スポーツ根性論ではなく、専門的指導を

 毎日新聞6月6日付けで「近づく五輪、仏記者が見た日本のスポーツ指導者の問題点」という記事がでている。要するに、日本では、まだまだ根性論、精神論が根をはっており、スポーツの指導を歪めているという趣旨だ。特に印象に残るのは、フランスのルモンド記者の話として、1983年から2010年までに、柔道の事故で110人以上の子どもが死亡しているが、フランスでは子どもの死亡事故は一件もないという。日本における柔道の部活における死傷事故は多数でているが、スポーツに伴う危険から生じたというよりは、間違った指導から生まれたものである。中学の柔道部での事故として有名な、福島県須賀川一中での、重大事故をみれば明らかだ。

 私自身、実はスポーツ系の部活に入ったことがない。(高校時代数カ月入ったが、それは自分たちでつくったほとんど有名無実のレベルのバレー部だったから、部活経験とはいえない。)小学生のときには、野球少年だったので、中学に入ったら野球部に入るつもりだったが、実際に、中学に入学して、いろいろと話をきくと、野球部のあり方に疑問をもって入部を諦めた。それは、一年生はボールすら握ることを許されず、ただただ、上級生が練習している周りを大きく囲んで、声を出すだけだというのだ。そして、上級生には絶対服従という。将来野球の選手になろうなどという気持ちは、とっくに捨てていたので、そんな部活には魅力を感じることなく、あっさりと諦めた。しかし、その後もいろいろな機会に、スポーツはずっとやっているし、いまでもジョギングをかかさない。そういうなかで、特に、日本の教育の世界でのスポーツ指導については、ずっと疑問をもち続けている。特に、将来教師になろうという学生たちを中心に指導してきたときに、そうした疑問を感じる機会が多かったのが事実だ。
 例えば、体育の授業のあり方で、ヨーロッパ型の社会体育と、日本のような学校体育の違いを説明する。もちろん、どちらがいいとは、私のほうでは結論づけないで、自由な議論をさせる。ちなみに、最大の違いは、体育の授業を実施するのが、社会体育だと、体育施設に勤務する専門的な指導者であり、学校体育だと、小学校は担任の教師である。中学以上になると、体育の専門家が教えるが、社会体育だと、体育館の場合には、体育館で行うスポーツの指導員、水泳ならプール所属の水泳指導員であるが、日本の体育の教師は、体育ならすべて教える。つまり、もっとも大きな相違は、教える人が、その領域の専門家であるか否かである。
 そして、それぞれの長短を議論させると、学校体育がよいという意見がずっと多いのである。それは、
・専門の指導者が教えると、専門的な技術主義になり、子どもはついていけない
・子どもの人間性を理解している担任のほうが、適切な指導が可能である
このふたつの理由だ。
 この見解の特質は、専門家の軽視、専門的力量の軽視である。私の考えでは、専門家のほうが、スポーツの楽しさを教えることができ、むしろ、専門的な技術主義的指導で、子どもをスポーツ嫌いにする可能性は小さいと思う。もちろん、将来アスリートになる希望をもっている子どもに教える場合には、その資質に応じて、高い技術を教えることは可能だし、そうするだろう。しかし、一般的な小学生相手にスポーツを教えるのに、一番大切なことは、楽しんでやることなのだから、専門家であれば、楽しさを教えることができる。しかし、スポーツのことをよく知らない人が、そのスポーツの楽しさを適切に教えることは難しい。それはごく当然のことだろう。もちろん、その子たちにあった技術を教えることも困難だろう。担任は、子どもたちをよく知っているといっても、スポーツを教えるのに必要なのは、スポーツをやる上での正確や能力であって、算数や社会か得意か不得意かとか、あるいは穏やかな性格か、怒りっぽいか、などということは、あまり関係ないし、スポーツに必要な資質等については、専門指導員は素早く見抜くだろう。
 毎日新聞の記事は、スポーツ根性論が1964年の東京オリンピックから盛んになったと書かれている。おそらく、東洋の魔女といわれた女子バレーチームを指導した大松監督を念頭においているのだろう。しかし、大松監督の指導は、一見根性論のように見えるが、実際には、そうではなかったことも、よく知られていることだ。つまり、大松の指導は、非常に「創造的」だったのである。もし、彼の指導に「創造性」がなければ、それまで誰もやらなかった回転レシーブなど生まれなかったし、世界に先駆けて回転レシーブをマスターしたからこそ、不敗のチームを築き上げることができたわけだ。そして、回転レシーブをマスターするための練習手順も、非常に考え抜かれた合理的なものだった。いきなり床の上で回転するなどをせず、マットの上で十分な回転の訓練をしてから、床の上で行ったという。
 前回の東京オリンピックは、私が高校生のときで、私の高校が、実はバレーボールの練習場に指定され、日本とソ連の練習がけっこう行われていた。先に書いたように、名ばかりとはいえ、バレー部の部員だった私たちは、特別にその見学を許されたのである。大松監督が、ボールを左右に情け容赦もなく投げ分け、選手たちが、それを左右に移動しながら回転レシーブをしていくのだ。野球でいえば、内野の守備練習で、左右にノックをうち分けて、選手がへとへとになるというのがあるが、そのバレーボール版だった。すごい練習だなあ、とただただ驚くばかりだった。ずっとあとで知ったのだが、この投げるタイミングについて、一人の選手が大松監督に意見を述べ、より合理的な間隔をあけて投げるように調整されたというのだ。つまり、単なる猛練習ではなく、そのなかにも合理的な知恵が活かされていたし、単に「俺についてこい」などという練習ではなかったのである。
 ところが、それを真似した、あるいは学んだ、後の世代は、左右に投げ分けるのを回転レシーブで拾う練習をするという形だけ真似ると、根性論になっていったのだろう。創造性と合理性が欠けてしまった根性論的練習では、本当に強くはならない。形だけは真似ることができるから、そこで、専門性の軽視となっていく。日本のスポーツ指導の悪弊はそうして生まれたのだろう。
 
 ではどうしたらいいのだろうか。
 義務教育期間にとける体育やスポーツ教育について、私の最低限必要だと思うのは以下のようなことだ。
・学校での部活の廃止。すべてを社会教育の一貫としての社会体育にする。
・スポーツ指導について、免許制を導入し、原則として、免許をもったスポーツ指導者が、その免許の範囲で、スポーツ指導を行うようにする。そして、社会体育として設定されたスポーツクラブは、指導者とその免許所有を明記する。
 考え方の基本は、指導の専門性を尊重するということである。
 日本社会には、専門家の軽視か広く行き渡っている。昨今のコロナ対策における専門家と政治家の関係をみれば、実によくわかる。それは、専門家会議の構成において、政府の都合のいいことをいう「専門家」を集めることに、最も端的に表れている。だから、そうして集められた「専門家」が一度、政府に異を唱えると、「越権行為」などというのである。
 真の意味で専門性を重視する意識を、広範にもたれないと、多くの分野で停滞していかざるをえない。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です