エルシステマは健在のようだ

 久しぶりにエルシステマの記事を見た。https://www.afpbb.com/articles/-/3375803 一緒に演奏する人数を競う記録で、ギネスブックに挑戦したということだ。1万2000人が一緒に演奏したとして、写真もでている。エルシステマで育ったひとたちが参加するのだから、空間があれば、もっと大人数でも可能だったろう。椅子と譜面台が必要だから、1万人が演奏するというのは、何よりも場所の問題があったのだろう。飛行場などを活用すれば、5万人くらいでも一糸乱れない演奏ができるはずである。
 ベネズエラの政情と経済が不安定になっていることは、ずいぶん前から言われていたので、エルシステマがどうなっているか心配だったが、どうやら継続してやっているようだ。元気づけのための挑戦だったのかも知れない。

 
 エルシステマはベネズエラが世界に誇る音楽運動だ。そして、エルシステマから育ったトップレベルの演奏家が、世界中で活躍している。その代表がドゥダメルだ。簡単にエルシステマについて説明しておこう。
 学者であり政治家だったアブレウという人物が、1970年代に始めた子どもによるオーケストラ活動だ。幼稚園児くらいから参加可能で、楽器が無償貸与され、謝礼などはいらない。平日はほぼ毎日放課後に練習が4時間程度ある。オーケストラは技術段階でいくつかに分かれていて、基礎的団体は各地にあり、段階が高くなるにつれて、広域になっていく。全国レベルの最高水準の団員になると、以前は援助金がだされていたが、経済不安定で今はどうなっているかわからない。時期によって異なるが、だいたい30万人から50万人くらいの参加者がいる。初期のメンバーは、プロオーケストラになって活動しているし、青少年オケのトップは世界で演奏会を開いている。私は、一度だけ、中高生を中心としたオーケストラを聴いたことがあるが、大人のプロオケとまったく遜色がない演奏で、びっくりした。リヒャルト・シュトラウスの「ドン・ファン」と「英雄の生涯」がメイン・プログラムだったが、耽美的なシュトラウスの音が鳴り響いていた。ただ、あまりにサービス精神が旺盛で、何曲もアンコールをやるので、遠くに帰る必要がある娘がかなりあせってしまったのが、「過ぎたるは及ばざるが如し」だった。
 
 さて、私がエルシステマで最も重要だと思うのは、従来の楽器演奏の修得に関する概念を、完全に変えてしまったことだ。通常バイリオンとか、ピアノなどのクラシック音楽の楽器を修得するためには、早い時期から、徹底的に練習をしなければならないのだが、通常個人レッスンの形をとる。孤独な作業だ。友達が外で遊んでいるときに、ひたすら練習するというのは、やはり、特別な環境(親の能力や意欲)と本人の意志、才能がなければ不可能である。私も自分の子どもに楽器を習わせていたが、そこで他のひとたちや先生の話を聞いて確信をもったことは、毎日の練習時間と上達の度合いはほとんど比例するということだ。世界でトップクラスの演奏家は、小さいときから毎日5時間くらいは練習している。五島みどりがバイオリンを始めたいといったとき、母親は毎日5時間練習することを、絶対的に約束させたという。五島みどりは、それをきっちり守って練習に励んだから、あのような天才バイオリニストに成長したわけだ。
 しかし、小さな子どもが、バイオリンを練習するというのは、かなり苦痛なことで、普通の子どもは10分程度でやめたくなる。1時間やればかなり上達するが、プロにはなれないだろう。そして、時間が伸びるほど、実力も確実に伸びる。言い換えると、才能とは練習できること、あるいは、好んで練習することなのだ。ほとんどの子どもは、始めても練習時間の壁で振り落とされ、過酷な練習時間に耐えた、つまり、練習を苦痛だと思わなかったごく一部の者が優れた演奏家に育っていく。
 ところが、エルシステマはこのことを見事にひっくり返したわけだ。もちろん、練習と上達の関係はそのままだ。変えたのは、孤独な練習ではなく、みんなで一緒にやるから、長時間の練習が自然に可能になってしまうということだ。普通は、個人レッスンを経て、一定以上の技術を獲得する段階で、青少年オーケストラなどに参加するから、参加する前に多くが挫折して楽器を放棄してしまうが、エルシステマは、最初からオーケストラのなかで学び始めるのだ。人間は、多くのことで、一人で取り組むより、仲間と一緒に取り組んだほうが、効率的であり、かつ楽しくできるものだ。エルシステマに入ると、毎日4時間程度の練習があるのが、それをみんなで、一緒にやっていく。4時間遊んでいるようなものだ。そのなかで楽しさを感じたものは積極的に継続して、どんどん上達していく。もちろん、なかにはどうしても好きになれないから、脱落していく者もいるだろうが、それは仕方ない。
 あまり科学的ではないが、1万時間の法則というのがある。どんなことでもかなりの水準に達するためには、1万時間程度の訓練が必要であるということだ。毎日5時間練習すると、1万時間には4年半かかるので、4歳くらいから始めると、9歳くらいにはかなりの水準に達する。五島みどりは9歳のときに、録音したテープをアメリカの有名なバイオリン教師ドロシーディレイが聴いて、みどりをアメリカに呼んだくらいの水準になっていた。エルシステマの子どもたちは、毎日4時間練習するとして、7年くらい後にはかなりの水準になるわけだ。もちろん、本当に専門家としてやっていくためには、更に精進が必要だが、かなりの演奏家が育つ可能性は疑いない。重要なことは、ごく普通の子どもたちでも、毎日かなりの練習量をこなせるシステムを作ったということだ。
 なお、ベネズエラで、かなり多額の予算を必要とするエルシステマが、社会的に容認されているのは、オーケストラ活動によって犯罪から守る、また犯罪者にならないような生活を可能にするからだ。その点は、別途紹介したい。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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