学校におけるプログラミング教育 バッキンガム氏の批判

 『メディア情報リテラシー研究』という法政大学の坂本旬氏が中心になっている研究誌に掲載された、ダヴィッド・バッキンガム「なぜ子どもはプログラミングを教わるべきではないのか?」という短い文章を読んだが、プログラミング教育が必修になった日本の情報を考える上でも、興味深い論文であった。日本で、2020年から、小学校から高等学校まで、プログラミングが必修になったわけだが、少なくとも、当分の間大きな成果があるとは思えないし、次の学習指導要領で方向転換がなされたり、あるいは修正がなされる可能性は高い。日本のICT活用を進めるために、学校でのプログラミング教育を必修にすることが、本当に適切なのかは、大いに議論する余地があると思うが、特段大きな反対もなく決まってしまったような印象だ。

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「日本型学校教育」中教審答申の批判4 外国人の教育

 今回は、第5章の「増加する外国人児童生徒等への教育の在り方について」を扱う。このようなテーマをひとつの章として扱ったことについては、これまでにない積極的な姿勢を感じる。しかし、残念ながら、この問題を扱うには、日本政府の姿勢になじまない部分があり、委員たちは苦労したに違いない。早々に矛盾した記述に出会う。
 
 「また,日本語指導が必要な外国人児童生徒等が将来への現実的な展望が持てるよう,キャリア教育や相談支援などを包括的に提供することや,子供たちのアイデンティティの確立を支え,自己肯定感を育むとともに,家族関係の形成に資するよう,これまで以上に母語,母文化の学びに対する支援に取り組むことも必要である。
 加えて,日本人の子供を含め,多様な価値観や文化的背景に触れる機会を生かし,多様性は社会を豊かにするという価値観の醸成やグローバル人材の育成など,異文化理解・多文化共生の考え方に基づく教育に更に取り組むべきである。」
 
 後段では、多文化主義を掲げ、多様性を社会のなかにとりいれることで、社会を豊かにするという発想が語られている。しかし、この答申全体の趣旨が、この表題にもかかげているように、「日本型学校教育」である。全体の制度理念を「日本型」ということを強調しつつ、多文化主義を実現することなど、どう考えても矛盾しているのではないか。中教審委員にも、多様な立場のひとがいるだろうから、ここで、多文化主義に共感するひとたちが、頑張ったのかも知れない。

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「日本型学校教育」中教審答申批判4

 社会は急速にICT化に進んでおり、コロナ禍はそれを圧倒的に促進した。少なくとも、そのように思われる。GIGAスクール構想による一人一台の情報端末の配布ということも、今年度中に実現するという計画になっている。本当に実現しているかは、現時点ではわからないが、そこにもいろいろと、疑問の余地はある。もちろん、ICT化は押しとどめることはできないし、また、押しとどめるべきでもない。大いに進展させる必要がある。しかし、そこに重要ないくつかの観点が、実は、この中教審答申には抜け落ちている。今回は、それを中心に書きたい。
 6章と7章は、基本的に同じことを扱っており、教育のICT化の実現形態を提案している。簡単に内容を整理しておこう。提起されていることを、箇条書き的に整理しておいた。
 
ア ICTを基盤的なツールとして活用
イ 新学習指導要領の趣旨を踏まえる
ウ 従来伸ばせなかった資質・能力の育成に効果
エ 休校にともなう遠隔・オンライン授業への活用

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「日本型学校教育」中教審答申批判 3

 今回は、「8人口動態を踏まえた学校運営や学校施設の在り方について」を検討する。ここでいう人口動態は、
・少子化
・高齢者人口の増大
・労働人口の減少
・人口増減の偏り
等である。
 高齢者人口の増大や労働人口の減少は、大きな社会的、政治的な課題であるが、教育的課題とは言い難い。生涯学習や、リカレント教育の課題としては、当然改善していく必要があるが、ここでの課題としては、学校教育であり、主には義務教育段階なので、考慮されてもいない。
 主に課題となっているのは、子どもの人口が少なくなっている地域での問題である。確かに深刻だと思うのは、1市町村1小学校1中学校という市町村が233団体(13.3%)あるのだそうだ。これまでの文科省のこうした状況認識から出てくるのは、ごく当たり前のように、学校の統合だったが、この答申では、他のいくつかの提言をしている。

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『検証全国学力調査』(教科研)出版記念研究会に出席して

 この本の読書ノートを書いたので、こうした研究会には出席しなければいけないと思い、参加した。Zoomを使ったオンライン研究会で、30名程度が参加していたようだ。基本的には、教科研のひとたちなので、この著書に異論を唱える議論はもちろんないのだが、ひとつ非常に重要な指摘があって、私も教えられるところが大きかった。
 それは、全国学力調査は、学力調査と同時に、学習状況調査を行っており、学校でどのような指導をしているか、あるいは、家庭でどのような学習をしているか、また、さまざまな家庭内の条件などが調査されていて、これは不可分の関係になっており、どのような指導や家庭学習をしていると、どういう問題への正答率が高いか、などという統計もだされる。これは、学校での指導や家庭での親に対するコントロールであって、その点での検討が必要であるのになされていないという、この本に対する批判的なコメントだった。確かに、そういう側面があるだろう。もっとも、点数や順位ほどに、現場の教師に、そうした指導方法、学習方法の指摘が浸透しているかどうかは、かなりあやしいとは思うが、教育委員会や校長の指導によって、少しずつ浸透することは間違いない。

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欠席者に合格通知?

 読売新聞(2021.3.12)によると、試験に欠席した受験生に合格通知が届き、出席して合格点をとっていた受験生は不合格になっていたという。そうしたミスが生じたのは、合格点をとっていた受験生が、間違った席に座ったために、その席の受験生が合格になり、合格の受験生は、自分の席に座らなかったから、欠席扱いになって不合格になったのだろう。大学としては、合否をただし、それぞれの受験生に謝罪したという。北九州市立大学文学部比較文学科でのできごとということで、大学は、「大学全体の信頼を損ねるもので、深く反省している」とした。そして、試験監督の確認が不十分で、ミスに気づかなかったということが、原因とされている。
 しかし、昨年まで大学に勤め、何度も入試監督に付き合ってきた者としては、どうも大学の謝罪の内容は、腑に落ちないのである。これだと、その教室の監督をしていた教員が、ミスをしたことになるから、何らかの処分でもされるのだろうか。処分はさておき、私自身の経験から、違う席に座っていた受験生を、本人が正しいとしているのに、監督の教員が気づくのは、なかなか難しいのではないかと思うのだ。

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『教育』2021.4号を読む 教科外担任について

 『教育』2021年4月号に、鈴木大裕「学校における免許外担任の解消を求めます!」という文章がある。鈴木氏は、土佐町の議員をしており、町議会で、上記のような要求を町長に対してぶつけたということだ。土佐町では、長年、美術の専科教員が配置されていないことを踏まえてのものだ。
 鈴木氏は、専門の美術の免許をもった教員がいないことは、子どもの学習権を保障していないのではないか、と町長に迫った。町長は、複数校兼務の担当も含めて、配置してもらうように努力するという回答を引き出した。
 一条校では、正式な免許をもった教師だけが、授業をすることができる。しかし、どうしても、正規の教師を確保できない場合もある。日本のような豊かな国と思われ、かつ教育に熱心な国では、あまり意識されないが、実は、正規の免許をもった教師を配置することができなくて、免許をもっていない教師が教えていることがある。もちろん、まったく免許をもっていない教師が教えることはできないが、異なる教科の免許をもっている場合には、特例として、一年を限度として、多少の講習を受けた上で、自分の免許とは異なる教科を教える事ができることになっている。文科省は、原則として好ましくないとして、削減に努力しているというが、文科省のホームページによれは、平成30年に、約1万人の免許外教師が存在している。少ないとは言えない。

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「日本型学校教育」中教審答申の検討2

 今回は、9章の前半を検討する。
 Society5.0時代で、教師はどうなるのか、どうあるべきなのかという内容である。巷では、シンギュラリティ時代が到来すると、教師はいらなくなるのか、というような話題が深刻に議論されている部分があるが、ここには、そういう問題意識はないようだ。あくまでも、前向きに、新しい変化に対応していくべきものとして描かれている。その前向き姿勢は、私も賛成であるが、書かれていることは、あまり現実的とはいえない。何しろ、教師になにもかも押しつけている現状こそが、学校のブラック化を招いているのに、まだまだ教師に、Society5.0時代に相応しい資質を、付加的に求めているのだ。

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読書ノート『検証全国学力調査』(教科研)

 2020年は、コロナによる全国的な休校措置のために、全国学力調査も実施されなかった。そのことが、学校教育にとっては、思わぬ(というか、当たり前にそうなった)解放感を生んだ。教科研は、改めて全国学力調査の意味を問い直しを始めた。そして、全国学力調査を悉皆調査として行うことを批判し、3年ごとの抽出調査を提言しているのが、本書である。
 学力調査は、単に文科省の実施する全国版だけではなく、県や市が行う学力調査があわせて実施されている自治体も多い。しかも、これらのテストは、日常の学習とも、また受験とも関係なく、単に、「調査」という名目で実施されているが、逆に、日々の学習活動を大きく歪めている。過去問で事前に練習したり、あるいは、学力テストのための学習を組んだり、そして、それぞれの調査で順位などがだされるので、教師への管理の手段としても活用されている。子どもたちも、テスト漬けで、おそらくストレスの要因にもなっているだろうし、競争による荒廃が進み、学力の向上に役立っていないのである。そうしたことを、実際の現場の状況を踏まえて、豊富な実例をあげて、説得的に主張していると思う。

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「日本型学校教育」中教審答申の検討1

 前に多少検討したが、その後放置していたので、再開する。ただ、前からやっていると、なかなか進まないので、できるだけ後ろにある内容の検討からやっていきたい。
 まずは、教師に関する部分だ。9章に「Society5.0時代における教師及び教職員組織の在り方について」という部分がある。
(1)基本的考え方
(2)教師のICT活用指導力の向上方策
(3)多様な知識・経験を有する外部人材による教職員組織の構成等
(4)教員免許更新制度の実質化について
(5)教師の人材確保
という内容になっている。 
 書かれていることを、表面的に受け取れば、ごもっともという内容であり、それはそうだろうと言わざるをえない。しかし、問題は、書かれていないことにある。
 まず(5)の教師の人材確保について考えてみよう。 

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