国民の教育権論の再建4 教育権の基本要素1

 少しずつ、国民の教育権論の再建に関する論考を積み上げているが、今回は、最初の権利論の出発について考えてみる。
 
 教育権論は、当然教育法学の最も重要な根幹であるが、いくつもの立場があり、それを正確に自覚しなければならない。
 まずは、法学としての立場である。権利論だから、ここでは法社会学的立場は除くことにする。すると、
1 憲法解釈に基礎を置く教育権論
2 現行法令に基づく教育権論
3 憲法を超えた理念的教育権論
の3つの立場を区別することになる。多くの国民の教育権論は1の観点から議論しているように思われる。もちろん、1と2を含む解釈が求められるが、現在の日本の法の実態として、憲法と他の教育法令に大きな原理的な差があると、国民の教育権論の立場からは理解しているから、1と2が区別されることになる。

 しかし、では日本国憲法は、教育権について十分な規定となっているかといえば、今日的な視点からみれば、不十分なことが少なくない。そのために、未来の教育構想の立場からすれば、3の視点を欠かすわけにはいかないのである。私自身は、専門が教育法学ではなく、教育制度論なので、より、原理的に制度を考える立場から、教育権について考察する必要がある。そして、そのあとに、憲法や法令の解釈や変更を考えることになる。
 もうひとつは、教育法学と教育学の関係である。私の見る限り、多くの教育法学の論文は、法律学の論理をとっているが、しかし、教育法学である以上、教育学を基礎においていなければならない。兼子仁は、それを教育条理と呼んでいた。尤も、兼子の教育条理論が、教育学理論にどれだけ立脚していたかは、検討の余地はある。
 
 さて、教育は実践・行為だから、実践としての教育の諸側面を確認する必要がある。単純にいえば、教育は、教育をする人(通常教師、校長、親)と教育を受ける人(子ども)がいる。従って、教育権は、まず「教育をする権利」と「教育を受ける権利」が存在する。(このことは、当たり前のことで、ずっと言われることであるが、国民の教育権論においては、教育をする権利は、「教師の教育の自由」という概念に矮小化されている。)「教育をする権利」は、更に、「学校を設立する権利」と「教授の権利・自由」とに区分される。つまり、大枠としても
 
・教育をする権利 ・学校設立の権利・自由
         ・教授(教育)の権利・自由
・教育を受ける権利
 
という構成になる。
 現日本国憲法に規定されているのは、厳密にいえば「教育を受ける権利」だけであって、教育をする権利が、親権として民法に規定され、教授の自由が、国民の教育権論の立場から、憲法23条などの解釈として規定されているとしているに過ぎない。
 もちろん、国民の教育権論を再建するためには、「教育をする権利」を抜かすわけにはいかない。なぜならば、教育をすることこそ、教育の始まりであり、決して教育を受けることが原初ではないからである。(最も体系的な教育法である兼子仁『教育法(新版)』(有斐閣)も、学校設立の権利について、まとまった形で論じてはいない。)
 教育という実践、行為は、最初に子どもの学習があるのではなく、まずは親あるいは親の属する共同体が、未来を担う子どもを育て、教育するという意識で働きかけることから始まるのである。そして、親が子どもに対して意図的に教える内容は、その生活形態によって根本的に異なる。文字文化を教えるために学校が設立されたが、近代社会までは、それ以外の職業的能力や倫理は、学校以外の場(労働現場や教会、家庭)で教えられたが、次第に学校のなかに包摂されていく。従って、学校そのものに求めるものが、社会の分化に伴って、多様に存在していることは、否定できないことである。義務教育が始まってから、すべての国民を対象にするようになると、それまでの伝統的な学校教育の方法では対応できなくなり、新しい方法が多数創造されることになった。(新教育)そして、それは現在でも続いている。つまり、学校教育に求める教育内容も、教育方法も多様であることは、教育制度を構成する上で、最大限考慮されるべきことなのである。
 義務教育制度や更に続く中等教育は、国民国家における国民としての統合意識の形成と、産業革命によって要請された労働者の資質の涵養ということから、ある種の統一的なスタイルと内容が定着したが、それは、社会にある多様な要求を押しつぶす形で行われたのである。当然、本来あるべき多様な学校形態を実現することが、教育学的な視点から必要である。そして、権利としては、「学校設立の自由と国家による保障」となる。それが具体的にどのような制度であるかは、現実に存在する形としては、オランダ型とデンマーク型がある。またアメリカのチャータースクールも部分的に妥当する。(それぞれの型についてと、可能な形態、および必要な要素については、別に論じる)
 この「学校設立の自由と国家による保障」は、日本における「私立学校設立の自由」は、きわめて限定されたもので、到底「保障」がなされているとはいえない。従って、国民の教育権論として、私立学校設立の自由の形の批判が不可欠だが、それはほとんどなされていない。
 
 学校設立の自由とは、ある特定の教育目的・内容、方法に基づいて学校を設立する自由である。日本の私立学校は、教育内容の大部分は国家によって決められており、自由なのは道徳教育を宗教教育によって代替できることと、方法も学習指導要領の範囲で多少の自由があるに過ぎない。従って、学校設立の自由を認めることは、教授の自由(教師の教育の自由)を認めることを必然的に要求する。逆にいえば、学校設立の自由があってこそ、教授の自由が存在しうる。日本のように、学習指導要領によって、内容や方法の多くが規定されていれば、教師の教育の自由などは、ほとんど存在の余地がない。だから、国民の教育権論は、学習指導要領の拘束性を否定する。
 では、仮定として、学習指導要領が存在せず、以前のヨーロッパの多くの国のように、内容や方法の基準が存在しないとしよう。そこで、教育を受ける権利はどのように機能するのか。そこには、道徳的価値観(宗教も含む)や教え方について多様になるし、また、教育内容についても、基本教科はそれほど相違がないとしても、芸術、生活、体育などについては、学校ごとにかなりの重点の置きかたが異なってくるはずである。歴史教育や理科教育については、特殊な教育をする学校も出てくるに違いない。
 現在の学校制度のように、義務教育で住居によって指定すること、また、義務教育後に関して偏差値的な学力で振り分けることは、完全に不合理になる。教育を受ける側が、自分の欲する教育を選択できなければ、「教育を受ける権利」が保障されているとはいえない。すべての教育法学者が認めているように、義務教育学校の通学区指定は、どの学校も一定の水準を保障しているから成立しうるのだが、教育の自由が認められて、本当に自由が行使され、多様な教育が実現することになれば、通学区指定の下では、望まない教育を強制される子どもがたくさんでることになる。通学区指定と拘束力のある学習指導要領は、実は不可分の関係なのである。国民の教育権論は、この点を無視している。
 多様な高校が存在していれば、これも、その学校の提供する教育を望んだり、あるいは適性があることで進学するのが適切で、その適性とあまり関係ない学力の有無で判定することは、適性や能力の無視であり、社会的にも無駄を強いることになる。
 いずれの場合でも、「教育を受ける権利」とは、入る学校を、入る者が選択することなしには、充足されないのである。
 何度も指摘しているように、国民の教育権論の中心的理論であった「委託論」は、学校選択をこそ求める論理のはずなのである。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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