メンゲルベルクのこと

 徳岡直樹氏のyoutubeで、メンゲルベルクを扱っていたので、興味深く聞いた。メンゲルベルクは、戦前のオランダの指揮者で、コンセルトヘボー管弦楽団を50年間指揮し、世界のトップオケに育て上げた偉大な指揮者だ。しかし、ナチスに占領されたオランダで、ナチスに協力したということで、戦後演奏活動を禁止され、その後解禁されたが、演奏再開の直前に亡くなった。20世紀前半の偉大な指揮者として、フルトヴェングラー、トスカニーニ、ワルターをあげることが多い。ここにメンゲルベルクを加えるのが妥当だろうが、なにしろLPが発明される前に演奏活動を終えてしまったので、録音を通して知ることが多い戦前の指揮者としては、メンゲルベルクは非常に不利であるし、フルトヴェングラーやカラヤンは2年の禁止期間だけだったが、メンゲルベルクは6年も禁止されていたのが、不幸だった。
 私がメンゲルベルクを聴いたのは、チャイコフスキーの悲愴だけだが、ずっと関心はあった。そこで、徳岡氏によって、情報を与えられたので、少し考えてみたいと思ったわけだ。

 
 私が初めてクラシック音楽を聞き始めたのは小学生のときで、そのときはまだ我が家ではSPレコードだった。当時すでにLPはあったのだが、父が病気で長期入院していたなどのためだったろうが、病気前に入手していたものを聴いていたのだ。ワルター、ウィーンフィルのものが多かったが、そのなかに、メンゲルベルクの悲愴があった。これは、とにかく有名なもので、いわゆる主観的演奏の極地のようなものだった。とにかく、テンポが動く。後に楽譜を手に入れてから、いかにメンゲルベルクの演奏が、楽譜とは異なることをやっていたかがわかったが、小学生にはわからず、こういう曲なのだと思っていた。その後LPになって、カラヤンの演奏を聴いたとき、楽譜に忠実なカラヤンの演奏が、変に聞こえたものだ。そのくらい、「自由」な解釈だった。徳岡氏も述べていたが、戦前の紹介書籍に、メンゲルベルクはチャイコフスキーの遺族から、オリジナルの楽譜をみせてもらって、作曲者の本当の意図を知った上で、あのような演奏をしたのだ、と書かれているのを、私も当時読んでいた。しかし、それなら、何故メンゲルベルクがやったような速度表示を、作曲者がしていないのか。
 メンゲルベルクは、とにかく戦後演奏を禁止されていたし、LPでの新録音はなかったために、その後は、まったく聴く機会がなかった。従って、メンゲルベルクに関しては、オランダにいったとき、再び話題になった。
 一度だけだが、コンセルトヘボーの演奏会にいったことがある。残念ながら、オーケストラの演奏会ではなく、チェロのシフのバッハプログラムだった。音楽ホールとしてのコンセルトヘボーは、当然オーケストラの本拠地だから、歴代の指揮者の写真が飾ってあった。しかし、メンゲルベルクのものはなかったのである。50年も常任指揮者だったのに。今は、オランダでも再評価が進んでいるので、再掲載されているかも知れないが、1992年当時はまだ、一般的には忌避される存在だったのだろう。
 高校の先生と、メンゲルベルクのことを話題にしたことがあったが、彼は、まったく聴かないし、その意志もない、あれはけしからん奴だという感じで語っていた。日本ではメンゲルベルクのCDは売っているのかと聞くので、たくさん出ているというと、驚いていた。確かに、メンゲルベルクには、政治的に問題があると思うが、音楽家としては偉大な人だったというと、それには同意してくれた。
 このように、長い間メンゲルベルクは、ナチスに協力した指揮者ということで、批判され続けきたし、録音方式がまったく変わって、古くさい録音が顧みられない時代になって、指揮者というより、政治との関連で語られることが、多かった。その点では、カラヤン以上だったといえる。
 しかし、カラヤン同様、戦後の価値観や立場で、当時の音楽家の活動を、そのまま論評することには、私はあまり賛成できないのである。ベルリンフィルの指揮者になったとき、ラトルは、カラヤンについて、現在の立場で、戦前の困難ななかでの活動をみて、断罪することには慎重であるべきだと述べているが、私も同感だ。もちろん、賛成するということではないが、ナチスのような凶悪な政治集団が権力を握ったときに、それに抵抗することは難しい。カラヤンやフルトヴェングラーを批判する人たちは、では何故亡命しなかったのかということだろう。
 しかし、逆に見ると、当時ドイツの芸術家で、ユダヤ人のように余儀なく亡命した人は別だが、自らの意志で亡命した人で、戦後ドイツで温かく迎えられた人は、ほとんどいないということも事実だ。トマス・マンは、ドイツに一時帰国したとき、冷たく扱われたし、それに不快感をもったマンは、その後ドイツにいかなかった。音楽家でも、ナチスに反対して、アルゼンチンに亡命したエーリッヒ・クライバーは、戦後、東ドイツに復帰したが、直ぐに辞任し、その後はウィーンが主な活動場所だった。が、それも、実力に見合ったものではなかった。一般市民は簡単に亡命などできないわけで、彼らからすれば、自分たちを見捨てていった人だ、ということになる。亡命せず、残って、ナチスに協力しているとしても、自分たちのために活動してくれた人たち、という意識が、戦後になっても鮮明にでていた。だから、フルトヴェングラー、カラヤン、ベームなど、絶大な人気を保持できたという側面もある。しかも、まがりなりにも、ナチス政権は、最初は選挙で選ばれた政府だった。
 
 メンゲルベルクの場合はどうだったのだろう。
 徳岡氏の指摘で知ったのだが、ナチスに占領されたオランダ政府は、王室とともにイギリスに亡命し、ロンドンに亡命政府をおいていた。そして、当時の女王が、メンゲルベルクがナチスに協力していることを、非常に不快に思って、戦後断固許さなかったという。自らが亡命したわけだから、女王からすれば、自分と一緒にくるべきだったということだろうが、残されたオランダ国民にとっては、どうだったのだろう。
 
 今はyoutubeにメンゲルベルクの演奏がたくさんあるので、なつかしい悲愴を一部聴いてみた。そして、確かに思い出として蘇ってきた。一楽章第二主題の濃厚に味付けされたロマンチックな演奏を聴いたあと、今の演奏を聴けば、なんと薄味なんだろうと思うに違いない。そして、あそこまで、つまり、弦楽器の本当に微妙なポルタメントや頻繁に動くテンポを徹底させることは、よほど長い信頼関係で結ばれた指揮者とオケの関係なしには、不可能だろうと思う。客演にやってきた指揮者が、あのようなことを要求したら、楽団員からの反発が必至だと思う。それをやってのけることで、メンゲルベルクとコンセルトヘボーオーケストラの関係がわかる。
 時間があったら、もう少し、いろいろと聴いてみたい。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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