前回、日教組制度検討委員会の報告での、高校三原則を実現せよという要求が、実際には、男女共学以外は(それも私学では不十分だった)、ほとんど実現せず、逆の方向に進んだことを指摘した。単なる教育運動側の力量不足なのか、あるいは、要求内容の不備だったのか。おそらく両方だったのだろうが、ここでは、要求内容を検討する。
要求の形式的把握
「教育要求」を、制度検討委員会は、まずは形式的に捉えたといえる。「進学したい」という要求を、当然・自然・健全なものとしたが、そういう把握に、批判的なひとも当然いる。後藤道夫編『競争の教育から共同の教育へ』で、「国民の要求」への批判がそもそも射程に入っていないと批判している。これは、堀尾に対する批判であるが、この報告への批判としてもあてはまる。後藤は、国民の教育要求が、進学要求である限りは、その後かなりの程度実現していくが、それは、国民が、支配階級に取り込まれていく、後藤の表現によれば、「馴化」されていく過程であり、その事実をみれば、我々=要求実現、政府=要求の制限・抑圧という図式は成立しないというわけだ。それは、「国民」をどう捉えるかという点にもあると後藤はいう。制度検討委員会の報告では、「国民」を定義しているわけではない。しかし、後藤は、「子ども、親、教師」を想定していると書いている。(後藤の批判は、対堀尾理論だが、制度検討委員会報告の骨格は、堀尾論であるので、ここでは、基本的認識は、堀尾=制度検討委員会としておく。)ただ、中心は教師であるという点での批判意識は、ずっと以前からあった。親は教師に「委託」するわけで、国民の教育権論は、基本的には、子どもや親の教育要求を、教師が実現するという構造で、そのためには、教師の教育の自由と研究の自由が必要他というものだった。(後藤の批判を、私が認めているわけではない。後藤的発想に対する批判は、また別の機会に書く。)