文科省ガオンライン授業多い大学を公表?

 文科省が、オンライン授業の割合が50%以上の大学の名前を公表するという方針だそうだ。ずいぶんとおせっかいなことだ。そもそもコロナ禍で、オンライン授業を勧めたのは、文科省ではないか。それを今度は、体面授業を重視しろというのは、なんともはや、いいかげんな行政だ。オンライン授業と体面授業と明確に区別しない、つまり、両方やっている授業だってけっこうあるのだ。少人数の演習などは、オンラインでもまったく問題なく機能するだろう。通常の体面授業を、カメラをおいてオンラインで流し、大学に来られない学生は、どこかでそのオンライン授業を聴講するという方法もある。就職活動などをしている学生にとっては、ありがたい方法だ。ある大学の教員に聞いたところ、どちらも可としたら、オンラインを希望した学生が圧倒的に多かったというのだ。また、学生にしても、4年生になって、あまり授業をとっていないのなら、定期券を買わずに済む。バイトやりながら、授業のときだけ抜け出すという手段もある。欠席するよりは、ずっといいわけだ。そして、無駄を省くことができる。つまり、オンライン授業は、学生が求めている側面もあるのだ。もちろん、対面授業を求める学生もいる。選択肢が増えることがいいのだ。

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教育学を考える20 主体性・主体的の考察

 最近、ある場で「主体的・主体性」の教育における意味に関する議論をした。少し整理してみたいので、ここで考察することにした。
 「主体的・対話的」な教育が必要であると、近年文科省などが強調している。戦後の文科省の歩みをずっとみている人間にとっては、文科省がいうことには、とりあえずフィルターをかけて、注意しなければならないという意識がある。特に、21世紀にはいって、「ゆとり教育」をやめ、学力推進的な方向をとったあとは、実際に、主張していることと、その結果にかなりの矛盾、ちぐはぐさが生じている。「いじめ防止対策推進法」が制定されてから、逆に、いじめによる自殺などが多数起きている。学力推進策に転換したにもかかわらず、必ずしも、PISAなどでも以前の好成績をキープしているわけではない。文部省が文部科学省になって、大学政策を熱心にやりだしたが、日本の大学の国際ランクはさがり続けている。
 つまり、実際には、「いいことをいっているような感じだが、その結果は逆だ」というような事態が少なくないのである。そういうなかで、文科省が推進しようとしている「主体的・対話的」授業に対する疑問が生じるのも、当然というべきだろう。そういうときに、こうしたあいまいな概念は、教育学として不要であるという意見が提示されて、議論になったわけである。

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パリのテロ事件再考2 仮想授業を構成してみた

 さて、ここから授業の続きになるが、何故、こんなことに拘るのかを説明しておきたい。私は教育学者なので、どうしても今回の事件に関しては、原因となったパティ教師の行った授業が気になるだけではなく、はっきり言うと問題が多いものだったのではないかと考えている。もっと、教育学的に適切な授業をしていれば、殺害の対象となるような悲劇は起きなかった可能性が大きいと思うのである。だから、どういう授業であればよかったのかを考える必要があるわけだ。
 パティ教師の授業の問題は、再度整理すると、「表現の自由」を教えるために、風刺画を掲載することを認めることが、表現の自由の具体化なのだ、という立場を一方的に説明したと思われる点にある。しかも、その際に、不快な思いをする可能性があるからという理由で、イスラム教徒の生徒を教室から退出させた。これは、どのような問題を感じるか。

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パリのテロ事件再考 表現の自由の扱い方1

 フランスの歴史の教師パティ氏の葬儀が国葬として行われ、マクロン大統領が弔辞を読むという異例の事態となった。それだけ、フランスとして「表現の自由」を重んじているということだろうか。マクロン大統領によれば、「風刺の自由」となるそうだが。この問題については、既に一度書いたが、もう少し補充した形で論じたい。(パリのテロ事件 原因となった授業を考える http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=1885 2020.10.18)
 報道によれば、パティ教師は、非常に優しい人で、生徒の意見等をよく聞く人だったという。殺害された人を悪くいうことは、あまりないわけだが、しかし、一部のイスラム教徒たちは、SNSで非難し、報復行動を呼びかけていた。そして、犯人が教師の顔を知らないために、その学校の生徒に確認するように協力を求めたところ、二人の生徒がそれに応じ、2時間ほども一緒にパティ氏が校舎から出てくるのを待って、そして、あの人だと教えたという。当然、既に騒ぎになっていたわけだから、その生徒は、犯人がテロ行為に近いことを行うことを知って、協力したと考えるべきだろう。とするならば、やはり、誰の意見もよく聞いたというわけでもなさそうだ。事実、問題となった授業を行ったときには、イスラム教徒の生徒を教室から退出させたという。もっとも、イスラム教徒というだけの理由で、かつ全員を退出させたかどうかは、報道ではわからない。

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教育学を考える20 勝田の学力論とコンピテンシー論について

今日、初めて教科研の「教育学部会」という研究会に出席した。これまでは、当然特定の場所に集まって行っていたが、コロナ対応で、オンライン開催になった。そこで私も、参加する気持ちになったわけである。題は、「教科研は学力をどう論じてきたか」というもので、本田伊克氏が報告した。当然、勝田論から入って、神代氏の議論等が検討され、坂元、佐貫氏の議論、そしてコンピテンシー論が議論された。私自身、教科研の研究会に参加するのは、初めてであるし、『教育』の熱心な読者ではあるが、内部的議論には通じていないので、議論には参加せず、聞き役に徹した。多少、私の問題意識と交わるところが少なかったからもある。そこで、勝田論やコンピテンシー論について、考えたていることを書いてみることにする。
 教育は、当然の前提として、教えるべき価値をもっている。そして、その中心は「学力」である。日本では、学校教育の目的の中心に「学力をつけること」をおいており、入学試験では学力試験が柱となっている。だから、学力とは何かという議論や、学力が身についているのかという「低学力論争」が行われるのが常であった。1960年代から70年代にかけて、中心的な学力を提出していたのが勝田守一であり、現代では、中心をコンピテンシー論が占めている。 

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『教育』2020.10号を読む 山本宏樹「インターネットを生きる子どもたち-その保護と教育」

 山本宏樹氏の「インターネットを生きる子たち-その保護と教育」を取り上げたい。
 一読して、正直なところ、憂鬱な気分になった。ここに書かれていることは、間違っていない。子どものネット利用に関して、様々な数値が書かれているが、そういう調査があるのだろう。ネット利用の光と影についても、例が出されている。これも、そういう事実があるのだろう。そして、終りのほうに、優れた実践が書かれている。
 では、何故憂鬱な気分になるのか。
 間違ってはいない「事実」が書かれ、優れた実践が紹介されているからといって、適切な方向性が示されるわけではないという、極めて典型的な文章だからである。私の知人は、こうした文章は、ICT活用に対するラッダイト運動だと評している。私は、そこまで言う気持ちはないが、しかし、いいたくなる気持ちはわかる。 “『教育』2020.10号を読む 山本宏樹「インターネットを生きる子どもたち-その保護と教育」” の続きを読む

部活動指導員は部活問題を解決するか

 文科省が、部活動について新たな方針を提示して、話題になっている。部活動の在り方が、現在の学校教育の大きな問題であることは、多くの人によって論じられている。しかし、議論の方向性や基本的立場は、相当な違いがある。しかも、根本的な相違を含んでいる。部活動を学校教育のなかに位置づける人と、学校教育から外すべきであるという人の違いは、まったく異なった考え方である。指導者については、外部指導をどうするかという点があった。
 とりあえず、最近の動きを見ておこう。従来、部活は、学校教育の構成要素ではないが、構成要素であるかのように運用されてきた。最近まで、部活の顧問を引き受けるのは、教師の義務であるかのように扱われていたが、現在では、正規の学校教育の構成要素ではないことが確認されており、顧問の引き受けは、教師にとって義務ではないことが、文科省によっても明らかにされている。これについても賛否両論あるが、この確認によって、校長が、顧問を確保することが困難になっていることと、そもそも、顧問としての活動が、教師のブラック的過重労働の大きな要因となっていること、そして、教師の顧問は、必ずしも部活内容の指導能力を備えているわけではないこと等の理由から、外部指導員という制度が導入された。 “部活動指導員は部活問題を解決するか” の続きを読む

部活動指導者は、部活問題を解決するか

 文科省が、部活動について新たな方針を提示して、話題になっている。部活動の在り方が、現在の学校教育の大きな問題であることは、多くの人によって論じられている。しかし、議論の方向性や基本的立場は、相当な違いがある。しかも、根本的な相違を含んでいる。部活動を学校教育のなかに位置づける人と、学校教育から外すべきであるという人の違いは、まったく異なった考え方である。指導者については、外部指導をどうするかという点があった。

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コロナ後の大学の在り方を想像する3

(昨日の続きで、今回は残った課題を個別に考察する)
(7)現在の大学で、単位制限の問題が、かなり学生たちを苦しめている。文科省の指導などで、学部として、学期ごとの最大単位申請数の制限を設けるようになっているのだ。文科省が、こんなことを指導するのは、おかしなことだと思うが、最近の文科省は、大学の自治を無視するようなことを平気でやっている。
 特に最近の学生は資格を多くとりたがる。社会全体が資格社会になっているのに対応しているのだ。ところが、多くの資格は、正規の学部や学科の科目とは別の科目が要求されることが多い。もちろん、資格取得が認められるには、土台となる分野があるから、学科の科目と共通する部分もあるが、それだけでは足りないのが普通だ。従って、資格をとろうとすると、余分の授業をとらなければならない。それで、履修数が多くなる。資格のための特別費用を徴収する場合もあるが、それは事務的な経費にかかるもので、余分な授業などは含まない。従って、資格用に、授業を設定すれば、それは大学にとっての負担になる。大学にとっての負担というのは、その資格をとる学生にとっては利点だが、とらない学生にとっては、自分に関係ない余計な負担をすることになる。これはやはり不合理だ。

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コロナ後の大学の在り方を想像する2

(4)教員も学生も、ひとつの大学、学部に縛りつける必要はなくなると書いた。この縛りから幾分解放してくれる単位互換システムには、これまでみっつの制約があった。
 第一は、地理的制約である。東京にある大学と名古屋の大学が単位互換制度を実施しても、実質的には授業をとることはできない。だから、かならず近場の大学同士が組むことになる。
 第二は、大学の水準である。偏差値40の大学が早稲田や慶応と単位互換をしたいといっても、絶対に断られるだろう。今の大学には、明確な「偏差値格差」があるから、偏差値がだいたい同水準の大学間でしか、単位互換は難しい。

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