教育学を考える23 書くこと -生活綴り方

 『教育』2月号に田中孝彦氏の「子ども理解入門Ⅰ」という文章が掲載されている。生活綴り方で子どもの理解を深めてきたという、自身の研究歴をふり返った文章である。そこでは、生活綴り方が、子ども理解の方法と捉えられていることに、多少違和感をもつ。Ⅱが5月号に出るということなので、詳しい田中論文の検討は、それまで待つとして、直接生活綴り方運動には参加したことはないが、ずっと関心をもち、また、大学の講義でも必ず扱ったことなので、ここで少し整理しておきたいと思った。
 生活綴り方は、さまざまな理解があって、生活綴り方運動を担ってきた日本作文の会でも、大きな論争がかつてあった。それは、生活綴り方が始まった理由、そして、戦後の発展と文部行政の展開のなかで、生活綴り方運動が変遷をたどってきたからである。では、どんな論点があるのか。強調点としてあげられることを整理してみよう。

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宇都宮大学二次試験(学力)中止は疑問

 1月21日に宇都宮大学が、二次の学力試験を中止することを公表した。ホームページに出ているので詳細を知ることができるが、非常に残念だ。そもそも、大学共通テスト(以前はセンター試験)と二次試験は、異なる側面からの試験を課すというだけではなく、むしろ、理念的には、二次の学力試験のほうが重要であって、一次試験は足切りのような意味があるのだと思う。もちろん、そのように扱っているわけではないとしても、共通テストの内容でよいのならば、二次試験はしなくてもいいのだ。二次試験は、受験生が少数なので、採点をしやすく、従って、記述の問題をだすのが普通だろう。数学などで、穴埋めよりは、全部書かせる試験のほうが、実力がわかることは、いうまでもない。従って、二次試験こそ本命なはずだ。面接試験などは、オンラインで行うようだ。

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共通テストのマスク受験の失格

 16日と17日に、最初の大学共通テストが実施され、大きな話題になっているのが、マスクをしているが、鼻をだしていたので注意をうけ、6回の注意にもかかわらず、従わなかったので、失格にされたというできごとだ。失格について、賛否両論起きているが、賛成が圧倒的に多く、しかも、真偽のほどはわからないが、近くにいたという受験生からのツイッターも複数ある。いずれも、非常に迷惑したということだった。
 その後、いくつかの事実が報道されていた。現在報道されていることは、その受験生は49歳であること、教室を出たあと、トイレの個室に閉じこもったために、警官が壁をよじ登ってなかに入り、逮捕したということだ。イライラしていたので、従わなかったと話し、容疑を認めているということだった。
 コロナ禍での受験だから起こりうることで、同じ教室にいた受験生は、最後の英語リスニングの試験で、去ろうとしてその受験生のために、別室に移動することになったという。かなり迷惑なことだ。
 
 断固失格措置を批判しているのは、茂木健一郎氏である。

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合格者に入学を強制できるか 東京学芸大付属高校の混乱?

 国立の高校である東京学芸大学付属高校が、他校に合格した場合にも辞退しないように、受験生に入学確約書を書かせたことが、ネットで話題となっているという。まさかと思うが、事実のようだ。もちろん、進学実績でも非常に高い、学大付属高に合格して辞退する人かいるのかという驚きもあった。それには理由があったらしい。
 Jcastニュース2021.1.18「受験生に「入学確約書」要求、学芸大附属高に「圧力」指摘 学校側は反論「あくまでもお願いです」」によると、2016年11月に男子生徒かいじめが発覚した。
 当時の産経新聞によって事実を確認すると以下のようだ。
 2015年5月から9月に、5件のいじめが発生した。体育祭の練習中に倒して、手首骨折、また、投げ飛ばして脳震盪。部活中に、被害者をはやしたてて、セミの幼虫をなめさせるというようなことがあった。9月に被害生徒の保護者から訴えで知ったが、学校側が文科省に報告したのは、翌年の3月で、11月に処分が発表されたということだ。(産経2016.11.29) 
 そして、その翌年の入試で、入学辞退者が続出し、定員割れが生じたのだそうだ。更にその翌年は、繰り上げ合格も実施したという。そして、更にその翌19年に、入学辞退をしないようにという文書を出し、入学手続の締め切りを、都立高校などの発表前にしたというのだ。それでも辞退者の歯止めがきかず、繰り上げ合格措置のために、日比谷高校が影響を受け、二次募集を実施するという、これまた異例の事態になったという。

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一年を振り返って 教育

コロナによって、多くの領域で、大きな変化がもたらされたが、教育の分野でも同様だった。あるいは、突如強制的に全国の休校が強制されたという意味では、最大の激震に見舞われたといってもよい。幸か不幸か、私は3月に退職したので、その現場にいることはできなかったが、しかし、冷静に見ることはできた。卒業して教職についている、かつての学生たちからの情報は、貴重な判断材料となった。

 休校措置が出されたときに、なんと乱暴なことをするのだろうかという憤りを感じざるをえなかった。それは、多くの国民共通の思いだったのではないだろうか。そもそも総理大臣に、学校の休校を指示する権限など存在しない。文科省にもない。教育委員会には、感染症などが発生したとき、状況に応じて休校を命じる権限があるから、新型コロナウィルスの拡大で、休校という措置はありえたが、それは、自治体レベルでの話であった。しかも、それまで安倍内閣は、新型コロナウィルスに対する極めて消極的な姿勢に終始していた。それが突然の休校措置である。しかも、翌日文科相が首相発言を修正するという事態まで発生した。何故、突然の安倍首相の姿勢の変化が生じたのかはわからない。ただ、私自身は、オリンピックの開催に危険信号がともったからだと理解している。時系列で事実を追えば、それが最も合理的な納得のいく解釈である。休校措置は、国民にショックを与えて、新型コロナウィルスに対する姿勢を正したなどと肯定する見解があるが、国民にむしろ、消極姿勢を与えていたとすれば、それは安倍内閣であり、むしろ、国民の多くはきちんとマスクをしたり、手洗いを実行していたのである。休校措置は、とにかく、感染者がまったく出ていない県も巻き込むというような、ほんとうに乱暴なものだった。しかも、準備期間が2、3日しかないというのも、何を考えているのかと怒りを感じたものだ。 “一年を振り返って 教育” の続きを読む

経産省の未来の教育イメージ2

 昨日、経産省の提言を積極的に評価できるとしたが、しかし、日本の教育体系のなかに実現するためには、大きな困難があるとした。今日は、その点を中心に論じたい。
 第一に、この提言は、教育の多様化を主張している。多様化といっても、文部省が1960年代から押し進めようとした「多様化政策」は、普通高校ではなく、就職する高校生のための職業学校を増設するものだったが、経産省の多様化は、それとは異なっている。通常の学校が、様々な教育理念や実情をもつことになる。そうすると、当然子どもたちは、その異なる学校を選択できなければならない。義務教育の通学指定制度は、各学校の教育の質が一定で揃っているという「前提条件」があるから成立している制度である。教育の質が、明らかに異なって、まったく違う教育が行われているのに、通学する学校が指定されるというのは、理屈が成り立たない。オランダの学校制度は、学校の教育は多種多様で、子どもは選択の自由がある。
 アメリカのチャーター・スクールのような方式もありうる。チャーター・スクールは、公立学校ではあるが、特別の教育内容と方法を承認(5年ごとに再審査)された学校で、通学区指定がなく、誰でも入れる選択自由な学校である。ちなみに、日本の経済特区制度での特別な教育の学校承認は、チャーター・スクールを参考にしたものだが、チャーター・スクールが公費運営であるのに対して、公費は0である。チャーター・スクール方式であれば、文科省は学習指導要領を堅持したまま、自由な学校を外枠として認める形になり、文科省としても許容範囲かも知れない。しかし、チャーター・スクールを参考にした経済特区制度で、公費助成すら認めなかったということは、このようなスタイルの教育の自由と公費教育との結合形態を、文科省は認めたくないのだろう。
 第二は格差の問題だ。こうした改革は格差をひろげるという批判がつきものだ。

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経産省の未来の教育イメージ1

 コロナ禍においてICT活用への風向きが大きく変化し、オンライン教育もすべてではないが実施されるようになり、経産省の教育改革案や文科省のGIGAスクール構想などが、賛否両論の立場から見直されるようになってきた。私自身、以前から「未来の教育」を研究テーマのひとつにしてきたので、再度経産省の「未来の教室のEdTech研究会」の提言を読み直してみた。文科省のGIGAスクール構想よりは、ずっと大胆な発想を示しており、興味深い内容になっている。しかし、実際に学校の管轄は文科省だから、実現の可能性は、少なくとも近未来的には低いとも思われる。
 
 まず、日本の教育の間違いに関する提言の認識を確認しておこう。
 提言によれば、「まず勉強、問いそのものを疑わない」という姿勢、「秩序を創るのではなく、適合させる」態度、「浅く広くの基礎で応用ができる」という考え、「学びの生産性、目的と手段の一致という視点の弱さ」があるという。何故そのような事態が起きてしまったのかという原因を無視すれば、この指摘は間違っていないといえるだろう。しかし、そうなっているには、理由がある。それを無視しては、改革は不可能なはずだ。
 「まず勉強」といって、問われていることを疑わないのは、現在の教育が、受験によって支配され、「正解主義」にならざるをえないからだ。そういう入試が行われているから、問いと正解について疑いをもつような勉強をしない。もちろん、すべての子どもたちが、そうだと決め付けるのはまちがいだが、入試のあり方、あるいは入試そのものを変革することなしに、この勉強の姿勢を変えることはできない。最後のほうで、入試を改めると提言しているが、具体策はまったく触れていないのが残念だ。

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35人学級が実現しそうだが

 教育界全体の願いといってもいいだろう、少人数学級に一歩前進したようだ。文科省の30人学級の予算要求に対して、難色を示していた財務省が、35人学級で折り合ったということだ。誤解している人も多いが、文科省は、その熱意はさておき、学級定員を減らすことについては、これまでも財務省と交渉しており、予算の関係で、大蔵省・財務省がずっとそれを拒否してきたわけだ。ずっとというのは、多少言い過ぎで、現在小学校1年生だけは、35人学級になっている。もちろん、このときも、文科省は、1年生だけでよいといっていたわけではなく、また、財務省も全学年の35人学級を認めたような報道がされたが、結局1年生だけになってしまった。しかも、決定したのが、かなり遅く、既に学級編成をしたあとだったので、学級編成を変える必要がたくさんでてきて、大変だった地域もある。 

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『教育』2021.1号を読む 久冨善之「教育実践と教育的価値」を読んで思うこと--学校選択の議論と教育社会学

 本論文は、教育科学研究会教育学部会11月例会での報告に基づくものである。当初、例会での報告表題は「教育社会学と教育実践の不幸な出会い」というものだったと記憶するが、当日になって変更になった。内容が全く変わったわけではないだろうが、多くの部分が削除されたと思われる。私自身は、本来の題目での報告を大いに期待したので、少々がっかりした。つまり、教育社会学が教育実践を扱う困難さについて、掘り下げた報告があるかと思ったのである。というのは、私自身が「教育行政学と教育社会学の不幸な出会い」とでもいうべきことを体験したことがあるからだ。『教育』の本文の検討前に、その点について予備的にまず書いておきたい。本論の検討は、すこし間をおくことになる。
 私の理解では、教育社会学は、教育学全般のなかでは、多少特異な位置を占めていると思う。教育学は、教育価値を前提にした学問だが、教育社会学は、教育価値については、少なくとも科学的方法として、相対化すると、私は理解しているからである。私自身、教育社会学の熱心な学徒ではなかったということもあったかも知れないが、ある時点まで、教育学と教育社会学との相違について、あまり意識していなかった。それを強く意識せざるをえなくなったのは、学校選択問題が生じたときである。2000年前後に東京を中心として、学校選択制度を導入する政策動向があった。そのとき、教育学者にも、賛否両論あったのだが、そのときに、面白い対照に気づいたのである。私は教育行政学の専門で、教育行政学専攻を出たのだが、私の年齢の近い元同僚たちは、多くが学校選択制度の賛成派だった。黒崎勲、三上和夫、村山士郎氏らと私である。佐貫氏のような反対派ももちろんいたのだが。それに対して、教育社会学の人たちは、私の知る限り全員反対派だった。久冨氏もその代表的な論客だった。なぜこのような対立的「傾向」が生じたのだろうか。これが、先述した「不幸な出会い」である。

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道徳教育ノート「きまりは何のために」

 久しぶりに道徳教育の文科省資料について書きたい。「きまりは何のために」という文章だ。久しぶりなので繰り返すが、私が書く文章は、この教材を使って、このような授業をすればよいということではなく、あくまでも、大人として、この教材を読んでの感想である。教師も大人なのだから、まずは、一人の大人として教材を解釈する必要があると考えるからである。(https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2011/03/29/1303863_26.pdf)
 さて、「きまりは何のために」という文章は、最初は、国会議事堂を見学する場面から始まり、そこでは、学校で起きたルール違反について反省するきっかけになる。
 明が、自分たちで決めたルールを破ったことだ。それは、放課後の校庭の使用は、下級生から始まって、上級生に移っていくというルールだが、明は、当日発売のゲームの購入に間に合うように、下級生の時間帯に遊んで、ゲームの購入に間に合った。しかし、ルールを守ったために、ゲームを変えなかった浩が抗議する。「遊ぶ権利」とか「買った者勝ち」などの話がでていたが、次の日からルールを破る人がたくさん出た。「塾にあわせて遊ぶ」「テレビの時間にあわせて」などと勝手なことをいう人がでてきた。そして、とうとう、上級生のけったサッカーボールに一年生があたってしまうという事故がおき、校庭を使えなくなってしまう。
 そして、国会議事堂の見学になるわけだ。そこで、国の大事な規則を作っているという話を聞いて、学校で起きたことを反省し、もう一度考えなおそうと決意したところで終わっている。

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