日本は本当に能力主義社会か10 岩田龍子の議論から1

 岩田氏は、日本を能力主義社会と規定しているわけではない。学歴主義という規定での能力の問題を扱っている。そして、そこには、大いに参考にすべき、そして検討すべき論点があるので、2回に渡って考察したい。

 岩田氏は、「実力」と「能力」を区分する。それは一般的な区分法とはいえないが、とりあえず岩田氏の意味で理解しておこう。「実力」とは、特定の分野のことを遂行できることで、分野が特定されていることが特質である。それに対して「能力」とは、潜在的な可能性をもっていることで、更に、特定の領域における可能性と、領域にとらわれない一般的な潜在的能力とにわかれる。
 そして、アメリカは、「実力」を評価するシステムになっている。企業が人を採用する場合にも、ある分野のことをこなすことができるという条件で採用する。そして、「実力」の評価には、人間評価は関係ないと、岩田氏はいう。
 これに対して、日本では、一般的な潜在的能力を条件に人を採用する。だから、採用するときには、どのような部署で使うかは決めておらず、研修期間を経て決めることになる。もちろん、当初から決まっている採用もあるだろうが、4月からの大量一括採用の人の多くは、どこで働くかは未定であるし、また、一端就いた部署から変わることも頻繁に起きる。だからこそ、特定の「実力」ではなく、一般的な能力を測って採用を決めるというわけだ。そして、そのことが、日本特有の学歴主義と、競争主義を生んでいることになる。一般的可能性を重視するのだから、大学で何を学んで、どのような「実力」をつけたかではなく、どのレベルの大学に入ったか、という入口の尺度のほうが、「能力」を測るのには適切だということになる。すると、高い評価をえている大学に入るために、その進学率がよい高校、中学というように、入試の論理が作用する。
 そして、可能性を示すことの最終判断地点は、大学入試であり、そこでの評価を、青年たちは自分の評価として受け入れるというのである。
 岩田氏は、二流大学でも、優秀な学生はおり、彼らに一流企業の採用試験を受けるように勧めても、ほとんど受けることすらしないという。それは、二流大学に入った時点で、自分は二流の人間だから、一流企業には縁がないと自己規定してしまうという。
 以前は、就職に関して、大学に対する指定制度があり、トップ企業の採用試験を受けられる大学は制限されていたから、そういうことも多かったろうが、今でもあるのかどうかはわからない。しかし、私が勤めていた大学は、一流大学ではなかったが、確かに、民間企業希望者で、一流企業と言われるところを受けたという話は聞いたことがない。岩田氏のいうことは、今でも続いているのかも知れない。

 さて、では、なぜ日本企業は、特定の「実力」ではなく、潜在的能力を基準に採用するようになったのだろうか。それは私の専門ではないので、詳しくはわからないが、様々な文献によると、新卒一括採用が始まったのが、最初は帝大卒のエリートを三井や三菱が確保するためであり、また、第一次大戦後の好況時に、大量に労働者が必要となったためであるという。それまでは、特定の仕事を随時必要なときに採用していたが(ただし、それも縁故が多かったという)、卒業前の一括採用となると、「実力」を吟味する時間もないだろうし、また、それは採用後に教育すればよいというシステムになっていった。日本的経営の端緒といえる。試験などを行なうこともあるが、戦後しばらくまで、採用は学校を通して行なわれ、学校が推薦する人を採用する仕組みがとられることが多かった。
 そうすれば、学校の水準が重要な意味をもつことは自明であろう。
 つまり、学校の水準で採用することと、特定の領域の「実力」ではなく、一般的な潜在的能力を考慮することは、表裏一体であったということだろう。というより、一括採用を主体とする限りは、特定の領域の実力を測っての採用は、ほぼ不可能である。
 そして、この学校採用を前提として、「偏差値」が入試競争に極めて便利なものとして採用され、浸透していったといえる。偏差値は、特定の実力を示すものではなく、文字通り「一般的」能力を示すものとして理解されるからである。しかし、厳密にいえば、一般的能力などあるかどうかはわからないのであり、偏差値が示すものは、実施される学力テストにおける集団的な位置であるに過ぎない。しかし、集団的な位置であることが、もっとも安全な「一般的潜在能力」を示すものに「近い」と理解されてきた。そして、偏差値による選抜が浸透するにしたがって、学校のランク付けが詳細なものになり、更に、学校を基準にする選抜が強化されるに至った。このことの教育的意味は、次回に考察する。

 岩田氏がこの書物を書いた時期から、いくつかの事情の変化があった。
 ひとつは学校側の事情である。少子化によって、入試競争は緩和され、多面的な入試が実施されるようになって、学校の偏差値は、その学校の一部の生徒や学生の力を示すだけのものになっている。同じ大学の学生でも、偏差値で示される学力テストを受けて入学したもの、偏差値とは無縁の推薦入学やAO入試の者などが混在しているから、特定大学の学生を、そのまま以前のような一定の水準にある学生とは受け取れない状況になっている。
 企業の側では、今や終身雇用は必ずしも守られておらず、学生の側でも、定年まで勤めるという前提で企業を選ぶ者ばかりではなくなっていることである。しかも、一括採用とペアにある企業内教育も、部分的に困難になりつつある。すると、企業としても、「実力」を測って採用することが必要となってくる。
 また、中高年でのリストラを実施するようになれば、当然「実力」をもった人を代わりに採用しなければならない状況にもなる。

 そうしたなかで、入学試験のあり方や教育保障がどのように変化していかなければならないか、次に考察したい。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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