経産省の未来の教育イメージ1

 コロナ禍においてICT活用への風向きが大きく変化し、オンライン教育もすべてではないが実施されるようになり、経産省の教育改革案や文科省のGIGAスクール構想などが、賛否両論の立場から見直されるようになってきた。私自身、以前から「未来の教育」を研究テーマのひとつにしてきたので、再度経産省の「未来の教室のEdTech研究会」の提言を読み直してみた。文科省のGIGAスクール構想よりは、ずっと大胆な発想を示しており、興味深い内容になっている。しかし、実際に学校の管轄は文科省だから、実現の可能性は、少なくとも近未来的には低いとも思われる。
 
 まず、日本の教育の間違いに関する提言の認識を確認しておこう。
 提言によれば、「まず勉強、問いそのものを疑わない」という姿勢、「秩序を創るのではなく、適合させる」態度、「浅く広くの基礎で応用ができる」という考え、「学びの生産性、目的と手段の一致という視点の弱さ」があるという。何故そのような事態が起きてしまったのかという原因を無視すれば、この指摘は間違っていないといえるだろう。しかし、そうなっているには、理由がある。それを無視しては、改革は不可能なはずだ。
 「まず勉強」といって、問われていることを疑わないのは、現在の教育が、受験によって支配され、「正解主義」にならざるをえないからだ。そういう入試が行われているから、問いと正解について疑いをもつような勉強をしない。もちろん、すべての子どもたちが、そうだと決め付けるのはまちがいだが、入試のあり方、あるいは入試そのものを変革することなしに、この勉強の姿勢を変えることはできない。最後のほうで、入試を改めると提言しているが、具体策はまったく触れていないのが残念だ。

 「秩序をつくるのではなく、適合させる」態度というのも、支配的な生活指導のあり方からもたらされている。学校には、児童会や生徒会がある。しかし、それはあくまでも教育的指導のためにあるもので、子どもたちの自治や自立性の育成のためのものではない。多くの人は、校則の不合理さに疑問を感じ、学校に対して校則の改定を望んだことがあるに違いない。そして、その都度、説明もなく拒否された経験が。ごく稀に、子どもたち自身に校則を制定させる実践がなされることがあるが、それはあくまでも例外的なのだ。学びの生産性や目的と手段の一致にしても、やはり、受験勉強を無視して考えることはできない。多くの生徒が合格を目的にしているが、それは、自分の望んでいる勉強ではないのだから、目的と手段が一致するはずもないのである。
 ただし、経産省があつめた識者たちが、現在の学校教育のあり方に疑問を提起し、未来の方向性を示したことは、大きな意味をもっているだろう。この提言に加えて、現状をもたらしている原因を解決することを合わせれば、より合理的な改革案になるといえる。
 
 さて、提言の検討にいこう。この提言の基本ラインは以下のようなものである。
ア 日本の生産性が低い状況を克服する必要があり、そのためには教育を変えなければならない。
イ そのためには、50センチ革命(自己肯定感・当事者意識・他者への共感・課題発見・踏み出す力)×越境(専門性異分野の視点知見の理解力・多様性の需要力・縦割りを溶かす力・巻き込み力)×試行錯誤(遊び心・創造性・正解なき思考力・省察・失敗からの回復力)が必要である。
ウ ICTとEdTechの活用、学校・地域・企業の連携
エ 学力・教科・学年・時間数・単位・卒業の概念は希釈化。学習者が自分に最適な「先生」と「プログラム」を選べる。STEAMで文理融合の知、課題の解決の試行錯誤
オ 民間、公教育、地域、企業の連携、そこにリカレント教育も含める
 
 この提言を読んで、私はアメリカのサドベリバレイ校を思い浮かべた。同じ思いをした人も少なくないに違いない。特にエの前半は、サドベリバレイ校の理念と重なる。もちろん、サドベリバレイ校は、個別の学校だから、企業と連携とか、リカレント教育などはないが、すべてを生徒が自分で決めるサドベリバレイ校の教育は、似た理念をもっているといえる。
 私がサドベリバレイ校の教育に惹かれるのは、その基本的精神である。創立者であるグリンバーグ氏が来日して、東京で行った講演のなかで、氏は、「誰もが社会に出て成功したいと願っている。そのために最も有効な教育をするために創立した」と語っていた。もちろん、その成功とは、出世するとか、金持ちになるとか、有力な賞をとるとか、そういうことではなく、自分が本当にやりたいことを見つけて、それを社会で実践でき、そして、そのことを周りから評価される、そういうことを成功といっている。そのためには、本当に自分がやりたいことを見つける必要がある。そして、それを実際に社会に出て実践することができるほどに熟達しなければならない。そういうことは、通常の学校では無理だというのだ。通常の学校は、自分がやりたいことではなく、やらなければならないことを日々行っている。だから、自分のやりたいことを見つけること、そして、更にそれを熟達するために徹底的に実施することは、到底できないのでる。サドベリバレイ校の教育は、すべてを自分で決めるために、それが可能になるのである。「学習者が自分に最適な先生とプログラムを選べる」というのは、サドベリバレイ校と基本的に同じである。そして、エの前半は、「希釈」ではなく、存在しないのがサドベリバレイ校である。
 サドベリバレイ校の教育に共感する私としては、上の提言の多くに共感できる。サドベリバレイ校の教育を学生たちに紹介すると、かなり衝撃をうけ、そしてそんな教育を受けたかったと感じる者が多いのだが、しかし、ほぼ全員が、日本の教育に取り込むのは無理だと感じるのである。もっとも、現在サドベリバレイ校と名乗っている学校は、日本に既に7、8校ある。小泉内閣が推進した経済特区制度を活用して、正規の学校として承認されているのである。(しかし、一切補助金を受けることができない。)ただ、公立学校のなかで、サドベリバレイ校の教育を実践することは、現在では100%不可能だろう。
 それは、この提言を日本の学校教育で実施することが、不可能に近いことを意味するのである。
 最初のほうで、提言は、日本の教育は、経験主義と系統主義(教科主義)の間を揺れ動いてきたと書いている。確かにそうだが、それらが、学習指導要領によって、決められてきたことが、無視できないことなのだ。日本の学校教育の内容や方法が、学習指導要領によって、かなりがんじがらめに決まっていることは、もちろん、提言作成者たちも知っているだろう。提言の内容とほぼ反対のことが、学習指導要領によって定められている以上、公立の通常の学校で実施するためには、学習指導要領の内容を変えることではなく、学習指導要領そのものをなくすことが不可欠なのである。
 しかし、現在の文科省が、学習指導要領を廃止することことは、自身を否定するに等しい。そして、受験制度自体もなくす必要があることは、これまで論じてきたことで明らかである。
 だからといって、こうした提言が、部分的にせよ実現することは、日本の教育にとって大きな意味をもつと思う。経済特区制度を拡大し、そこで承認された学校が、むしろ十分な補助を受けることで、発展していくことを期待したいものだ。すると、それはエリート教育であって、格差の拡大につながるという反対意見が当然出てくるに違いない。(その点については、次回に論じることにする。)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です