またいじめの隠蔽が(加古川) 政策を変えねばいけない

 2016年に兵庫県加古川市で起きた、いじめによる自殺をめぐって、学校と教育委員会の隠蔽体質が問題となっている。いくつかの新聞が記事を載せているが、どうも分かりにくいので、情報を突き合わせて、整理してみた。
 報道では、今年になって、いじめ自殺によって設置された第三者委員会の報告書を、共同通信が入手し、隠蔽の事実が明らかになったという内容だが、何故、突然今年になって、これまで公表されていなかった第三者委員会の報告書を、報道機関が入手することができたのか書いていないのである。取材源の秘匿とか、そういうことではないように思われる。なぜなら、第三者委員会の報告書は、公文書なのだから、入手したとしても、密かに内部通報があったわけではあるまい。新聞記事は、ときおり、こうした不明な部分があるのが、こまったことだ。

 正確なことは、わからないのだが、私の想像では、情報開示請求をして、報道機関が入手したのではなさそうだ。そうならば、もっと早い時期に開示されるはずである。2017年に作成された報告書なのだから。それ以外に考えられることは、自殺した中学生の両親が、昨年秋に市を提訴している。訴訟になれば、当然、第三者委員会が報告書を作成したことは、知られているし、そこに、非公開部分があることが知られていたのだから、それを提示するように、求めただろう。裁判でそうした請求をすれば、裁判所がそれを否定することは、まず考えられない。そうした報告書は、真っ先に被害者家族に開示されてしかるべきであるのに、提訴するまで、開示しないということだから、そうした不当なやり方を認めるはずがないのである。そこで入手した家族は、あまりの内容に驚き、報道機関にそれを伝えたと考えるのが、一番ありそうなことだ。一応、そうだということで、以下考察する。
 
 まず、この報告書の最も重要な部分を、被害者家族に開示しなかったことが、まず批判されるべきだろう。非公開部分があったといっても、おそらく、もっとも重要な部分、具体的ないじめがあったことを、生徒が教師に訴えたり、あるいは、アンケートに書いたりしていたことが記述されている部分が隠されていたのだと、想像する。いじめによる自殺であることが、認定されたあとでも、そうした隠蔽工作をするということに、驚きと怒りを感じずにはいられない。
 さて、報道によって、いじめにかかわるポイントを整理しておこう。
1 いじめは、小学校5年からいじめられ、いやなあだ名をつけられて、そのあだ名で呼ばれたことだった。中学校でもあだ名が浸透し、悪口をいわれ、「ミジンコ以下」などといわれていた。中2で孤立深め、9月に自殺している。
2 生徒は、担任教師などに、「しんどい」「だるい」などの記述を繰り返し、伝えていたが、担任は、いじめとの認識をもたなかった。
3 2016年6月の、いじめアンケートにも、いじめを示唆する回答をしたが、担任は、取り組みをせず、両親にも伝えなかった。逆に、提出物が遅れているなどという注意をしていた。
 
 そうして9月に自殺をしてしまう。
 その後、部活でのいじめを示すメモを顧問がシュレッダーで破棄してしまうし、アンケートを両親に見せることもなかった。しかし、生徒がいじめを訴えたアンケートは、校長や教委に情報として共有されていた。だから隠蔽は確信犯的で、かつ組織的なものといえるだろう。
 第三者委員会が設置され、いじめを認定する報告書が提出されたが、先述したように、重要部分は秘密にされたのである。
 こうした場合、両親が不信をもち、学校や教師に働きかけるが、誠実な対応をせず、そして、同情したり、反省した生徒たちが、被害者両親に告白することによって、両親は事実をだんだん知り始める。しかし、誠実な対応を教委などがしないために、不信感が募り、提訴に至るという過程を辿ることが多い。
 提訴にまで至るのは、ほとんどの場合、学校と教委の不誠実な対応が要因になっている。
 
 こうしたことは、散々批判されながら、繰り返されている。もちろん、人間がやることだから、どんなに優れた政策が政府や自治体によって実施されたとしても、おかしなことをする現場は出てくるだろう。しかし、こうした学校や教委の反教育的ないじめ対策や、その後隠蔽が行われるのは、優れた政策が行われているにもかかわらず、ではなく、間違った政策が実施されているからなのである。そこをあらためない限りは、今後もなんどでも起きるだろう。
 では、その間違った政策とは何か。
1 校長の評価のありかた。
 教師が勤務評定を受けているように、校長も評価されている。校長を評価するのは、教育委員会である。そして、多くの校長は、一度は教育委員会の指導主事などを経験している。つまり、校長と教育委員会は、良くも悪くも、一体感をもって運営されている。そして、そういう校長の評価は、まずは失点主義が多いとされている。(これは、そのようにいわれていることで、私自身がそうした具体的証拠をもっているわけではないが、おそらく、正しい見方だろうと思う。)つまり、何かトラブルをおこさずに、無事に過ごすことがよい評価とされ、トラブルが起きると、失点となるということだ。だから、いじめとか、いじめによる自殺などが、おきてしまうと、失点となるので、それを隠そうとする。
 もし、そうした評価方式が取られているなら、やめるべきである。いじめは、子どもが起こすものであって、校長が起こすことはまれだろう。教師が子どもをいじめることはあるようだが。まず、いじめが起きることは、失点とすべきではない。起きたときに、どのように対処したかで評価されるべきである。
イ いじめが起きる。そのことは評価対象外。
ロ シグナルがあり、それに適切に対応したら、加点。対応せず、シグナルがあったことが、あとでわかったら、失点。
ハ いじめがあり、対応が不適切で、自殺や大きな怪我、転校に至ったら、失点。
ニ 悲劇があったとしても、その後誠実に対応して、トラブルを防げば加点、提訴に至ったら失点。
 もちろん、これは、私の見解に過ぎないが、このように、トラブルそのものは失点とせず、どのように対応したかで、評価する方式が取り入れられないと、隠蔽体質を克服することはできない。また、いじめを防ぐことはできないが、対応が真剣であり、適切であれば、自殺等の最悪の事態は、多くの場合防げるはずである。絶対的に防ぐことは難しいとしても。また、先述したように、提訴に至るのは、よほど学校や教委の対応が不誠実であると、家族が感じた場合に限られるのが圧倒的で、悲劇が起こったとしても、誠実な対応で提訴は防げるものである。
 
2 アンケートなどによるシグナルの受け取りの柔軟化
 現在、法律によって、いじめがないかどうか、年に3回のアンケートを義務づけている。このアンケートは、メリットもあるが、弊害のほうが大きい。その証拠に、この加古川の事例でも、アンケートが実施され、子どもは、いじめの被害を明確に記入しているにもかかわらず、学校と担任教師は、なんら対応していない。対応すらしてくれないことに、絶望して自殺に至ったのだろう。つまり、アンケートは逆効果であったといえるのだ。子どもでもそうだが、教師や学校にとっても、強制されることにかわりはないのである。およそ、義務的に押しつけられることは、本来の目的が達成されないことが多いものだ。そして、この例のように、反対の効果を生むことすらある。回数、その間のいじめの問題、教師が加害者であったり、あるいは加害者に加担している場合、だれが集計するのか、集計結果をどのように扱うのか、等々、実は、多様な問題が存在しているのである。私が、学生たちに、メリット・デメリットをきいたときに、メリットもあるという学生も、少数ながらいたので、そういう意味では、年に一度くらいはやることに意味があるかも知れない。しかし、はじめから、きちんとアンケートの活用については、明確にしておくべきだろう。そして、重要なことは、こうした定期のアンケートではなく、いじめなどの問題が生じたときに、いつでもシグナルを送れるシステムをとっておくことのほうが、大切なのである。
 
3 教師に対するストレス要因を減らすこと
 いじめに対応しない教師がいることは、否定できないし、教師の感性の問題もあるだろうが、多くの場合は、あまりに多忙な勤務とストレスの多さによって、対応するゆとりがないのではないかと思われる。教師も人間である。あまりに多忙な環境に置かれたら、ある意味「余分なこと」であるいじめ対応などには、注意がむかないとしても、ある程度仕方ない。教師の過重労働を徹底的に減らすことは、教師のためというよりは、子どものためなのである。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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