『教育』2021年10月号を読む 山田殻変哲也「教員世界の地殻変動」4

 山田哲也氏の文章の検討は、前回で終わっているので、今回は、私なりの「学校を楽しく働ける場」にするための、基本的に必要なことを書いてみたい。もっとも、私は、教育制度論が専門であり、かつ、あくまで研究者であるので、ここでは、早急に実現可能なことではなく、実現は遠いとしても、必要なことに焦点をあてたいと思う。
 
 まず考えねばならないことは、組合がずっと主張してきた「労働者」としての権利である。そして、「専門職」としての権利である。このふたつは、完全に調和するのだろうかということがある。もちろん、労働者としての権利を、憲法上の人権である労働基本権のレベルでいえば、専門職と全く齟齬があるとは思わない。しかし、一般的に労働者を時間を基本に働く存在と考えると、専門職とは具体的に合わない面が出てくる。
 労働基本権と、憲法で規定されているのは、「団結権・団体交渉権・団体行動権」であるが、これは労働組合であろうと、職能団体であろうと、妥当するものである。憲法では「勤労者」となっており、時間で拘束されるという意味での「労働者」に限定されないからである。しかし、この時間で規定されるという点で、労働者と専門職は、重ならない部分が生じる。もちろん、学校の教師が、勤務を時間で拘束されても、なおかつ専門性を重視されることはありうる。しかし、教師の専門性は、時間に囚われない部分が必ず存在するのである。それが、無限定労働につながることになる。

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『教育』2021年10月号を読む 山田殻変哲也「教員世界の地殻変動」3

 いよいよ、山田哲也氏が提案する「教職員が楽しく働ける学校へ」の内容である。
1 学校教育に対するさらなる資源の投下、つまり教職員の増員
2 教員文化に生じつつある変化をテコに、子ども・保護者との対話に開かれた「民主主義的な専門職性」を可能にする職場同僚関係を構築
3 同時多発的な草の根の取り組みと、組合活動や民間教育研究・実践運動のような従来から続く粘り強い社会運動とを接合し、合理的な判断に基づく学校制度の改善を企図する取り組み
 以上の3点である。
 もちろん、これらのことに異議はないし、むしろ、ずっと多くの教職員が求め、努力してきたことといえるだろう。逆にいえば、そうした努力にもかかわらず、何故、実現してこなかったのか、ということの分析もあわせて必要なのではないだろうか。そして、要検討の内容はないのだろうか。

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『教育』2021年10月号を読む 山田哲也「教員世界の地殻変動」の検討2

 前回は、求心的関係構造とその弱体化に関する検討を行なった。
 今回は、職務の無限定性と献身的教師像について検討する。これは、ペアのような関係だ
が、やはり、単純に議論すべきことではない。学校職場がブラック化している最大の要因が、この「無限定性」にあるわけだが、これは、確かに、積極的な意味での教員文化としての側面があるが、他方、行政が安上がりの労働を押しつけるための仕組みを作り上げたことも見逃すわけにはいかない。
 戦後民主化された教育の世界で、教師たちが要求したことは、労働者としての権利だった。この場合、労働者とは、労働内容が明確化され、それ以外のこと(雑務)をむやみに押しつけられることなく、労働時間が規定されており、それを超過する場合には、超過勤務手当てを支給するということである。つまり、定量労働ということだ。しかし、これらがきちんと決められて実行されたことは、戦後一度もなかった。それだけではなく、憲法で保障された「労働基本権」すら、教師には一部制限されたのである。

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『教育』2021年10月号を読む 山田哲也「教員世界の地殻変動」

 『教育』2021年10月号の特集1は「教職員が楽しく働ける学校へ」である。同様の特集は、過去何度も行なわれている。それだけ、教職員が楽しく働けない現状があるということだろう。今回の特集でも、新任の最初の職場で、生徒たちに振り回され、懸命に生徒たちに入っていこうとして奮闘しながらも、先輩教師や管理職には適切な助言がえられず、結局一年を待たずに休職し、そのまま退職してしまった教師の手記が掲載されている。公立小中学校が、国内で最もひどいブラック職場であることは、多くの人に指摘され、広く知れ渡るようになってきた。しかし、文科省の対策は、かえってブラック度を強めこそすれ、問題解決の方向にはほど遠いものでしかない。
 そのようななかで教育科学研究会は、そうした職場でも最大限よい実践を行ないたいと努力している教師や、その方法を見いだそうとしている教育研究者の研究組織である。そして、今回の特集は、その努力の一端と見ることができる。巻頭論文は山田哲也氏の「教員世界の地殻変動」で、伝統的な教員文化が変容しつつあり、ある意味困難は増大しつつあるものの、その変動のなかに、「楽しく働ける学校」に発展する芽を探ろうとするものである。その個々の記述には、ほとんど頷くことができるのだが、しかし、構造的に理解するとき、違和感を感じざるをえない点がある。

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日本は本当に能力主義社会か9 中教審46答申の検討2 高等教育

 かつて文部省は、高等教育の内容については、ほとんど口を挟まなかった。中心は初等教育と中等教育だったのである。その伝統は、この46答申でも、完全には払拭されていない。1960年代の末に、大学紛争が荒れ狂い、東大と東京教育大の入試が中止となる事態にまで発展していたために、大学管理に関する臨時措置法で、大学管理に強い介入を行なったことから、次第に大学への政策的関与を強めていく傾向は生じていた。この46答申でも、わずかに積極的な提言がみられ、実現されたものもあった。
 しかし、最初に提起される高等教育の多様化政策は、現存の高等教育の種類をそのまま追認したものに過ぎない。以下のように分類するというのだ。
 第1種の高等教育機関(大学) 3~4年程度  総合領域型・専門体系型・目的専修型
 第2種 (短期大学) 教養型・職業型
 第3種 (高等専門学校)゛ 
 第4種 (大学院)3年程度の高度の学術の教授と社会人への再教育
 第5種 (研究院) 博士の学位にふさわしい高度の学術研究
 それまでは、ほとんどの場合大学院修士課程のあとに博士課程が続く制度だったが、最初から修士(大学院)と博士(研究院)を分けた制度を構想した点が新しいが、しかし、実際にそのように改変した大学院は、少数だった。
 

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新学期授業再開での保護者の対立

  Newポスト・セブンの記事で「デルタ株蔓延で進む校内の分断 親が登校派と休校派に分かれて互いを罵倒も」が非常に興味深い。単純にいうと、新学期が始まって、保護者の間に、登校派と休校派がでてきて、激しく罵りあうだけではなく、教員も巻き込んでの混乱が生じているというものだ。
 
 おそらく当事者たちは真剣なのだろう。最初の対立は、オリンピック・パラリンピックの学校連携観戦の実施をめぐってだったようだ。これは確かに、親のアンケートなどをとっていたので、行政が親を巻き込むことにもなった。そして、結論が正式にでるまでに二転三転したし、また、特にパラリンピックは自治体間の相違もあった。

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日本は本当に能力主義社会か8 中教審46答申の検討1

 1966年の答申が出たあと、日本だけではなく、国際的に教育に大きな問題提起をするような事態が生じた。それは1960年代後半、パリのカルチェ・ラタンで起こった青年運動である。それは、瞬く間に先進国に広がり、日本でも大規模な大学紛争が起きる。アメリカでは、学校教育に対する根底的な批判と新しいオルタナティブ教育をめざす学校が創設されていく。そうした青年運動の中心的な問題意識は、既存の学校教育への疑問であった。だから、大学だけではなく、高校や中学にまで影響を及ぼしたのである。
 日本では、高校や大学の進学率があがったが、激しい受験競争が伴っていた。不合格者の自殺者まで出た時代だった。また、高度成長が進んで、国民生活が豊かになった反面、その歪みも目立って来た。特に、都市部における公害は酷く、各地で公害反対運動が激化していた。そして、経済審議会答申が指摘していたように、国際社会・経済における日本の位置に変化が生じ、追いつき型から、創造的な技術開発が求められる状況になってきたと、認識され始めていたのである。

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日本は本当に能力主義社会か7 中教審後期中等教育答申の検討

 経済審議会の答申が1963年1月にでて、文部省は、同年6月に中教審に「後期中等教育の拡充整備について」という諮問を行う。理由として掲げられているのは、科学技術の革新、それに伴う社会の複雑高度化、各種人材の需要等に対応すること、そして、そのために、国民の資質と能力の向上を図るための適切な教育を行うためということをあげている。そして、検討すべき問題点として、
1期待される人間像について
2後期中等教育のあり方について
をあげている。そして、1966年10月に答申がだされたわけである。時期的にみれば、経済審議会の答申を受けて、文部省が「中等教育の完成」に対応する施策をまとめたことになるだろう。中教審の会長は、森戸辰男だった。森戸は、戦前東大の助教授だったときに、執筆した論文が問題とされて東大を追われた人物であったが、おそらく、戦後は、戦前的なリベラリストとして、政策立案に関わることになったのであろう。そして、次の戦後中教審の最も重要な答申といわれる46答申(1971年)をまとめることになる。

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日本は本当に能力主義社会か6 経済審議会答申の検討3 中等教育の完成

 人的能力の開発政策は、教育面においては、ハイタレント要請と中等教育の完成がふたつの柱になっている。今回は、中等教育の完成について、検討する。
 教育訓練の側における能力主義の徹底といっても、それぞれ多様な個性・資質・能力があるから、それに応じた教育は、画一的なものではなく、コースの多様化、進級・進学の弾力化、ガイダンスの強化、試験制度の改善等が必要であるとする。そして、これに、中学で学校教育を終える者のために、その後も何らかの制度的な教育を与えることが、中等教育の完成ということである。ヨーロッパでは、義務教育を終えて、次の全日制の学校に進学しない者は、成人に達するまで、週2回程度学校に通う義務就学の規定があり、企業もそれに協力する必要がある、という体制をとっている国が少なくない。答申の提言は、成人に達するまでではなく、高校教育の終了程度までを想定している。(もっとも、今後日本でも成人年齢が18歳になるから、この制度を実現すれば、成人に達するまでは、すべての者が教育をうける義務をもつことになるのだが、現時点では、そうした政策案は提示されていない。)

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日本は本当に能力主義社会か5 経済審議会答申の検討2 ハイタレントとは

 経済審議会答申の中核は、ハイタレント養成であるように受け取られている。そこで、答申のハイタレントとは、どういう存在なのか、その養成のために何が必要だと提言しているのかを確認しておこう。前回は答申本文を扱ったが、本文のあとに、各分科会報告があり、教育に関係するのは、「養成訓練分科会報告」であり、ここで、ハイタレントを扱っている。
 
 まず、何故ハイタレント養成が必要か。社会的要請と、それに応えられない現状の問題というふたつから主張されている。
 必要性は、日本経済の構造変化であり、新しい経済・技術状況への対応が必要だという点にもとめている。そして、その対応には、自主技術を確立する必要がある。つまり、その後もさんざんいわれ続けたことであるが、追いつき追い越せ型の経済では、欧米の先進技術を学び、それを改良することで、国際競争に参加することができた。しかし、今後は、自主的な技術を開発していかなければ、日本経済が成り立っていかないという危機意識である。この答申では、あまり触れられていないが、結局、その後強力になってくるNIESなどに、既存技術の面では、逆に追い越されてしまい、既存の領域では、むしろ敗北してしまうことになる。実際に、この危機意識は、その後の日本経済の停滞によって、証明されたといえるのである。しかし、当時はまだ高度成長の真っ只中であり、日本の国力がどんどん伸びていた時代だから、こうした、あまりに長期的視野にたった提言は、なかなか理解されなかったともいえる。

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