親ガチャ問題を考える1

 今日(10月6日)の羽鳥モーニングショーで、親ガチャ問題を扱っていた。最近よく聞く言葉だ。子どもの人生が、親によって左右され、個人の努力によって変えられないという意味らしい。その程度が強まっていて、それが格差社会を助長しているというわけだ。モーニングショーでは、その典型的な表れとして、東大生の家庭の知的、経済的優越性を例としていた。結局、勉強好きにするような家庭の雰囲気、そして、小学生の中学年から始まる塾での競争を可能にする経済力、そうした要素がないと、子どもが東大に合格しにくくなっている。だから、そういう要素を欠いた家庭に生まれた子どもは、どうしようもないのだ、という番組の主張だった。
 しかし、こうした見方には注意しなければならない。社会の変化をどの程度のスパンで見るかに、大きく影響されるからだ。
 第一に、時代的な流れを見る必要がある。
 ほんの150余年前までは、日本は封建身分社会であり、武士とその他の身分では、生まれによって、大きな違いがあった。武士のなかでも、大名に生まれるのと、幕府の御家人に生まれるのとでも、相当な影響の差が出ただろう。もちろん、そういうなかでも、個人の努力の余地がなかったわけではない。福沢諭吉のように、貧しい下級武士に生まれても、世の中の激動を生き抜いて、歴史に名を残す偉業をなし遂げた人物もいる。

 しかし、現代に比べれば、親ガチャどころではない差が、生まれによってついていたことは間違いないのである。
 明治維新は、下級武士が主体であったし、なんといっても長く続いた封建政治を倒して、新しい社会になったのだから、江戸時代に比べれば、生まれ、つまり親にとらわれず、実力でのし上がる可能性が拡大した。また、近代化が進むにつれて、新しい職種が増えていったことも、親とは異なる道を歩む領域と可能性が増えた。また、戦前は、意外に、貧しくてもなりやすい中間管理層への道が、帝大エリートとは異なる形で存在した。軍隊の学校だけではなく、官庁の設立する学校などである。
 もちろん、戦前は民主主義とは縁のない社会だったから、親に影響されて子どもの運命が制限されるなどということが、「問題」として広く認識されるようなことはなかったといってよい。
 では、戦後はどうなのか。確かに、ある時期まで、今ほどの格差社会でなかったことは事実だ。東大に進学する家庭の裕福さという点で考えれば、私が大学にはいったときには、貧困家庭に育った東大生は、それなりに存在していた。大人にしても、多くの国民が戦死したことによって、生き残った人たちにとっては、思わぬチャンスが訪れたことも否定できない。
 しかし、その後次第に東大生の家庭は、裕福で、管理的な職業に就いている場合が多いと言われるようになっていった。統計でもそれを裏付けられる。それでも、現在のほうが、戦前よりは、貧しい人が東大に合格する可能性は高いだろう。戦前の東大は、私大よりも授業料が高く、中学入試と高校入試という、今より一回多い選抜が、事前にあったからである。当時、貧困層の東大入学者など、皆無に近かったのではないだろうか。
 
 第二に、社会に存在する職種の広がりの問題である。
 社会的成功の基準を大学入試、特に東大などの一部の大学に進学することを基準に考えることが妥当なのだろうか。少なくとも、学歴の格差社会となっていたとしても、他方で、様々な分野での成功の余地が拡大したことも事実である。スポーツの世界でも、プロ選手となって、生活できる、そして一流になれば大きな富を手にいれることができるスポーツが、かなり多くなった。かつては、大相撲とプロ野球程度だったのではないだろうか。また、プロではなくても、アマチュアとして一流になれば、コーチや体育の教師となって、生活が安定できるような範囲も拡大した。タレントをめざして努力している人も多いし、芸能人として活動でき、成功を手にいれる人たちの数も、私が子どものころとは比較にならない。芸術家、企業家なども、可能性が広がっていることは間違いない。
 親が貧しく、知的雰囲気に乏しいといっても、あらゆる才能に欠けているわけでもないだろう。人間誰しも、他の人よりは勝っているという領域があるものだ。しかし、時代の発展状況によって、そうした才能を活かせる余地に差があり、埋もれた才能のままに終わっている可能性も高いのである。社会が発展すれば、そういう余地が拡大することで、親が発揮することができなかった隠れた才能を子どもが引き継いで、新しい社会では、それを活用することが容易になった、そして、その才能を伸ばすということも、格段に広がっているとみるべきだ。
 多くの成功している芸能人は、学校の成績などはよくない。そこにあまり価値をおかず、自分のしたいことを重視した結果として、芸能人として、活躍の場を見いだしているわけだ。そういう意味で、東大生の家庭の裕福さと知的レベルで、親ガチャが「真実だ」などということは、かなり皮相な見方なのではないだろうか。
 むしろ、違う領域で、親ガチャ的な格差社会が形成されている。
 親によって左右され、ほとんど実力とは無関係なのが、政治の世界ではないだろうか。現在の自民党の有力政治家は、ほとんどが二世、三世議員である。今回の総裁選挙に出馬した4人も、3名までが世襲議員である。世襲は、親ガチどころではない。東大生に表れた家庭の格差にもかかわらず、合格はまだ形式的には平等な試験の結果であるが、世襲議員は、そうした実力証明そのものが存在しない。従って、親ガチを問題にするなら、こうした社会の世襲制的側面のほうをより重視する必要がある。何故ならば、世襲制は、ほぼ確実にレベルの低下を引き起こすからである。今の政治家たちの状況をみれば如実にわかる。また、芸能人も二世タレントが増えてきた。
 
 歴史的に振り返れば明瞭だが、親の地位に比較的左右されにくい時代は、混乱期、あるいは社会全体の拡大発展期なのである。幕末から明治維新は、その典型であるし、戦前は、追いつき追い越せの社会で、常に拡大していったし、また、社会が安定したことがほとんどなかった。それでも、民主主義国家ではなかったから、親の地位や財力に子どもは大きく左右されていた。
 戦後もしばらくは混乱期であって、だから、親ガチャとは反対の現象が、現在よりは多かった。バブル期以降、日本は停滞社会となり、その象徴が二世三世議員が、有力政治家の圧倒的割合を占めるようになった。親ガチャなどと言われるようになったのは、この停滞社会を背景にしている。だから、必要なことは、日本社会が停滞から抜け出すことなのだ。
 では、どうすればいいのか、という点が、モーニングショーでも議論されたが、それは私見も含めて、次回にしたい。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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