教育学を考える22 単語と概念

 大分前に、私はパソコン通信の電子会議室で活動していたことがある。そこは、思想(つまりあらゆること)を扱う論争の場で、ずいぶん論争したものだ。インターネットに転換して、パソコン通信は消滅してしまったために、その会議室もなくなってしまった。その結果として、論争からは遠ざかることになった。本来、思考は論争で鍛えられるのだから、物足りない思いがしていたが、最近、複数の場で「論争」することができるようになった。そのなかで、文科省のだして来る概念、あるいはスローガンのようなものの評価が、人によってかなり相違があることがわかってきた。同じ言葉を使っても、人によって意味が違っていたり、あるいは、同じことを考えていても、違う言葉を使ったりする。そういうことの共通点と相違点をきちんと、相互に認識することはなかなか難しい。
 
 まだ日教組が強く、民間教育研究運動が盛んな時代には、運動側と文部省側は、異なる言葉、対立的な概念を使っていた。例えば、「国民の教育権」に対して「国家の教育権」、学習指導要領の法的拘束力があるvsない、高校の多様化vs総合制、特設道徳vs教育全体での道徳教育、等々、まだまだあるだろう。しかし、いまではこうした単純な対立関係ではなく、もっと入り組んでいる。

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『教育』2020.12号を読む 児美川氏の教師のハイブリッド教育評価

 児美川孝一郎「公教育のハイブリッド仕様へ?--自己責任化する学びと教師の働きがい」は、「コロナ禍の今、教員の働き方を問う」という特集の最後に置かれた、いわば教科研的立場の整理という風に読むことができる。おそらく児美川氏は教科研のなかで、最も重要な論客の一人であり、若い世代の教師や研究者に対するリーダーとして活躍している。「教育を読むfacebook」で、1月に重要な講演を行うことが予告されている。そのこともあるので、私としては、この児美川氏の文章については、厳しい見解を表明しておきたいと思う。最近の『教育』を読んでいて、教科研内部には、あまり議論が行われていないように感じる。常任委員会等ではあるのかも知れないが、少なくとも、『教育』の論文では、何か同一方向をみんなが向いている感じがするのである。しかし、本当にそれでいいのだろうか。少なくとも研究者の間では、もっと闊達な議論が行われないと、難しい今後の動向に対する適切な評価と展望は出てこないのではないだろうか。そう考えて、児美川論文には、率直な批判を書かせていただくことにする。期待するからである。
 
 基本的に、彼の見解は肯定できない。後述する児美川氏の論は、普段からICTの活用に消極的であったことが、反映していると考えるからである。しかし、教育学の研究にとって、ICTを最大限活用することは、不可欠のことである。もちろん、活用の仕方は人それぞれだろうが、もし、児美川氏が勤務校における教育活動で、大いに活用してきたのなら、おそらくこの論文で書かれているような立論にはならないと、私は思う。

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朝鮮大学校学生への緊急給付金を支給すべきか

 新型コロナウィルスの影響で困窮する学生向けに政府が創設した「学生支援緊急給付金」の対象から、朝鮮大学校が外れていることに対して、大学教職員709名の署名を集めて、同志社大学の板垣竜太郎教授が、文科省担当者に要望書を手渡したという記事があった。給付は20万円だが、京都新聞によると、「国公私立大や短期大、専門学校のほか日本語教育機関や外国大学の日本校も対象としているが、各種学校の朝鮮大学校に関しては認められていない。」https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/429136
 朝鮮大学校の卒業生は、日本の多くの大学院への進学を認められており、高等教育機関として認知されている。なのに、除外するのは、差別であり、政治的理由だとするものだ。板垣教授は、治安管理的な思考や外交的思考で考えるのではなく、人道的な見地、歴史的な実態と実績に則した見地から対象に含めるべきだとする。
 
 非常に難しい問題だと思う。結論的には、私は給付金の除外は適切だと考えている。その理由を説明しよう。

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ブラック職場を教師が提訴

 公立小学校の教師が、教師に超過勤務手当てが支給されないのは、違法であるとして、県に残業代を払うことを求めた訴訟を起こしたと、読売新聞が報道している。記事を引用しておこう。
 
「教育現場は『ブラック職場』。このままだと、若い人たちが倒れてしまう」
 1981年に教員となり、昨年4月からは再任用で埼玉県内の公立小学校で働く男性(61)は、そう語った。
 若手教員の頃は、自身のペースで働くことができた。だが、子どもたちの安心・安全や健康について、学校への社会からの期待が高まるにつれて、勉強を教える以外の仕事が増えてきた。朝のあいさつ運動、歯磨き指導、下校指導――。全て、働き始めた頃にはなかった仕事だ。
 男性は「学校や教育委員会から指示や命令を受けた形ではないが、様々な業務は事実上、命じられている。やらなければならない仕事が多すぎる」と訴える。提訴前の2017年9月~18年7月の残業時間は、少ない時で月41時間5分、多い時で月78時間40分に上った。
 公立校の教員の給与について定める法律では、教員に支給されるのは基本給の4%の「教職調整額」で、民間企業のように残業時間に応じた残業代は支払われない。男性は18年、教員に残業代が支払われないのは違法として、県に残業代約242万円の支払いを求めて提訴した。
 提訴に踏み切るのは、大きな決断だったが「訴訟を通して、教員の働き方が変わるきっかけになれば」と願っている。
 
 実は、こうした訴訟はこれまでもいくつか起きている。埼玉の教師が起こした裁判は、現在でも進行中である。(2018.12.5の産経新聞が、埼玉の小学校男性教師が提訴したことを報じている。) 

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優生思想を考える

 
 『教育』が「優生思想をこえる」という特集を組んだために、優生思想について改めて考えることになった。各論文については、個別に考察するが、優生思想を基本的にどう考えるかということを整理してみたいと考えた。
 『教育』12月号(2020年)の5ページに優生思想の定義が書かれている。
 「人間の存在と人格の全体性に対して、役に立つ、生産性の有無というごく限られた部分のみをもって価値を計ろうとするものであり、歴史的に侵されてきた負の遺産を引きずり、かつ現代社会が再生産しつつある思想である」
となっている。
 ところで、「優生思想」という言葉は、国語辞典や百科事典にはほとんど見出しにない。あるのは「優生学」である。だから、優生思想とは、優生学の立場を正しいと認め、それを社会的政策として進めようとする思想ということになるだろうか。『教育』の定義とは、異なることになる。『教育』の定義は、近年の保守的政治家や、やまゆり園事件を起こした植松聖の表明した考えかたをまとめたものというほうが適切だろう。

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ハーバード大学のアファマーティブ・アクションは合法とい判決

 アジア系の住民が起こしていたハーバード大学に対する、アファーマティブ・アクションをやめよという提訴に対して、連邦高裁が訴えを退け、ハーバード大学の措置は、公民権法等に違しないという判決を下した。これは、大分前から、アメリカ社会の大きな争点のひとつだったし、いまでも論争が続いている。アファーマティブ・アクションとは、公的機関が行う採用人事において、住民の民族構成の割合に沿うというものだ。私的企業などには義務付けられていないが、私立大学であるハーバード大学は、通常のアファーマティブ・アクションのように、割合を決めるというのではないが、民族構成を考慮する措置をとっているとされている。以前、NHKでハーバード大学の入試のやり方を、ドキュメントで放映していたが、日本の大学のように、点数順に並べて上から機械的に合格させるというのではなく、様々な要素を考慮して、個別に合格者を決めていくので、日本の採用試験でいえば、教員の「選考」に近いものだといえる。

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北海道の指導死事件の判決について

 11月13日に、2013年3月に起きた「指導死」によるとされた自殺に関して、保護者が提訴した裁判の判決があった。かなり考察が難しい事例であるが、避けて通れないので、じっくりと可能な資料を読んでみた。たくさんの文書がネット上にあるが、かなり事実認定が錯綜しており、何が事実だったのかがよく理解できない。そこで、地裁の判決文で確認することにした。13日にだされたのは、高裁判決だが、まだ公開されていない。基本的に地裁判決を支持した内容とされているので、事実認定は地裁判決でよいだろう。
 事件の推移をみて、まず感じるのは、私自分が当事者である部活の指導者だったと仮定しても、どうしていいか分からないという思いになっただろうことだ。簡単に事実を整理すると、Xは、中学から吹奏楽をしており、高校でも吹奏楽の盛んな高校に入学して、吹奏楽部に入った。(ところで、面白いのは、吹奏楽部とはいわず、吹奏楽局と呼んでいるのだそうだ。そういう呼び方は初めて接した。ここでは一般的に部としておきたい。)
 Xは、入部したあと、意欲的に活動していたと思われるが、2学期くらいから、様々な困難にぶつかったようだ。ひとつは、病気である。小学校5年のころから心臓に持病をもっており、練習中に倒れて救急搬送されたり、顧問に車で送ってもらったりしたことがあったという。また、年末に腎臓の疾患で入院手術をした。それ以後、自分の健康にかなりの不安をもったようだ。

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『教育』2020.12号を読む 優生思想の克服のために1

 『教育』12月号の第一特集が「優生思想をこえる」である。やまゆり園事件の判決をきっかけに、植松被告の考えである優生思想を、ナチスの思想とだけみるのではなく、現代社会に深く浸透した思想や価値観に関わる課題として引き取ろうという視点で、特集が組まれたということだ。優生思想とは、人間の存在と人格の「全体性」に対して、「役に立つ」「生産性」の有無という「部分」のみをもって価値を計ろうとする思想と定義している。以後、個別の論考に対して考察をすることにして、今回は、特集全体に対する感想と疑問を書いておきたい。
 個々の執筆者には、多少の差異があるが、だいたいにおいて、どんなに重い障害をもっていても、「生きている価値」があり、それを否定した植松の行為を批判する構造になっている。ただし、思想的吟味ということになると、全体が、被害者の立場、つまり、障害をもった弱い立場から論じているので、そこからはみ出す論点については、あまり掘り下げられていないか無視される。そこが残念である。
 まず何よりも、どんな人でも生きる価値があるとするならば、死刑判決を受けた植松については、どうなのだろうか。もし、本当にどんな人でも生きる価値があるならば、彼への死刑判決は批判されていなければならない。何ら触れていないので、おそらく、死刑判決は是認されているのだろう。しかし、死刑を是認すれば、「生きるに値しない人間は存在する」ことを認めることになる。何度もブログでも書いているように、私は死刑否定論者ではないので、極論としては、生きるに値しない人間が存在することを認める立場である。

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『教育』2020.11号を読む 菅間正道「リアルな学び/交わりとオンラインをめぐる一考察」(2)

 
 
 もう少し、「身体性・直接性」「偶発性」「根源的応答性」について、考えてみよう。
 「授業はリアルだ」という感覚から、こうした概念を考えたというから、「身体性・直接性」は、実際にひとつの場所に居て、一緒に学ぶことをいうのだろう。貴戸理恵氏の「(オンラインは)可能。ただし対面とは別のかたちで。その一方でやはり『対面には及ばない』と感じる点もある。それは『余白』と『身体性』が失われることだ」という文章を引用していることでわかるように、要するに、対面であることが、授業にとって、不可欠ではないが、極めて重要だと主張している。もちろん、教育効果として、対面であるほうがよいには違いないが、結局は、「極めて重要」だという主張が、結局、「不可欠」だというように傾いていくのである。その立論として、菅間氏は、ふたつのことを書いている。
 ひとつは、生き物であるわれわれは、べたべたの濃厚接触のなかで生まれ、死んでいく。だから、オンライン保育やオンライン介護は決して可能にならないという。しかし、オンライン保育やオンライン介護が可能でないのは、身体的「世話」という部分があるからで、そのことが、生き物であるわれわれが濃厚接触(身体性)が教育において不可欠であることにはならない。また、部分的には、オンライン保育やオンライン介護も可能である。それはオンライン診療が可能であることをみてもわかる。保育者や介護士が、対応困難になったときに、より専門的な知見をもった人に、オンラインでアドバイスを受けつつ業務を進めるようなことは、十分にありうる。

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『教育』2020.11号 菅間正道「リアルな学び/交わりとオンラインをめぐる一考察」を読む

 人はどこで、どういう風に学ぶのだろうか。このことを考えるときに、ふたつ重要な視点がある。
 第一に、人は、あらゆる場で、あらゆるときに、学んでいるということだ。多様な筋道の学びがある。学校に通っている人も、塾、通信添削、家庭教師、読書、スポーツクラブ、習い事、テレビ、ラジオ、新聞、インターネット、友人との会話、SNSやメールのやりとり(昔は手紙)等でも学んでいるだろう。
 第二に、そのことの裏返しでもあるが、学校の教室で学んでいることなどは、ごく一部に過ぎない点である。そして、教師は、その点をはっきりと自覚するだけではなく、子どもたちが学び場や方法を、できるだけ豊富にもつように指導すべきであるという点である。教え子たちは、上級の学校や社会に巣立っていく。そのときに、学校で学んだことしか修得しておらず、あるいは学校での学び方しかできないとしたらどうだろうか。あらゆることから学べる人間として送り出す必要があるはずである。
 菅間正道「リアルな学び/交わりとオンラインをめぐる一考察」は、教育に必要なことを追求しているだけではなく、余儀なくされた休校措置のなかで、可能な限りのことを実践している。菅間氏は、自由の森学園高校の教頭先生だが、自由の森学園は、私のゼミの学生で卒論で扱った者がいた。なんと卒業式にその学生は出席し、ビデオを撮ってきたので、それを見たことがある。現在の堅苦しい学校教育のなかで、創造的な教育をしている少ない学校であり、この論文にしても、そうした校風故に可能になった積極的な面を感じる。

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