カラヤンのドキュメントである「第二の人生」を見た。3回目くらいだ。この手の映像は、一度見ればいいのだが、この「第二の人生」とか、クライバーのドキュメントなどは、繰り返し見る価値がある。
「第二の人生」は、肉体が衰えたカラヤンが、新しい肉体を得て、すべてのレパートリーを最新のテクノロジーを用いて、再録音したいと語っていたという言葉からきている。実際に、最晩年のカラヤンは、ドイツグラモフォンとの契約を破棄して、ソニーに乗り換え、新しい録音計画を進めていくつもりだったという。ティルモンディアル社とソニーの共同作業は進行していたが、もっと本格化させるつもりだったのだろう。
ただ、この映像は、そうしたことよりも、カラヤンの録音に携わったプロデューサーやエンジニアがかなりたくさん登場して、カラヤンの録音に関して語っていることが興味深い。オーケストラの録音には、実にいろいろな課題や難問がある。オーケストラの演奏会にたくさん出かけた人は、よく知っていると思うが、同じオーケストラの演奏でも、座席の位置によって、かなり音が違って聞こえるものだ。舞台上と客席でも違うし、また、舞台上でも、位置によって全く聞こえ方が違うのだ。私は、アマチュアのオーケストラでチェロを退いているが、同じチェロの位置でも、一番前と後ろでは、オーケストラの聞こえ方が相当違うのである。従って、指揮者が聴いている音と、トランペット奏者が聴いている音などは、同じ舞台上の音なのかと疑いたくなるほど違っているはずである。
そういうオーケストラの音を、どのような音として録音するのか、これが、まずは第一の問題だ。「第二の人生」では、実際に会場で聞こえる音は、実際に鳴っている音よりもかなり少なく、聞こえない音もたくさんあるという認識がある。だから、聞こえない音も聞こえるようにする「録音」のすごさを、多くの人が語っていた。つまり、聞こえない音も含めて、あくまで録音としての創造をするのだということだろう。
カラヤンが主に録音していたふたつの会社のプロデューサーが登場する。ドイツグラモフォンのハンス・ウェーバーとEMIのピーター・オルウードである。このふたつの会社は、まったく異なる録音方法をとっていたという。ドイツグラモフォンは、各楽器の前に単一指向マイクをおいて、直接的な音を録音し、それを調整によって、奥行きのある音にする。それに対して、EMIはできるだけ少ないマイクで、会場で聞こえる音に近い雰囲気を捉えるという方式だったという。それを解説していたオルウードは、カラヤンは両方を気に入っていたのだろうと語っていた。そして、ふたりのプロデューサーは、かなり異なるカラヤン評を話していたのが、興味深い。二人とも、ミキシングムールにいるカラヤンが、非常にくつろいだ感じで、家族的な雰囲気で仕事をしていたと語っているが、ウェーバーは、カラヤンがかなり細かく、ミキシングをいじるのを、苦々しく思っていたようで、カラヤンが自分で訂正した音のバランスを、カラヤンが去ったあと、苦労して、わからない程度に元に戻していたと語っている。苦笑まじりに。ウェーバーはかなり商品としてのレコードに、厳格な品質を求めていたようで、おそらく、カラヤンと対立することもあったのだろう。カラヤンは担当を変えている。カラヤンは、若いころは、かなり編集をこまかくして、完璧な演奏にしてから商品化していたが、次第にそういうやり方に違和感を感じるようになり、多少の演奏上の傷を大目にみて、流れがよければオーケーということが多くなったという。これは、いろいろなところでカラヤン自身が語っていることだ。オルウードは、おそらくそういう風に変化したあと、カラヤンと作業するようになったのかも知れない。この編集が第二の問題だ。
演奏を録音して、それをそのまま完成品にするなどということは、私たちのアマチュアオケでもない。若干の編集をしてCDを作成する。アマチュアの場合、本番で失敗する危険は高いし、完全に音を外してしまうこともある。いくら非売品とはいえ、記録に残るものを、失敗そのまま残すわけにはいかないわけだ。だから、ゲネプロも録音して、編集する。
プロオケの商品の場合には、それは当然として、もっと細かい調整が行われる。このドキュメントの最初と終りが、その調整をめぐるカラヤンとプロデューサーの電話のやりとりなのだ。オーボエの音を消さないように、音の調整をしてくれというカラヤンの要望が聞こえる。これは、別におかしなことでもなんでもなく、録音はあくまでもマイクが拾った音なのだから、演奏者とマイクの関係で、実際には、オーボエのほうが大きな音で吹いているのに、オーボエが小さく、フルートが大きく録音されて聞こえるということは、いくらでもあるわけだ。もちろん、演奏中にその調整は録音技師がリアルタイムで行っているのだが、指揮者がそれに不満をもつことがある。だから、そういう調整の必要性は、いくらでも生じうる。どこまで拘るかということに関わるのだが。
フルトヴェングラー世代とカラヤン世代の大きな環境変化が、演奏スタイルも変えたことは、大方の認めるところだ。ベルリンフィルのメンバーが言っているが、フルトヴェングラー世代では、演奏のミスやテンポの予期せぬ変化・緩みなどがあっても、気づかれないことが多かったし、また、その場限りだから、気にされることもほとんどなかった。しかし、カラヤンの時代になり、録音することが通常になってくると、繰り返し同じ演奏が聴かれるわけだから、ミスを繰り返し聞かせるわけにはいかない。そこで、カラヤンの徹底した完璧主義が高い評価を勝ち得たというわけだ。そういう意味で、カラヤンは、技術革新が生んだ指揮者でもあったし、技術系に強かったカラヤンは、そうした時代の変化にもっともよく対応したわである。(カラヤンは、一時音楽院と一緒に、工科大学にも通っていた)しかし、オーケストラ団員の技術が飛躍的に高まったことによって、ライブでも完璧に近い演奏ができるようになり、編集した製品よりも、多少のミスはあっても流れを重視するように、カラヤン自身も変化していった。最近になっても、カラヤンのライブ録音が新譜として登場するが、まだまだ出てほしいものがある。この「第二の人生」のなかに、マーラーの5番のライブ映像が何度も出てくるのだが、これは、全曲の録画があることの証拠だ。カラヤンはマーラーの5番(長年マーラーを演奏しなかったカラヤンが、1970年代になって初めてマーラーを取り上げた)を演奏するに際して、2,3年かけてリハーサルをしたことは、よく知られている。1970年に来日して、ベートーヴェンの全曲演奏をしたのだが、その当日リハーサルでは、マーラーの5番の練習をしたということだ。そして、ベルリンでの5番の演奏会のあと、カラヤンをホテルまで送ったという人が、彼が涙を流していたという回顧談をしていた。この映像が市販されたら、大きな話題になるに違いない。