国民の教育権論の再建3 批判されてきた弱点1

 国民の教育権論は、実は当初から決定的な弱点があったが、1950年代、政府文部省が、戦後の民主主義的な改革を否定し、国家統制を強めようという施策を次々と打ち出したことに対して、教育運動として抵抗する勢力にとって、その勢いを鼓舞し、正当化する議論として、強い影響力をもった。
 しかし、いわゆる勤評闘争で、保護者や地域住民の支持を訴えに入った教師たちに、「あなたたち教師は、子どもを評価しているではないか、なぜ教師は評価されてはいけないのか」という疑問が寄せられたという。おそらく、そのように言われた教師たちは返答に詰まったのではないだろうか。

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国民の教育権論の再建2 堀尾論の検討2 自由権と社会権

 国民の教育権論の再検討として、今回は、自由権と社会権の関係、そして、学習権を認めることは、具体的にどのようになるのかという点を考察する。
 
 教育権を論じるときに、教育の自由や教育を受ける権利(就学権)を並列して論じているが、しかし、「教育の自由」は、当然自由権に属し、教育を受ける権利と国家による保障は社会権に属する。自由権は国家の不干渉を求める権利であり、社会権は国家の関与を求める権利である。従って、「教育の自由」と「教育を受ける権利」は、並列して成立する概念ではない。教育を受ける権利は、国家が学校を建設し、教師を養成して、子どもの教育を保障することである。
 他方、教育の自由は、その範囲は広く、最大限で考えれば、「学校設立の自由」「教育内容制定の自由」「教師の教授の自由」「親・子どもの学校選択の自由」等を含む。そして、これらを並列しているだけでは、実は、「教育の自由」は現実的な権利にはならない領域が多いのである。並列ではなく構造化が重要になる。
 例として「学校設立の自由」を考えてみよう。現在、日本も含めて、ほとんどの先進国では、私立学校を設立する自由が認められている。しかし、日本では、学校教育法に規定された一条校としての私立学校を設立するためには、極めて厳しい設立基準があり、一般の人が学校を設立することは不可能といってよい。そうすると、実態としては、学校設立の「自由」は存在しないに等しい。今、教育的理想に燃えて、その実現のために学校を作って、教育活動に邁進したいと思っても、そんなことは事実上できないのである。それは、私立学校を選ぶ権利としての学校選択の自由があるといっても、十分に多様な私立学校があるわけではない。むしろ、高校以上になると、ある部分では、公立の学校にいけないから私学にいかざるをえないという側面もある。

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国民の教育権論の再建2 堀尾論の検討1

 「教育の私事性」論の崩壊について書いてきたが、本家である堀尾輝久氏の論で、見ておこう。 
 簡単に私の問題意識を整理しておくと、国民の教育権論が破綻したのは、「私事性の委託として、教師の専門性が位置づけられる」というが、「委託」を抽象的にしか位置づけなかったこと、そして、実際に文科省から「委託」の具体的な提起(学校選択)されたとき、反対したことによって、論理としても「委託論」を棄ててしまい、私事性論が成立しなくなった。従って、国民の教育権論を再構成するためには、「委託」を具体的な制度構想をともなった論理を構築する必要があるということである。
 今回は、堀尾氏の論を直接検討することで、氏の私事性論の弱点を示したい。
 対象としたのは、『人権としての教育』(岩波書店)の主に第一章で、「国民の学習権」という題がついている。本の初出は1991年だが、この論文は1986年7月で、国民教育研究所編『国民教育』68号に掲載されたものである。

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国民の教育権論の再建1 何故国民の教育権論は喪失したのか

 『教育』の私事性論文の批判を書いていて、そろそろ、本格的な論文を書くべきではないかという感覚になってきた。私にとっては、やはり教育権に関する論理をしっかり構成することを、第一の課題にしている。国民の教育権論が事実上崩壊し、それに代わる教育権論が登場していない以上、国民の教育権論の再建が必要である。
 そのために、これから、いくつかメモ風の文章をここに書いていくことにする。
 『教育』の論文批判にも書いたように、国民の教育権論が崩壊したのは、私事性理論が、重要な「委託」の部分を構成しなかったからである。しかし、いくつかの文献を読み直して、妙なことに気がついた。 “国民の教育権論の再建1 何故国民の教育権論は喪失したのか” の続きを読む

『教育』2021年11月号を読む 教育の私事性論は、どこに弱点があったのか

 『教育』2021年11月号の特別企画として、「今に生きる戦後教育学」と題する二本の論文が掲載されている。
 大日方真史「なせいま私事の組織化論か」
 福島賢二「私事の組織化論を教育の公共性論として発展させる」
である。前者が問題提起をして、後者がその検討をするという構成になっている。題からわかるように、国民の教育権論の中心的概念のひとつであった「私事性」に関する議論を、今日的に発展させることを意図している。しかし、大日方氏が書いているように、「1980年代以降、国民の教育権論は歴史的使命を終えたという評価もある」から、「今に生きる」と認識できるのかどうかも、議論の対象になるはずである。実際に、私は、国民の教育権論とこの私事性論は、議論としては死んだ、より正確にいうと「自爆した」と考えている。従って、そのことを認識しない二人の議論は、今後国民の教育権論を再生して活かすにしても、大きな壁にぶつかるといわざるをえない。 “『教育』2021年11月号を読む 教育の私事性論は、どこに弱点があったのか” の続きを読む

日本は本当に能力主義社会か11 岩田龍子の議論から2

 前回は、日本が能力評価を基礎にしているので、教育の荒廃が生まれていくという岩田氏の論を元に考察した。
 岩田氏によれば、日本は、能力評価であるが故に競争が熾烈になっている。そして、単に個別の領域における評価ではなく、全人格的な競争になってしまう。そして、能力が明らかになったとき(大学入試)、競争は終わるという。(自分の能力はこのくらいだ。)現在は、状況に多少の変化はあったとしても、だいたいにおいて、岩田氏の指摘は妥当であると思われる。
 大学入試ですべての競争が終わるわけではなく、これは第一段階であり、第二段階として、社会的威信の高い集団への加入競争があり、そして、そこに加入できると、第三段階として、そこでの昇進競争がある。しかし、それらすべてにおいて、特定領域でき「実力」が判定基準になるのではなく、潜在的可能性を示す「能力」評価によって行われる。そして、それ故に、日本的な様々な特質が現れるという。
・全人格的な競争があるが故に、競争への忌避感も強い。仕事の負担が違っても、給与は同じなど。
・職場は、特定の仕事をする人々の集まりではなく、人間協働集団であり、同僚が欠席したら、他の人が補う。確かに、私がオランダで生活していたときには、役所や銀行にいったときに、「今日は担当が休みなので、応じられない」と言われたことが何度もあった。日本なら、当然他の従業員が代わりにその仕事をするだろう。 “日本は本当に能力主義社会か11 岩田龍子の議論から2” の続きを読む

日本は本当に能力主義社会か10 岩田龍子の議論から1

 岩田氏は、日本を能力主義社会と規定しているわけではない。学歴主義という規定での能力の問題を扱っている。そして、そこには、大いに参考にすべき、そして検討すべき論点があるので、2回に渡って考察したい。

 岩田氏は、「実力」と「能力」を区分する。それは一般的な区分法とはいえないが、とりあえず岩田氏の意味で理解しておこう。「実力」とは、特定の分野のことを遂行できることで、分野が特定されていることが特質である。それに対して「能力」とは、潜在的な可能性をもっていることで、更に、特定の領域における可能性と、領域にとらわれない一般的な潜在的能力とにわかれる。 “日本は本当に能力主義社会か10 岩田龍子の議論から1” の続きを読む

親ガチャ問題を考える2

 では、親ガチャ問題はどうしたらいいのだろうか。結論的には、個々の状況によって、異なるのだから、一般的な解決法があるとは思えないが、個人的には、やはり、気持ちを変えること、そして、社会的な制度としては、個人の多様性を許容するシステムにしていくことだろう。
 私自身は、親から「ああせい、こうせい」などということは、全く言われず、また自分自身として、親の意向に添う生き方をしようなどとは、微塵も考えずに成長した。つまり、やりたいようにやってきたということだ。しかし、私の親、特に父親は、まさしく親ガチャ的苦しみのなかで、苦闘してきたといえる。戦前の話だが、けっこう優秀だったので、担任の教師がわざわざ家まできて、中学に進ませてやりなさいと、親を説得したが、極貧だったために、親が頑として聞かず、結局、義務教育だけで終了、家をでて、働きにでたが、幸いにも、前回書いた官庁設立の学校を受験して合格、中間管理職になる道筋を、自分で立てることができた。しかし、親への共感度はまったくなく、戦後結婚してから、里帰りは親が無くなった葬式のときだけだった。だから、今生きていれば、親ガチャ論議には、ずいぶん関心をもったに違いない。ただし、そういう父も、結局は、自分なりの人生を掴んだといえる。それは、おそらく、家を飛び出したからこそ、可能性が開けたといえる。

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親ガチャ問題を考える1

 今日(10月6日)の羽鳥モーニングショーで、親ガチャ問題を扱っていた。最近よく聞く言葉だ。子どもの人生が、親によって左右され、個人の努力によって変えられないという意味らしい。その程度が強まっていて、それが格差社会を助長しているというわけだ。モーニングショーでは、その典型的な表れとして、東大生の家庭の知的、経済的優越性を例としていた。結局、勉強好きにするような家庭の雰囲気、そして、小学生の中学年から始まる塾での競争を可能にする経済力、そうした要素がないと、子どもが東大に合格しにくくなっている。だから、そういう要素を欠いた家庭に生まれた子どもは、どうしようもないのだ、という番組の主張だった。
 しかし、こうした見方には注意しなければならない。社会の変化をどの程度のスパンで見るかに、大きく影響されるからだ。
 第一に、時代的な流れを見る必要がある。
 ほんの150余年前までは、日本は封建身分社会であり、武士とその他の身分では、生まれによって、大きな違いがあった。武士のなかでも、大名に生まれるのと、幕府の御家人に生まれるのとでも、相当な影響の差が出ただろう。もちろん、そういうなかでも、個人の努力の余地がなかったわけではない。福沢諭吉のように、貧しい下級武士に生まれても、世の中の激動を生き抜いて、歴史に名を残す偉業をなし遂げた人物もいる。

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教師への超過勤務手当て不支給を違法ではないが、実情にあわないとした判決

 埼玉県の教師が、教師の超過勤務に残業手当を出さないのは違法であると訴えた訴訟に対する地裁の判決が出た。形式的には、原告の敗訴であるが、実質的にはかなり勝訴に近いといえる。
 現在、教師に対しては、勤務時間外に命じることができる勤務内容を限定している。そして、その時間外勤務に対しては、超過勤務手当てを支給しないかわりに、4%の特別手当てを支給する体制になっている。しかし、実態は、限定された内容以外に、非常に多くの時間外勤務が行なわれ、事実上強制されている。それは違法ではないか、というのが、提訴の理由である。多くの教職員から支持が寄せられ、私も確か応援メールをだした記憶がある。
 判決は、教職員給与特別措置法(教特法)によって決まっており、違法ではないと結論付けた。法解釈の大原則として、一般法に対する特別法の優位というのがあり、労働基準法よりは、教特法が特別法であるから、法解釈上は、教特法に従って判決をせざるをえない。だから違法ではないとしたのである。

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