スクールカーストの克服

 久しぶりにスクールカーストの話題が新聞に載っていた。(スクールカースト いじめの温床 「女子は1軍、2軍、3軍に分かれている」西日本新聞)https://www.nishinippon.co.jp/item/n/413024/
 九州北部の小学校、5年生でのできごとだ。いじめをテーマにした授業のあとの感想文に、「女子は1軍、2軍、3軍に分かれている。」と書かれてあった。ファッションセンスの敏感なAは、1軍で彼女が中心になって、いじめが始まった。そこで、担任教師は、いじめの構造(被害者、加害者、観戦者、傍観者)の話をしつつ、クラスに発生していたいじめを話し合わせたという。そのなかで、リーダー(A)に逆らえない、遊びだ、泣いているのを見ると面白い、などの率直な意見を引き出しつつ、担任は、面白いといった子どもに、放課後「自分がそうされたら」と聞く。また、リーダーのAとも話し合う。Aは、母が障害がある姉にかかりきりで、自分をかまってくれないことへの悩みを語る。それがいじめとなって表れていた。母親とも話し合うが、納得のいく合意には至らなかったようだ。この記事では、その後どうなったかは書かれていない。気になったのは、この担任は、優れた指導力を発揮しているが、子どもの指摘以前は、スクールカーストの存在を意識していなかったことだ。

 スクールカーストに関して、大学の講義で学生たちに質問すると、自分たちのクラスでも存在したという者が圧倒的だった。そういう経験はしたことがないという学生は、ごく少数派だ。そして、私の受けた印象だが、スクールカーストがあったという学生は、それが当たり前のことで、特に問題だという意識は希薄だったように感じた。それは、おそらく、スクールカーストを著作として早い時期に問題にした鈴木翔『教室(スクール)カースト』と同質の感覚だったのだろう。鈴木翔氏の著作には、スクールカーストを対象として分析はしているが、それをどうやって破壊して、平等な関係を形成していくかという観点は、ほとんどなかった。幸い、この新聞で紹介された担任は、スクールカースト構造といじめの関連に思い至り、スクールカーストを崩す指導をした。1軍の子どもも、やはり、固有の問題を抱えていて、それが、いじめを率先して行うことの背景にあることを知る。固有の問題(母親との関係)は、解決できなくても、そうした状況を知り、Aへの共感をもつことで、おそらく、そのクラスのいじめは解決の方向に向かい、そのことによってカーストは崩れていったに違いない。そう期待したい。
 だが、スクールカーストの問題を考えると、実は、スクールカーストを肯定する教師が少なくないことに気づく。ここにこそ、もっとも深刻な問題があるとさえいえる。
 鈴木翔氏の著作には、現場の教師との座談会が収録されているが、そこに登場する教師は、いずれもスクールカーストを利用して、学級運営をしていると語っていた。つまり、スクールカーストは、子どもたちの間に生じた、ある意味自発的な階層構造による秩序だから、それにのっかって学級運営をすれば、秩序を保持しやすいわけである。1軍は支配力があり、2軍、3軍は、その秩序を不本意ではあるが、受けいれているわけだから、その秩序を「尊重」し、1軍の子どもたちと提携していれば、それが恐怖の秩序であったとしても、表面的には、混乱はおきないのだ。つまり、学級運営がうまくいっているような概観が保てる。しかし、それでは、自立的で、困難を乗り越えていけるように、共同的で主体性をもった人間を育てることはできない。
 また、教師自身のなかに、子どもたちを階層化して認識する傾向がないではない。授業をしていれば、理解力の高い子どもと低い子どもは確実にいるし、成績をつければ、階層化される。そうした現実を認識しつつ、みんな平等だという意識をきちんともつことは、実はそれほど容易なことではないのも事実だ。
 したがって、スクールカースト問題では、教師の子ども観と指導力が鋭く問われる。子どもを管理の対象とみるか、あるいは、個々の個性を平等に尊重し、協同的な集団として形成できるか。学級の子どもたちが相互に認め合い、協力できる集団になっていれば、管理的なやり方でなくても、十分すぎるほどに秩序は保持できるし、また、いきいきと活動できる。まずは、教師が、すべての子どもの長所を認め、(ないように見える子どもでも、必ずもっている)それを、全員で共有することが、その始まりであろう。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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