対面授業がないと、学生が大学を提訴

 本日(6月9日)の朝日新聞が、明星大学の学生が、対面授業が一切ないことは、大学が義務を果たしていないということで、学費の半額返還を含め、140万円の損害賠償を求めて、大学を提訴した。まず、感じたのが、日本もずいぶん社会感覚が変わってきたのだということだった。以前ならば、こうした訴訟が起こされるというのは、考えもしなかったろう。訴訟を起こすことは、本人にとってもかなりの負担になるから、相当の覚悟だったのだろう。これは、単に法律的な問題ではなく、やはり、教育学的な問題を提起しているとみるべきだ。私自身は、原告の訴えが認められる余地は、正直あまりないとみているが、しかし、提訴の意味は十分にあると考える。 “対面授業がないと、学生が大学を提訴” の続きを読む

スポーツ根性論ではなく、専門的指導を

 毎日新聞6月6日付けで「近づく五輪、仏記者が見た日本のスポーツ指導者の問題点」という記事がでている。要するに、日本では、まだまだ根性論、精神論が根をはっており、スポーツの指導を歪めているという趣旨だ。特に印象に残るのは、フランスのルモンド記者の話として、1983年から2010年までに、柔道の事故で110人以上の子どもが死亡しているが、フランスでは子どもの死亡事故は一件もないという。日本における柔道の部活における死傷事故は多数でているが、スポーツに伴う危険から生じたというよりは、間違った指導から生まれたものである。中学の柔道部での事故として有名な、福島県須賀川一中での、重大事故をみれば明らかだ。

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ネット依存症・ゲーム脳・対応1

 度々『教育』の文章の論評を書いているが、別途、『教育』の書かれたすべての論文を批評するlineをやっている。その参加者から、『子ども白書2020』に書かれた文章の問題性を指摘された。それは、教科研に参加している人が多いのに、この『子ども白書』はインターネットに極めて後ろ向きな文章が多いということ、そして、その典型がゲーム依存症に関するものだという。それで早速市立図書館にいって、関連文章を読んでみたが、既に、『教育』の個別論文批評で扱っているひとたちの同種の論文があったが、それとは別に、成田弘子「休校をきっかけにメディア機器とのつきあいを考える」という文章があった。そこに「スマホの時間 わたしは何を失うか」という図が掲載されている。日本医師会と日本小児科医師会のホームページからとっているということだが、スマホをやっていると「睡眠時間、学力、脳機能、体力、視力、コミュニケーション能力」が失われるのだそうだ。文字通りにとれば、間違いではない。しかし、何をやったって、同じではないだろうか。読書もほとんど同じように、失われるはずだ。子どもは読書にふけるなんてことはない、という前提で考えているのか。昔は、農民や労働者の家庭では、子どもが本を読みふけっていたりしたら、かなり怒られたらしいから、同じようなことを大人は考えるのかも知れない。しかし、今読書をすると、何が失われるか、などという「問い」そのものを考えないだろうし、懸命に読書依存症としてやめさせようとはしないだろう。なぜ、読書はよくて、ゲーム、スマホはいけないのか。

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持久走で小学5年生が死亡

 今年の2月に、大阪で、体育の授業を受けていた小学校5年生の男子が死亡していた。それが、わかったのが数日前で、間があいたことの理由はわかっていないようだ。体育は持久走で、マスクを顎にかけた状態で倒れていたので、マスク着用に関する指示に関して議論になっている。この議論は、非常に複雑で単純な結論をだすことはできないといえる。例によって、ヤフコメを参照してみたが、ヤフコメとしては異例で、多様な主張が乱立していた。比較的単純な話題に関しては、90%以上が同一見解が示されるのだが、この件については、大きくわけても5,6種類以上の意見があった。
 まず、授業は2月であること。この時期、学校の体育では持久走を行うことは、めずらしくない。ただし、この持久走は、距離を指定しているのではなく、5分間走るという形式だったそうだ。それから、マスク着用については、強制はしていなかったと公表されている。
 大きな議論になっているのは、マスク着用の体育という点だ。現在の指導では、文科省は、体育の授業ではマスク着用は必要ないという立場をとっている。ただし、禁止ではない。

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スクールカーストの克服

 久しぶりにスクールカーストの話題が新聞に載っていた。(スクールカースト いじめの温床 「女子は1軍、2軍、3軍に分かれている」西日本新聞)https://www.nishinippon.co.jp/item/n/413024/
 九州北部の小学校、5年生でのできごとだ。いじめをテーマにした授業のあとの感想文に、「女子は1軍、2軍、3軍に分かれている。」と書かれてあった。ファッションセンスの敏感なAは、1軍で彼女が中心になって、いじめが始まった。そこで、担任教師は、いじめの構造(被害者、加害者、観戦者、傍観者)の話をしつつ、クラスに発生していたいじめを話し合わせたという。そのなかで、リーダー(A)に逆らえない、遊びだ、泣いているのを見ると面白い、などの率直な意見を引き出しつつ、担任は、面白いといった子どもに、放課後「自分がそうされたら」と聞く。また、リーダーのAとも話し合う。Aは、母が障害がある姉にかかりきりで、自分をかまってくれないことへの悩みを語る。それがいじめとなって表れていた。母親とも話し合うが、納得のいく合意には至らなかったようだ。この記事では、その後どうなったかは書かれていない。気になったのは、この担任は、優れた指導力を発揮しているが、子どもの指摘以前は、スクールカーストの存在を意識していなかったことだ。

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オリンピック 運動会と子どものオリンピック観戦

 運動会を開催するかどうかが、議論になっている。当初、コロナ禍であるので、運動会は中止するように行政指導があった。しかし、子どもたちから、オリンピックをやるのに、どうして運動会はできないのか、という不満の声が出てきたと報道され、それに対して、萩生田文科相が、安全対策をしてやるように、という逆の指導をだしてきた。それに対して、今度は、命よりオリンピックが大事なのかという文科相批判がでてきている。つまり、運動会を工夫してやるように、という指導が、明らかに、オリンピックはいいのに、運動会はだめだという不満に対して、オリンピックも運動会もできるようというアピールとしてだされたからだ。
 問題は複合的だ。オリンピック開催と運動会という、規模が全く違うが、性質は同じである行事、しかも、オリンピックは大きな政治課題になってしまったために、オリンピック開催と絡める人と、独立して考えているひとたち、様々な立場がある。

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読書ノート『教育を拓く』序章 堀尾輝久

 序章の部分のみの考察をする。特に、国民の教育権論の部分だ。堀尾氏は、国民の教育権論の最も代表的な論客であり、その象徴的存在であった。そして、本書でも、国民の教育権論を擁護している。私自身も、国民の教育権論の支持者であるが、現状認識において相当な違いがある。そして、私自身の最も重要な自身の課題としているのが、国民の教育権論の再構築であるので、堀尾氏の検討は、避けて通ることができない。
 私は、国民の教育権論が、1980年代から90年代にかけて、完全にその力を喪失したと解釈しているのだが、その原因について、堀尾氏は一貫して、それを書いていない。新自由主義政策に圧迫されてきたという立場であろう。だから、新自由主義的な教育権論に対して、国民の教育権論を対峙していることになる。だから、ここでは喪失の原因ではなく(それは佐貫論の検討として行う。)堀尾氏の論理が、新自由主義的な自由論や公共性論に有効であるかを検討する。

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「日本的学校教育」中教審答申の検討9 義務教育2

 今回は、教員養成について、簡単に考えてみる。答申の提言は、小中の免許を両方とることが望ましく、とりやすいような配慮をすべきということに尽きる。しかし、これは、根本的な問題について明確にしなければ、現在行われていることの延長にしかならず、結局、特に小学校教員の負担を増やすだけのことになるし、合理的な改革にはならない。
 根本的な問題というのは、小学校の教師は全教科担当であり、中学校は専科担当だということだ。教員養成や学校の現場に通暁していない人には、あまり知られていないかもしれないが、実際には、小学校教員養成を目的とした学部では、ほとんどの学生が小・中高両方の免許を取得しているのである。小学校教員養成を柱にしているから、当然全科の学習をする。その上で、主要な科目を決めて(普通ピークという)その科目の中等教育免許を取得可能にする。そうして、小中高の免許を取得して、小学校の教師になっていくのである。中学の教師になる者もいるが、高校の教師になるものは少ない。高校の教師は、より専門的な学部で学んで、教員免許を取得した学生のほうが、採用試験に強いのである。

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「日本型学校教育」中教審答申の検討 義務教育1

 いよいよ中核的な義務教育に関する部分の検討になる。
 まず最初に、9年間を通した教育課程、指導体制、教師養成について一体的な検討が必要であるとする一方で、多様化した子どもの状況に対応するとともに、誰一人取り残さないという基本原則が確認されている。ただ、なんとなく空虚な響きがある。教育課程や指導体制といっても、9年間の割り振りとして、既に、6-3-3、6-6、9-3という三つの学校形態か一条校として認定されており、しかも、通常の小中学校についても、小中連携校などがあり、連携校の場合、きり方が6-3ではなく、5-4や4-5の型もある。つまり、義務教育学校としての統一的な学校体系は、崩れているのである。「通した」という意味は、どの程度重みをもっているのだろうか。
 そして、多様な資質に応じることと、誰一人取り残さないということが、どのように関係しているのかも定かではない。

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「日本的学校教育」中教審答申の検討7 高校教育3

 多様性の実施は、進学制度にかかっているとすれば、ではどんな進学制度が望ましいのか。とりあえず、アメリカの総合制高校も含めて、後期中等教育まで、前期中等教育のように「共通課程」で一貫させるという考えは、私の知る限りほとんどないので、後期中等教育では多様なカリキュラムやコースが提供されるという前提で考える必要がある。
 まず最初に考えねばならないことは、義務教育年齢である。答申では、高校も事実上義務教育に近い進学率であることを指摘しているが、だからといって、義務教育にすべきであるとはまったく書いていない。あくまでも、中学までを義務教育とする立場である。では、義務教育にすると何が変わるのか。大きくふたつある。
 第一に、高校を義務教育にすると、入試がなくなる点である。現行制度では、中高一貫校では、中学で、それ以外は高校で入試がある。ところが、義務教育ではかならず行かなければならないのだから、少なくとも競争的で振り落とされる入学試験はできない。日本の公立中学には入試がないことでわかる。アメリカは高校の途中まで義務教育になっているので、高校の入試はない。そのために、アメリカの典型的な高校は地域総合制高校となっていて、地域の高校生は同じ高校に通い、そこには実にたくさんの、多様な授業が用意されている。そこで選択して履修するわけだ。もちろん市街地の高校はより小規模なものもあるが、郊外では地域総合制が標準的である。

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