親ガチャ問題を考える2

 では、親ガチャ問題はどうしたらいいのだろうか。結論的には、個々の状況によって、異なるのだから、一般的な解決法があるとは思えないが、個人的には、やはり、気持ちを変えること、そして、社会的な制度としては、個人の多様性を許容するシステムにしていくことだろう。
 私自身は、親から「ああせい、こうせい」などということは、全く言われず、また自分自身として、親の意向に添う生き方をしようなどとは、微塵も考えずに成長した。つまり、やりたいようにやってきたということだ。しかし、私の親、特に父親は、まさしく親ガチャ的苦しみのなかで、苦闘してきたといえる。戦前の話だが、けっこう優秀だったので、担任の教師がわざわざ家まできて、中学に進ませてやりなさいと、親を説得したが、極貧だったために、親が頑として聞かず、結局、義務教育だけで終了、家をでて、働きにでたが、幸いにも、前回書いた官庁設立の学校を受験して合格、中間管理職になる道筋を、自分で立てることができた。しかし、親への共感度はまったくなく、戦後結婚してから、里帰りは親が無くなった葬式のときだけだった。だから、今生きていれば、親ガチャ論議には、ずいぶん関心をもったに違いない。ただし、そういう父も、結局は、自分なりの人生を掴んだといえる。それは、おそらく、家を飛び出したからこそ、可能性が開けたといえる。

 もし、親ガチャの論議を、どうにもならない自分のいい訳として使うならば、可能性を自ら摘み取ることにしかならい。廻りの大人の価値観から自由になって、自分ができること、したいことを見つけ、それに向けて邁進することが大事だ、ということしかいいようがない。
 
 むしろ、考えたいのは、社会のシステムだ。
 モーニングショーでの皮相な見解は、「ではどうすればいいのか」という議論にも表れていた。貧しい人は塾にも行けないから、不利だ、だから、クーポンのようなものを出して、貧しくても塾等にいけるようにすればよい、などという案を出していたが、対症療法にもならない、およそ学問をしている人のいうような案とは、とうていいえないことを、筑波大学の教授がいっていた。
 クーポンを発行して、塾にいけるようにしても、東大生を生む家庭は「経済力」だけではなく、むしろ、知的な雰囲気、勉強しなさいと言わなくても勉強するように仕向けることのできる親力ともいうべき資質をもっていると、さかんに番組では強調していたのだから、その差は、クーポンで埋められるようなものではないはずだ。この見解の最大の弱点は、偏差値意識から抜けていないことである。現実に、偏差値世界とは無縁な領域をめざしている若者はたくさんいるし、また、そういう世界も拡大しているにもかかわらず、偏差値を前提にした学びの世界の範囲で考えている。大事なことは、そういう思考から、まず抜け出すことだ。
 
 散々言われていることだが、東大合格などという「学力」というひとつの基準で、社会での成功を評価することなど、現実にはあっていない。しかし、教育の問題を扱うと、ともすると学力基準に囚われてしまう。しかし、大事なことは、各人が自分のやりたいことをみつけて、努力し、(努力が許されるだけではなく、励まされ)そのやりたいことを活かすことができることである。他の人から、つまらないと思われることでも、当人にとってはかけがえのないことだ、ということは、いくらでもあるのだ。
 だから、教育を考えるさいに、本当に人々の多様性を許容していくことだ。現在の学校では、普通、学校で学ぶこと以外のことに関心をもち、いろいろと調べたり、知識を広げても、余計なことをしているとして、止めさせられかねない。それは、おそらく、学校が生活の中心で、知識学習だけではなく、集団行動や行事、部活など、あまりに多くのことが課せられる場になっているために、そこに入らない領域は、排除されてしまう。だから、芸能人をめざしたり、部活にないスポーツ選手になろうとする者は、学校生活から一種の退避状態になる。極端な例が不登校だ。
 これは、やはり教師の柔軟性と包容力、どのような資質にも共感できる姿勢が必要であり、そうした教師が増えることを望む。これは、社会的にみれば、既に進行していることなのだ。そして、これまでにない領域や形で、すばらしい成果をあげている若者がどんどんでてきている。二刀流で大リーグを魅了し、野球のあり方を変えるかも知れない大谷。高校生でタイトル保持者になって、高校をやめてしまった藤井、スケートボードという、かつては白い目でみられることもあった競技でメダルをとった複数の若者たち。
 逆のことを考えてみよう。東大をめざしているような高校生の生活は、おそらく多くが単調で広がりに乏しい傾向があるのではないだろうか。進学率をあげて、学校の名声を獲得しようとしている中高一貫の私学では、生徒を受験勉強漬けにし、頻繁なテスト、その発表と、ほとんど他にやることができないような生活を強いているところが少なくない。このような生活のなかから、変化の激しい社会のなかで、有効な生き方ができる人材が育つだろうか。もちろん、文武両道や、芸術的才能に恵まれた者もいる。しかし、それは一部であって、多くは、バイトもやらず、授業、補習、塾に明け暮れているのではないか。つまり、彼らにとって魅力的かも知れない世界が閉ざされている可能性が高いのである。
 
 制度的なこととして、ふたつ具体的に考えられる。
 第一に、進路相談のカウンセラーを養成し、配置していくことである。現代では、学校外にいてもよい。オンラインでの相談でかなりの効果をあげることができる。これまでの日本の進路指導は、ほとんどが進学指導になっている。これは、ずっと以前からそうだ。しかし、中教審の答申によって、進路相談のカウンセラー設置がずいぶん前から提案されているが、いまだに実現しておらず、偏差値を材料にした受験校の振り分けが、事実上の進路相談になっている現状を変える必要がある。欧米では、進路相談のカウンセラーが、学校に配置されていることが多い。だから、将来やりたいことに対して、具体的な職業イメージを与えることができる。欧米でスクールカウンセラーとは、こうした進路相談に対応する人を指しているくらいだ。
 第二に、極めて迂遠なことのように思われるが、競争的入試制度の廃止である。
 要は学校教育における競争的側面をなくしていくこと、制度的には、現在のような入学試験をなくしていくことが、長期的には最も必要である。上で問題となっている家庭の格差との関連は、競争の結果であり、競争が更に格差を拡大している。
 しかし、競争による学習が、人の知的能力を確実に向上させるのならば、それは仕方ない必要悪かも知れない。しかし、受験勉強は、多くの場合、勉強嫌いの最大の要因となっており、また、勉強の成果は受験が終わると忘れられていく。(学力の剥落)
 競争的な入試を温存し、豊かな家庭の子どもは、教育産業の世話になっているから、貧しい家庭の子どもも塾にいけるように、クーポンを与えようなどというのは、問題を更に悪化させるだけだ。格差の是正になることさえ、可能性は薄いというべきだ。(この点については、散々書いたので、ここでは結論のみ書いておく。)
 
 親ガチャなどということが強く言われるようになったのは、社会の停滞の現れである。社会が停滞すれば、若い世代が親によって影響される度合いが確実に高まる。もちろん、安定した停滞社会であれば、人々は安心して生活できる、よい社会といえるだろう。しかし、現代の世界では、停滞社会とは、相対的に劣化する社会でしかないのである。国際社会が、どんどん革新されていくのに、停滞した社会では、社会全体が貧しくなってしまう。そして、人々の活力が失われていくわけだ。自民党の世襲議員の支配は、その象徴である。
 こうした停滞は、多様性の実現こそが打ち破る力がある。特に教師は、偏差値信仰などから、完全に自由になり、子どもの資質を柔軟に伸ばしていける力が必要である。その十分な力をつけることは難しいかも知れないが、心構えをもつだけでも、子どもたちの成長を多いに助けるはずである。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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