んだことをそこに書いていく、また、資料などを貼っていく。そうして、学んだことの集成が、ノートに記録される。いわば、自作の教科書のようなものができあがるわけだ。一人一台のパソコンを使うことが前提になる教育では、そうした「ノート」が、各人のクラウド上の領域、グーグルのドライブやマイクロフソトのワンドライブになる。そこに、自分が必要だと思った資料(自作ノートやネット上から得たドキュメント類等々)を整理していれ、筆記したものもいれる。もちろん、必要に応じて、それは共有するし、教師は参照でき、評価も行う。自分で書くものは、パソコンで書いてもいいし、また、ノートに筆記してカメラで写してアップしてもよい。
 音声も入るから、通常の授業のように教師が説明してくれるものは、録音しておくことも可能で、わからないところを聞き直すことができる。宿題も教師にファイルを送信すればいいので、提出を忘れることもない。
 ファイルの共有とか、共同作業は、学級や学校内に限定する必要もなく、可能ならば、外国の子どもたちとの共同学習も可能になる。
 さて、こういう学習は、おそらく、これまでの形態よりは、ずっと効率的だし、身になるものになるのではないだろうか。そして、このような学習スタイルに、検定教科書などはいかにも古くさい、むしろ学習の阻害要因になるのではないかと思うのだ。
 政府文科省が、本当にGIGA構想で実現しようと思う、新しい自由な学習を保障しようと思ったら、古い要素は、ひとまず捨てることが重要だ。そのなかで最も捨てる必要があるのが、教科書である。まして、紙をそのままデジタル化したような教科書は、子どもたちの学習を、枠にはめるものでしかない。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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