一年を振り返って 教育

コロナによって、多くの領域で、大きな変化がもたらされたが、教育の分野でも同様だった。あるいは、突如強制的に全国の休校が強制されたという意味では、最大の激震に見舞われたといってもよい。幸か不幸か、私は3月に退職したので、その現場にいることはできなかったが、しかし、冷静に見ることはできた。卒業して教職についている、かつての学生たちからの情報は、貴重な判断材料となった。

 休校措置が出されたときに、なんと乱暴なことをするのだろうかという憤りを感じざるをえなかった。それは、多くの国民共通の思いだったのではないだろうか。そもそも総理大臣に、学校の休校を指示する権限など存在しない。文科省にもない。教育委員会には、感染症などが発生したとき、状況に応じて休校を命じる権限があるから、新型コロナウィルスの拡大で、休校という措置はありえたが、それは、自治体レベルでの話であった。しかも、それまで安倍内閣は、新型コロナウィルスに対する極めて消極的な姿勢に終始していた。それが突然の休校措置である。しかも、翌日文科相が首相発言を修正するという事態まで発生した。何故、突然の安倍首相の姿勢の変化が生じたのかはわからない。ただ、私自身は、オリンピックの開催に危険信号がともったからだと理解している。時系列で事実を追えば、それが最も合理的な納得のいく解釈である。休校措置は、国民にショックを与えて、新型コロナウィルスに対する姿勢を正したなどと肯定する見解があるが、国民にむしろ、消極姿勢を与えていたとすれば、それは安倍内閣であり、むしろ、国民の多くはきちんとマスクをしたり、手洗いを実行していたのである。休校措置は、とにかく、感染者がまったく出ていない県も巻き込むというような、ほんとうに乱暴なものだった。しかも、準備期間が2、3日しかないというのも、何を考えているのかと怒りを感じたものだ。
 そういう意味で、突然休校を強制された現場はたまったものではないという気持ちだったろう。
 しかし、それでも、休校になったときに、もどかしく思ったのは、学校の管理者たち、行政担当者たちの消極姿勢である。休校になれば、当然通常の教育活動は不可能になる。しかし、全般的に教育活動をとめてしまえば、当然子どもたちは放置されることになる。宿題など、家庭学習の課題を出したとしても、それは、あくまでも各人に任せるだけではあって、夏休みと同じことになるだけだ。少なくとも、4月からの新学期開始にあたっては、教育活動を再開させる手段を講ずるべきだったろう。1月の準備期間があったのだから。それには、オンラインの教育しかなかったといえる。ところが、私が驚いたのは、教師がなんとかオンラインでの教育活動をしようと提案しても、管理職や教育委員会がそれを許さなかった事例が少なくないという点である。また、教師の側でも、オンライン教育などは、まともな教育ではないとする感覚もあった。オンライン教育が、対面教育に劣っていることは当たり前のことだ。オンライン教育が対面教育よりも、基本的に勝っているとしたら、学校はいらなくなる。問題は、どちらが優れた形態かなどということではない。強制的な休校措置の下で、どのような教育の保障がありうるかだろう。
 基本的に、しっかりした授業をするとしたら、オンライン授業しかありえないわけである。これは誰が考えても、それ以外の結論はありえない。しかし、問題は、そうした環境がない家庭があるという点だ。従って、必要なことは、それをどのように解決するかを検討して、合理的な解決策をだして実行することだろう。残念ながら、多くの地域では、環境がないから不公平になるという「理由」で、オンライン教育は実施されなかった。いくつか可能な方法はあったはずだ。もちろん、こうすれは全体としてすっきり全員に同じ授業ができるということではなく、緊急事態なのだから、様々なツールのモザイク的なやりかたになるだろう。
 教師は、教室あるいは自宅から授業をして、zoomなどで流す。インターネット環境が整っている家庭では、子どもはその授業をオンラインで受ける。当初感染者がいない場合、少数の子どもであれば、登校して教室で勉強することは構わないとしていたのだから、まったく環境のない子どもは、登校して授業を受ける。教師がオンライン授業を教室から行っている場合には、通常の対面授業となるし、教師が家庭から授業をしているなら、教室のネットを活用して授業を受ける。あるいは、学校に揃っている機器を、家庭での環境が揃っていないところに貸し出すことは、もちろん必要だろう。
 重要なことは、GIGAスクール構想があったのだから、コロナ対策での財政出動として、上のような機器をとりあえず最低限必要なだけ前倒しで予算化するという政策はとりえたはずである。膨大な各種補助金が補正予算として組まれたのだから、当然学校教育のためのこうした教育保障のための補正予算も要求してよかったのではないだろうか。ニュースをみている限り、そうした要求はなかったと思われる。それは、現場に、断固として、休校中もしっかりと授業をやるという強い意志が、行政にも、また学校関係者にもなかったからではないだろうか。そこが、非常に残念である。ちなみに、私自身は、こうした考えをリアルタイムで提起していた。範囲は狭いとしても。この程度のことは、多くのひとが考えていたに違いないということだ。
 
 教育関係で残念だったことは、9月入学が実に簡単に葬り去られてしまったことである。がっかりしたことは、教育学会が9月入学に反対の態度表明をしたことだった。そして、その文書には、長期的な改革、あるいは教育の在り方をあまり考えていない教育学者たちの発想が、端的に現れていた。また、『教育』に書かれている論文には、高校生の主体性を中心にした授業かいなどと書かれているが、9月入学の声を大きくあげたグループのひとつが、高校生たちだった。しかし、教育学会の文書では、こういう高校生たちの切実な要求をきちんと受けとめる姿勢を、ほとんど感じなかった。(教育学会の文書作成をしたひとたちと、『教育』に関わっているひとたちは、かなり共通している。)

 昨日も書いたが、こうしたことはあったが、小学校の35人学級を今後5年かけて実現していくことが決まったことは、そうした運動を進めたひとたちの成果であった。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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