アジア系の住民が起こしていたハーバード大学に対する、アファーマティブ・アクションをやめよという提訴に対して、連邦高裁が訴えを退け、ハーバード大学の措置は、公民権法等に違しないという判決を下した。これは、大分前から、アメリカ社会の大きな争点のひとつだったし、いまでも論争が続いている。アファーマティブ・アクションとは、公的機関が行う採用人事において、住民の民族構成の割合に沿うというものだ。私的企業などには義務付けられていないが、私立大学であるハーバード大学は、通常のアファーマティブ・アクションのように、割合を決めるというのではないが、民族構成を考慮する措置をとっているとされている。以前、NHKでハーバード大学の入試のやり方を、ドキュメントで放映していたが、日本の大学のように、点数順に並べて上から機械的に合格させるというのではなく、様々な要素を考慮して、個別に合格者を決めていくので、日本の採用試験でいえば、教員の「選考」に近いものだといえる。
では、何故、アファーマティブアクションなどをするのか。支持する人の理由は、幅があるだろうが、私の理解では次のようになる。
人間の能力は、本来人種や民族によって異なるものではない。しかし、経済的、家庭的環境によって発達は影響される。平均的に、アメリカ社会における白人は裕福で教育環境に恵まれているので、能力を自然に伸ばしている。しかし、黒人などの貧しいマイノリティは、学ぶ機会を十分に保障されないままに成長するので、本来の資質を発揮することができない。だから、単純に点数などの結果で決めるのではなく、それぞれの民族構成のなかでの割合という形で採用を決めれば、環境等の要因による不平等を是正することができる。そうした是正措置をするほうが、真の平等、公正さを保障するものである。
ただし、ハーバード大学の見解は多少異なるようだ。学問の発達には、多様性が必要であり、民族的多様性も重要な要素である。ハーバードの入試では、様々なレベルでの多様性を重視している。学業成績だけではなく、アルバイトやボランティアの経験、特技、面接でのコミュニケーション力なども、重要な要素として考慮される。民族構成は、異なる文化的背景という意味での多様性のひとつであり、クォーター制という割合を決めているのではなく、あくまでも大学としての機能の活性化のための多様性確保であるという見解だ。
アファーマティブ・アクションに賛成する見解は、だいたい上記ふたつのパターンであろう。
それに対して、反対する見解も複数ある。
もっとも大きな反対意見は、大学のような専門教育・研究の場は、能力によって判断されるべきで、民族的背景などで決めるのは、社会正義や公正に反するというものである。あまり解説はいらないだろう。
アファマーティブ・アクションは、優遇される黒人などのマイノリティなどにとっても、必ずしもプラスにはならないという反対意見もある。他の要素が低くても、特に学力が低くても合格が可能になるから、低い学力で大学に入学することはできても、入学してからは、まったく平等に扱われるので、アファマーティブ・アクションの優遇措置で入学した学生は、大学の授業についていくことができなくて落第したり、結局退学する学生が多くなる。やはり、民族的優遇ではなく、学力を身につけて大学に入ることが必要なのであって、優遇措置が結局マイノリティの学生を甘やかして、スポイルしてしまう危険があるという見解である。こうした見解は、黒人のなかからもだされている。
アメリカの州立大学には、基本的には厳格な定員が存在しないから、基礎的な条件を満たせば入学が可能である。コミュニティカレッジは誰でも入学できる。だから、ここではアファマーティブ・アクションの必要性がない。問題になるのは、定員が存在する大学院と、私立大学の場合である。従って、大学院や私立大学では、白人やアジア系など、アファマーティブ・アクションだと逆に不利になる層から、不満が生じ、ときに裁判になるわけだ。私立大学では、義務ではないので、厳密なアファマーティブ・アクションは、あまり採用されていないと思われ、ハーバードのような多様性のひとつの要素として、ある程度考慮されるというものであれば、今回の判決のように、反対する人は少ないのではないだろうか。しかし、大学院のように、専門職の養成機関であれば、反対意見が出るのは自然だろう。
そうした領域でのアファーマティブ・アクションについては、ソ連が初期に行っていた労農予備校との比較が参考になるように思われる。私としては、労農予備校の方式のほうが理にかなっているように思うのである。
ロシア革命が起きて、労働者の政府ができたが、教育はすぐには変わらなかった。識字率の改善は、社会運動を組織して、比較的早期に改善されたが、大学進学には壁があった。労働者階級の子どもは、学力が救いので進学が困難だったのである。アファーマティブ・アクション的なことをするならば、労働者階級の出身者は、住民の人口割合で合格できるとするのかも知れないが、ソ連政府は、そうではなく、労農予備校を設立した。労働組合の承認をえて、まず労農予備校に入り、そこで基礎学力をつけてから、大学進学の許可をえられるようにするという方法である。つまり、実力つけるための予備校への準備が保障されるのだが、実力もないのに大学進学が可能だったわけではない。貴族層の子どもたちは、小さいころから家庭教師をつけられているわけだから、もちろん労農予備校などは必要なかった。
アメリカでも、高校の中に、かつて日本の公立高校に存在した4年生学級などを設立して、そこでSATの高得点をとれるまでトレーニングするなどという方法もあるのではないかと思うのだ。そうして入学すれば、大学の授業についていくことができなくて、中途退学するようなことにはならないだろう。
さて、日本でこのような制度は必要だろうか。
クォーター制に近いものとしては、かつての県立高校には、男女別の定員が決められていた。私の受験時期には確実に存在したが、いまではそうした男女別の定員枠はほとんど見られない。戦前の中学・高等女学校は、完全な男女別学だったから、戦後の民主主義改革のなかで、戦前男子校に、女子が入りやすいようにするための措置だったのだが、その内その必要性がなくなったということだろう。
現在、クォーター制の主張が行われているのは、国会議員や地方議会議員の女性があまりに少ないので、女性の割合に規定を設けるべきだという意見だろう。しかし、議員の男女比に一定の制限を設けるのは、比例代表制以外では不可能だ。国会議員の比例部分には可能だということになる。しかし、小選挙区制では、候補者に女性を増やしても、当選するかどうかはわからないのだから、クォーター制は機能しないのである。比例代表部分については、社会的な実験として行うことは、十分に意味があると考える。