優生思想を考える

 
 『教育』が「優生思想をこえる」という特集を組んだために、優生思想について改めて考えることになった。各論文については、個別に考察するが、優生思想を基本的にどう考えるかということを整理してみたいと考えた。
 『教育』12月号(2020年)の5ページに優生思想の定義が書かれている。
 「人間の存在と人格の全体性に対して、役に立つ、生産性の有無というごく限られた部分のみをもって価値を計ろうとするものであり、歴史的に侵されてきた負の遺産を引きずり、かつ現代社会が再生産しつつある思想である」
となっている。
 ところで、「優生思想」という言葉は、国語辞典や百科事典にはほとんど見出しにない。あるのは「優生学」である。だから、優生思想とは、優生学の立場を正しいと認め、それを社会的政策として進めようとする思想ということになるだろうか。『教育』の定義とは、異なることになる。『教育』の定義は、近年の保守的政治家や、やまゆり園事件を起こした植松聖の表明した考えかたをまとめたものというほうが適切だろう。

 
 まずは、「優生学」という「学問」が出現したところから始める必要がある。これは、ダーウィンの進化論と、19世紀末に発展した遺伝学を取り入れたもので、ゴルトンという人が提唱したとされている。遺伝という現象があり、優れた遺伝子をもったものが生き残るという考えかたから、優れた遺伝子をもつものを増やそうというのが、優生学である。これは、ふたつの方向性をもつことになる。ひとつは、優れた遺伝子をもつ者同士が結婚することで、優秀な遺伝子を多数残そうという運動になる。進歩的学者であると言われたハロルド・ラスキなどの運動は、この立場である。もうひとつは、劣等な遺伝子をもつ者は、子孫を残させないようにするということ。この後者は、20世紀になってかなりの先進国に広まっている。日本も例外ではなく、優生保護法という法律(戦前バージョンもあった)によって、障害者に対する強制的不妊手術を施すという政策となって、実行されてきた。こうした法律上の規定を「胎児条項」という。日本では、1990年代までこの法律が存続し、かなり大量の強制的不妊手術が実行され、現在その賠償をめぐって争われている。優生保護法は廃止されたが、胎児の診断で障害が発見されると、中絶をする人が次第に多くなっているという現実がある。
 胎児条項による強制的不妊手術などは、決して認めてはならないが、障害をもった胎児の中絶については、基本的には、親、特に母親の意志が尊重されるべきだろう。しかし、実質的に、育てることが極めて困難である社会では、意志が尊重されるといっても、実質的な選択の余地は狭められている。障害をもった子どもの育児に社会的な保障が十分に保障されていてこそ、自由な選択が可能になることを忘れてはならない。
 ただ、その原則で論点が整理しつくせるわけではない。
 中絶が親の意志に最終的には任されるとしても、胎児診断の費用を国家が負担し、障害が見つかった場合には中絶が奨励される国がある。検査や手術の費用を国家が負担することは、明示的に奨励されないとしても、実質的には奨励されているともいえる。だから、障害による中絶を認めないと強く主張する「青い芝の会」という団体もある。優生思想を今日的問題として考察するためには、この点こそが中心となる。
 胎児条項的な方向とは、逆の優生学的行為もある。既に実行されているのは、優秀な遺伝子をもつとされる人たち、例えばノーベル賞受賞者やオリンピック金メダリスト、スーパーモデル等の精子や卵子を売買することである。アメリカでは、独身の女性が、ノーベル賞受賞者の精子を購入して妊娠し、シングルマザーとして子育てをしている例が多数存在する。NHKがそうした子どもたちを追跡したドキュメントを放映したことがあるが、ほとんどの子どもが際立って優秀だということだった。ただし、あまりに特別な環境で小さいころから育てられている(天才学校など)ので、通常の人生を送りたいと、公立学校に入り直す子どもが印象的だった。また彼等のなかからノーベル賞受賞者が出たかはわからない。おそらく、ほとんどいないのではないだろうか。
 また、国家が優秀な遺伝子の男女を結婚させるのがよい、などという考えを表明して、荒れたサイトがあったと聞いている。
 こうした例は、「優生学」の実行といえるだろう。
 
 歴史的には、遺伝学的な優生学から離れ、独りよがりな「優生思想」を実行したのが、ヒトラーである。そのために、優生思想は悪魔の思想のように言われるようになり、優生思想=悪というイメージを確立した。
 ヒトラーの優生思想は、ふたつの点で、本家「優生学」とは異なる点をもっていた。
 ひとつは、ユダヤ人を劣等人種として抹殺しようとしたことだ。正確にいうと、ユダヤ人=抹殺の対象というわけではなく、ユダヤ人の地位と財産を奪い、強制労働につかせる。労働ができないユダヤ人は殺害するというものだった。だから、働ける体力を残していたユダヤ人は生き残ることができた。しかし、一般的にユダヤ人は優れた人が多かったのだから、優生思想をねじ曲げていることになる。
 もうひとつは、障害者を殺害したことだ。元々の優生思想は、障害者を殺害することは考えておらず、障害者は子孫を残すべきでない、ということで、不妊手術をしたのであって、胎児条項を決め、実行した国々も、障害者を殺したわけではなかった。
 
 では優生学・優生思想は正しいのだろうか。もちろん、科学的に間違っているのは明らかだ。優生学では、障害は遺伝するという前提で、不妊手術という手段を選択するが、障害はほとんど遺伝しない。遺伝的障害もあるかも知れないが、あったとしてもごく例外ではないだろうか。
 アメリカで、ある先天的な聾のレスビアンのカップルが、男性から精子をもらって子どもを作りたいと考えた。その際、自分たちはともに聾であることによって、幸福だったと考えていたので、聾の男性からの精子がほしいと広告をだしたのである。それに対して社会的な非難が巻き起こった。残念ながら結果がどうなったかわからないが、障害者の親が健常者であることはごく普通のことだし、障害者から障害者が生まれることも通例ではない。先天的障害でも、多くは妊娠中に起きるものだと考えられ。受精から出産までには、驚くほどの回数の細胞分裂が行われるから、その間に、分裂ミスが起きる可能性は小さくないのだ。そのミスが無視できないものだと、障害として現れる。そして、その障害があまりに大きいと、流産や死産となるのが普通だったが、現在は医療の進歩があるので、妊娠中に異常があっても、救うことができる。そのために、昔よりも、障害者が多くなっている。また、後天的な障害もたくさんある。
 また、優秀な遺伝子をもっているはずの子どもが、その遺伝子にふさわしく育つとは限らない。遺伝子をもっていても、それが実際に発現するかは、本人の努力や環境が大きく影響する。だから、親子そろって偉大な実力を発揮した例は、あまりないのである。
 
 植松の行為は、改めて優生思想のしぶとさを意識させた。しかも、単に匿名のネット利用者だけではなく、有名な「知識人」にも、ヒトラーのやったことを評価するような優生思想の持ち主はいる。
 渡部昇一は、「神聖な義務」という題の文章をかつて『週刊文春』(1980.10.2)に書いた。ドイツにいたとき、あるドイツ人の若い医師が、戦後ドイツの経済発展は、ヒトラーが障害者を安楽死させていたことが理由のひとつである、と発言した、と肯定的に紹介している。そして、障害者を生まないようにすることが、国民の「神聖な義務」だと主張したのである。胎児のチェックをして、障害があることがわかったら中絶すべきだという「強い主張」を提示したといえるだろう。当然、大きな批判が起り、「神聖な義務論争」として知られる論争が続いたのだが、渡部が考えを改めたことはないはずである。植松の行為は、こうした渡部の考えの延長上にある。(植松を考えの本質的な間違いについては、別稿で書いたので繰り返さない。)
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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