では、親ガチャ問題はどうしたらいいのだろうか。結論的には、個々の状況によって、異なるのだから、一般的な解決法があるとは思えないが、個人的には、やはり、気持ちを変えること、そして、社会的な制度としては、個人の多様性を許容するシステムにしていくことだろう。
私自身は、親から「ああせい、こうせい」などということは、全く言われず、また自分自身として、親の意向に添う生き方をしようなどとは、微塵も考えずに成長した。つまり、やりたいようにやってきたということだ。しかし、私の親、特に父親は、まさしく親ガチャ的苦しみのなかで、苦闘してきたといえる。戦前の話だが、けっこう優秀だったので、担任の教師がわざわざ家まできて、中学に進ませてやりなさいと、親を説得したが、極貧だったために、親が頑として聞かず、結局、義務教育だけで終了、家をでて、働きにでたが、幸いにも、前回書いた官庁設立の学校を受験して合格、中間管理職になる道筋を、自分で立てることができた。しかし、親への共感度はまったくなく、戦後結婚してから、里帰りは親が無くなった葬式のときだけだった。だから、今生きていれば、親ガチャ論議には、ずいぶん関心をもったに違いない。ただし、そういう父も、結局は、自分なりの人生を掴んだといえる。それは、おそらく、家を飛び出したからこそ、可能性が開けたといえる。