6月2日の中日新聞に、「育休の男性 経験描いた漫画 書籍化不許可」という記事が出ている。普段から漫画を描き、ツイッターやブログで公開してきた著者が、出版社から書籍化の申し出があり、育休を利用して作業をすることを計画した。教育公務員は、兼業が一定の条件の下で認められているが、許可が必要であるので、校長を通して、都の教育委員会の許可を求めたところ、不許可となり、その理由などの説明をなされなかったという。そこで、都教委を提訴したという記事である。実は、私の教え子で教師をやっている人が、同じように、育休中に出版の話があり、許可を求めたところ、同じように不許可になったという話があった。これは東京のことではないのだが。
提訴した東京の男性は、「都教委と対立したいわけではなく、兼業が認められる基準が知りたい、そして、男性教員の育休取得が低い現状を訴えたい気持ちもある」と述べているそうだ。中日新聞の記事は、何人かのコメントを掲載している。
まず、神内弁護士が、都教委はいくつかの基準を示しており、時間がかかり過ぎ業務に支障がある、公務員の信用を傷つけるなどがあり、塾講師は後者で不許可になると話しているそうだ。しかし、この事例については何も語っていない。
提訴男性の船戸弁護士は、執筆時間が業務に影響するほどではないし、男性の体験が共有され、育児参加の意義を啓発するという教育的効果もあると述べている。
教育行政学の明星大学樋口教授は、内容は社会性があるが、教育に関する兼業としてどこまで認めるかは、線引きが難しいそうだ。そして、育休中に漫画を描くことは、世間から認められないと考え、不許可に下という可能性を指摘している。
尾木直樹氏は、育休をとっての育児経験を描くことは、公民科の専門性を活かせるもので、社会貢献にも繋がるとして、認めるべきだという立場をとっている。
さて、この問題をどう考えるのか。
まず確認しておくことは、一般公務員は、原則兼業が禁止されているが、教育公務員は、業務に支障がなく、許可をえた場合には、兼業が可能となっていることである。このことの是非も当然検討の課題となるべきである。第二に、この件において、不許可が妥当かという点である。第三に、今後広く兼業の問題をどう考えるのかということ。
まず、第二の点を検討してみよう。原則兼業禁止だが、業務に支障がなく、許可をえた場合兼業可能となるということだが、この場合は、「許可」がえられなかったわけである。神内弁護士は、この件がなぜ不許可になったのか、この記事では語っていないが、樋口教授は、都民の理解を得られないからではないかと指摘している。つまり、育休中の教員が、漫画など書いてけしからんと都民が考えるに違いないということだ。
もうひとつ確認することは、通常の勤務をしている場合の兼業と、このように育休中とは多少状況が異なるといえる。法律が予定しているのは、通常勤務をしている状況での兼業である。したがって、業務に支障がないことが、条件となるわけだ。しかし、育休中は、業務そのものが免除されているわけだから、業務への支障は生じる余地がない。すると、公務員としての信用ということになるわけだ。
私は、都民ではないが、漫画を出版することが、教員としてけしからんなどとは、全く思わない。そもそも、育休中なのだから、教師としての業務は存在しないわけである。育休というのは、業務を離れて、育児、つまり私生活に時間を使うことを許可するわけだ。育児といっても、24時間掛かりきりになるわけではなく、当然空き時間は少なくない。その間に何をしようが自由であるというのが原則だ。買い物、読書、映画観賞、いくらでも自由な生活があるが、そういうことをしたら、都民はけしからんと思うのだろうか。読書がいいのならば、漫画を書くことも、何ら変らないではないか。むしろ、現代では、漫画家は尊敬される職業であり、なりたい人もたくさんいる。もし、都民がそうしたことをけしからんと考えるのが通常であるのならば、啓蒙が必要だと思うくらいだ。むしろ、邪推かも知れないが、都民がけしからんなどと考えているのではなく、都教委の感覚がそうなのであって、啓蒙が必要なのは、都教委であるというのが事実ではないだろうか。
次に、兼業禁止について考えてみよう。
戦前官吏は天皇への奉仕者だったが、戦後になって、国民に対する公僕になった。だからなのかはわからないが、職務専念義務が規定されている。しかし、本当に職務専念義務が必要なのか、私には疑問に思われるようになってきた。民間企業でも、兼業を許可するところか珍しくないといわれている。他の企業での経験を活かすことができれば、決してマイナスではないということなのだろう。もちろん、兼業を認めるかわりに、労働条件を引き下げるというのでは、労働者にとってマイナスだろうが、積極的な活用としては、賢いやり方ではないだろうか。要するに、企業なり、官庁・役所にとっても、その場での勤務をしっかり行えば、他の自由時間に何をしようが、問題ないはずなのである。他の仕事のために、勤務が疎かになれば、処分なり解雇すればいいことである。
更に教師の場合には、社会経験の乏しさが教育活動を貧弱にしているという批判が、とくに、雇用する側からなされることがあるが、それならば、職務に影響ない限りで、兼業を奨励したほうが、教育活動を豊かなものにするに違いないのである。
変化の大きな社会において、決まった仕事を堅実に行うだけでは、対応できない場面が多くなっている。そうした点を乗りこえる点で、むしろ兼業は活力や創造性を生む可能性すらあるのではないだろうか。
教育委員会が、休職中の活動まで規制しようというのは、単なる「管理主義」でしかない。余計なことをするな、というような教育行政から、教師たちの闊達な活動が生まれるはずがないのである。
最後に第一の問題だ。問題は、「許可」の範囲である。業務の支障が出る兼業を許可しないのは、当然であるが、支障がないとしても、教育公務員特例法が前提しているのは、教育に関する仕事である。しかし、社会的批判が起きないことも、当然とはいえる。社会的感覚が変われば、したがって許可内容も変わる。私が生徒だったころは、塾の講師をしている公立の学校の教師は,珍しくなかったが、今ではほとんど許可されない。学校の授業をおろそかにして、塾で稼ぐとはなんだということだろうが、これも、塾講師をしていれば、学校の授業をおろそかにしているかどうかは、個人によるのではなかろうか。むしろ、塾は指導がつまらなければ、すぐに生徒は離れてしまうから、授業の技術を磨くにはいい場所でもあるのだ。ただ、ここで、塾の講師を認めるべきだと主張したいわけではない。社会的意識によって変わることは、ありうるということだ。
ただし、狭く教育に関することに限定するのは、適切ではないように思われる。先に指摘したように、教師の社会的経験を積むという意味では、兼業はいい効果をもたらす可能性もあるからである。私自身は、あまりいいことだとは思っていないが、実際に、教育委員会による研修の一貫として、企業に就労体験をさせることすらある。したがって、教育関係よりも広い範囲での兼業を、むしろ業務の支障がない限りは、認めていく方向をとるべきではないだろうかと思うのである。
そういう意味で、今回の訴えは、ぜひ原告の勝利を願うものである。