鬼平犯科帳の魅力のひとつは、たくさん登場する密偵たちの活動である。平蔵直属の、日常的に密偵として活躍する中心的密偵(彦十、おまさ、五郎蔵、粂八、伊三次)とは別に、あるときだけ活動する密偵たちも多数でてくる。そんな密偵たちを紹介しておこう。「鬼平犯科帳」に登場する盗賊改めの密偵は、すべて元盗賊である。町奉行所の同心についている岡っ引きは、必ずしもそうではないし、また、密偵でもない。むしろ、おおっぴらに活動している。しかし、盗賊改めの密偵たちは、元盗賊であるために、昔の仲間に見つかったら、報復され、命があぶない。実際に、密偵になりたてのおまさは、昔の仲間に密偵になっていることを見破られ、拉致されてしまう。あやういところを平蔵に助けられるわけだが、元盗賊だということは、仲間を裏切ったことになり、そこに非常に屈折した感情が入りこむことになる。密偵として、盗賊の捕縛に協力するわけだが、見逃したい相手もいる。とくに中心的な密偵たちは、たいてい、誰かしら、平蔵に昔の仲間の助命を願い出ていて、それを平蔵は聞き入れる。そういう機微が、密偵たちの活動に深みを与えているのである。
鶴吉
五郎蔵の手下だった若い鶴吉は、盗みにはいったときに女をおかしてしまい、五郎蔵から追い出される。5年ぶりに江戸で会ったときに、五郎蔵は既に長谷川平蔵の密偵になっている。鶴吉は、掻掘のおけいという女族に囲われており、おけいが関わっている残忍な盗賊のために、ねらいの商家に入り込み、引き込みをさせられる。おけいを尾行していた五郎蔵が、盗賊の一味を発見し、平蔵が一網打尽にする。鶴吉は、自ら盗賊改めの捕り物陣のなかに飛び込み自首をする。五郎蔵は、鶴吉が、大阪の同心を殺害しているので、さすがに、報告して助命を願うことはできないと、平蔵に黙っていたのだが、その同心は悪役人だったことを平蔵は考慮し、密偵にする決意をする。
これが7巻目なのだが、密偵鶴吉はなかなか登場しない。そして、「炎の色事件」(23巻)という連載のなかで、わずかに登場するのだ。単純な見張りを言いつけられ、別段変わったことがないという報告をしているだけだ。池波正太郎は、鶴吉のことを忘れてしまっていたのだろうかと思うほどだ。
長十郎と万七
「討ち入り市兵衛」で、平蔵に捕まったが、放免され、密偵になったと書かれているが、密偵として活躍することなく、その後はまったく出てこないのが、長十郎と万七である。殺人を厭わない壁川の源内に、盗みの協力を依頼されたが断った大盗賊蓮沼の市兵衛の子分、松戸の繁蔵が殺され、市兵衛が、繁蔵の敵討ちをする話である。繁蔵が瀕死の状態だったのを、お熊婆さんが助けた関係で、平蔵が仇討ちを手伝うことになる。頭の市兵衛は死んでしまうが、助かったが捉えられた長十郎と万七が、許されてびっくりするわけだ。手助けをしてくれた侍が、盗賊改めの長官だったわけだから。21巻の話なので、もっと続けば、この二人は活躍の場を与えられたのかも知れない。
盗賊の繁蔵が瀕死の重症をおって、お熊ばあさんの茶店で横たわったため、治療する一方、平蔵は万全の備えをして、市兵衛たちの監視をする。そして、市兵衛が敵討ちをすると聞いて、助っ人を申し出るわけだ。盗賊同士の争いに、平蔵がかかわるというのも妙な話だが、長谷川平蔵は、盗みの三原則(殺さず、おかさず、貧しい者からとらず)を守りきる盗賊が好きなのだ。下に述べる平野屋源助も同様だ。市兵衛が死なずに済んだとしても、迷いつつ許そうとしただろう。しかし、現役の大盗賊を許すこともできないし、当人が承知しないかも知れない。そこで、乱闘のなかで切り死にしたという結末にしたのかも知れない。
弥吉
次は、密偵になったあと、すぐに活躍する玉村の弥吉の話である。
同じく密偵の泥亀の七蔵が、奇妙な顔の玉村の弥吉を見たと報告することから、捜査が始まる。弥吉を見張っていると、その絡みで、ある武士が街をぶらぶらしていることにぶつかり、体格が大きく強そうに見えるが、ある浪人ものにさんざん痛めつけられ、そこを平蔵に救われる。弥吉が、あるとき、吉野屋という大商人の家に一人で忍び込むのを、監視していた盗賊改めが発見し、やがて弥吉が出てきたところを捕縛する。すると、意外なことがわかった。弥吉が出入りしていた家で、件の武士は密会しており、実,は、その武士のかっこうをしていたのが、吉野屋の主人で、女房の尻に敷かれていた憂さ晴らしをするために、武士の格好をして、町人たちにへいこらされるのを楽しんでいただけであり、その世話をしていたのが弥吉であることがわかった。いよいよ、弥吉が関西のほうに帰ることになり、弥吉がひとり忍び込んで、寝ていた吉野屋の女房の髪の毛を切ってしまう。ただそれだけのことをしていたに過ぎないのだった。
捉えられた弥吉は、いかなる拷問にも屈せず、何も白状しなかったのだが、密偵になるような説得に、それなら首を跳ねてくれという。いよいよ覚悟したとき、弥吉は放免され、わけがわからず、かえって恐怖にとりつかれて、結局、精神の安定をえるために、密偵になることを招致する。
ちなみに、盗賊が忍び込んで、女性の髪を切ってしまう話は、前にもでてくる。平蔵が継母にいじめられていることをきいた盗賊の鶴の忠助が、平蔵のために復讐してやるという話だ。
21巻で登場した弥吉は、次の22巻の長編「迷路」で早速活躍する。迷路は、平蔵がぎりぎりのところまで追い込まれ、火付け盗賊改めを解任されたあとに、かろうじて始まっていた作戦をとることを許され(許可をとったのは平蔵ではなく、余力の佐嶋)、盗賊たちを捕縛することができた事件である。そして、その主犯は、平蔵が若いころに右腕を切り落とした だった。
さて、弥吉がぶらぶら歩いているときに、法妙寺の九十郎という盗賊の頭に声をかけられ、仲間に入ることを求められる。そして、平蔵の了解の下で、九十郎に強力して、様々な情報をもたらすのである。そして、節度をもった盗賊たちとの接し方に、平蔵が感心する場面が多数でてくる。ただし、その感心の仕方が、積極的に密偵としての探索をしたというよりは、むしろ、行動を慎み、相手に怪しまれないように、節度をもって九十郎に対応したことだ。「迷路」では、平蔵は、不自然なくらい秘密の探索行動をするのだが、それが弥吉の高い評価につながっている。しかし、読者としては、少々もの足りない感じを否めないのだ。
茂兵衛
密偵にある過程が明確で、その後もたびたび協力する密偵は、「穴」事件の平野屋源助と昔手下だった茂兵衛である。源助は関西の大盗賊だったが、引退し、江戸で扇屋をしている。しかし、沸き起こる盗賊魂に駆り立てられ、となりの化粧品屋に忍び込んで300両を盗み取る。自分の家から、となりまで穴をほって、密かに入り込み、隣同士なので、呼ばれたときに金倉の錠前の型をとってしまうわけだ。盗賊改めの捜査は行き詰まり、迷宮入りかと思われたが、型から錠前をつくった職人と偶然あった密偵宗平が、源助の犯行聞き出し、化粧品屋の床下に穴があるのを密偵がみつけ、穴を逆に入り込んで、源助を逮捕するというわけだ。しかし、昔の大盗賊にしては、平蔵に踏み込まれたあと、失神したり、かなりだらしない姿をみせるのは、少々興ざめだった。
源助というよりは、茂兵衛が密偵として、かなり活躍する場面が出てくる。しかも、昔の手下を使っての巧みな尾行で、何度も事件解決に重要な役割を果たしている。
こうしてみてくると、盗賊の頭だった者は、許されて密偵として活用される。しかし、単なる盗賊だった者は、活躍の場をあまり与えられないか、不運にも事件のなかで死んでしまう。密偵も格差社会なのか。